第1章:NAMTAC
■プロローグ
タクとマイは同い年の幼馴染だ。物心ついた時から、二人はいつも一緒にいた。
一人っ子同士だったこともあり、互いの家を行き来するのが当たり前の日常だった。タクの実家は、猫じゃらしや猫用のボールといったペット玩具を製造する小さな町工場を営んでいた。タクの父親が手作業で切り盛りするその工場は、決して大きな利益を出してはいなかったものの、大手ペット用品メーカーとの安定した取引のおかげで、家庭の暮らしは穏やかで満ち足りていた。
運命の出会いは、二人が五歳になった年の、激しい雨が降る日のことだった。
「タク、あそこ! なんか鳴いてる……!」
工場の裏手、打ちつける雨の音に混じって、かすかな消え入りそうな鳴き声が聞こえた。二人が駆け寄ると、濡れてボロボロになった小さな段ボール箱の中に、生まれたばかりの仔猫が震えて丸まっていた。 二人は自分たちが雨に濡れることなど気にせず、ずぶ濡れになりながら仔猫を大切に抱きかかえ、工場の温かい軒下へと飛び込んだ。
「よしよし、もう大丈夫だからね」
タクは自分の身体を拭くこともせず、近くにあった清潔なタオルを手に取り、仔猫の身体を優しく、丁寧に拭いてあげた。その様子を頼もしく見つめるマイと、ずぶ濡れで戻ってきた二人を見て呆れつつも、仔猫の可愛らしさに一瞬で心を奪われてしまったタクの父母。こうして仔猫は、晴れてタク家の一員として迎えられることになった。
その仔猫は、哺乳瓶でミルクを飲むとき、なぜか喉を鳴らしながら「ナムナム……」と聞こえる不思議で愛くるしい鳴き声を上げた。
「この子の名前、ナムにする!」
タクが目を輝かせてそう宣言した瞬間から、タクとマイ、そしてナムの二人と一匹の物語が動き出したのだった。
■迷走と執念
時は流れ、十五年の月日が瞬く間に過ぎ去った。 タクとマイは二十歳になり、ナムは十五歳になっていた。
マイは地元を離れて東京の工学系短大へ進学していたが、幼馴染としての距離感が変わることはなく、二人は毎日のように連絡を取り合っていた。しかし、離れて過ごす時間の中で、タクの環境は劇的な悪化をたどっていた。
前年に愛する母親をガンで亡くしたばかりのタクを、さらなる悲劇が襲う。長年工場を支えてきた大手メーカーとの契約が突如として打ち切られ、経営が急速に傾き始めたのだ。そして、母を追うように、父親までもが心筋梗塞で急逝してしまう。
隣県の大学で工学を学んでいたタクは、学費の支払いが不可能な状況に追い込まれ、大学の中退を決意した。コネも、経営の経験も、ノウハウすらないまま、二十歳の若さで残された町工場を引き継ぐことになったのだ。
「大丈夫だよタク。私も手伝えることがあったら何でもするからね」
電話越しに励ますマイの声に感謝しながらも、現実は容赦なくタクに重くのしかかった。昼は手探りで工場を動かし、夜は新しい猫用品の試作作りに追われる毎日。取引先に頭を下げては断られ、打ちのめされて帰宅する日々が続いた。
そんなボロボロのタクを、いつも変わらず出迎えてくれたのがナムだった。
工場の二階にある自宅へ続く階段を上がると、その足音を聞きつけたナムが玄関までトコトコと歩いてきて、「ナーー」と短く鳴くのだ。
「ただいま、ナム。待っててくれたのか」
タクは身体をかがめ、ナムの頭を撫でる。きっと「おかえり」と言ってくれているのだろうと思う。けれど、当然ながらナムの本当の気持ちが言葉として伝わってくるわけではない。暗い部屋の中で一人、ナムの温もりに触れていたタクの頭に、ふと一つの考えが浮かび上がった。
(もし、ナムと言葉を交わせたら……。本当の親友みたいに、完璧に分かり合えたら、どんなに救われるだろう)
一度芽生えたその思いは、すぐに激しい衝動となってタクを突き動かした。 体は限界まで疲れ切っていたが、タクは大学では専門外だった電子工学と音声解析の専門書を買い込み、独学で研究を開始した。夜な夜な机に向かい、複雑な設計図を書き進めていく。元々の手先の器用さと理系としての資質も手伝い、やがて彼は手作りの「試作一号機」を作り上げた。
それは、脳波測定用ヘッドギアを猫に装着させ、有線コードで大型パソコンに繋ぐという、お世辞にも実用的とは言えない無骨な装置だった。最初は頭に異物を乗せられるのを嫌がったナムだったが、涙目で画面を見つめるタクの切実な様子を察したのか、やがておとなしく装着を受け入れるようになった。
「よし……ナム、実験だぞ」
大好きなご飯を食べているナムの脳波を解析し、モニターに文字が出力される。 緊張の面持ちで見つめるタクの視線の先で、画面にぽつんと表示されたのは――
『コンニャチハ』
という、意味不明な文字列だった。
「……失敗か」
タクは力なく苦笑したが、諦めるつもりは微塵もなかった。東京の短大で工学を学ぶマイとの毎日のメッセージ交換も、回路設計やプログラムのバグを解く大きなヒントになっていた。
■ NAMTACの誕生
さらに二年の月日が流れた。タクとマイは二十二歳、ナムは十七歳になっていた。
東京の短大を卒業したマイは地元企業への就職を決め、戻ってきた。身内を亡くし、一人で苦闘を続けるタクを心配し、マイは足しげく工場へ足を運んでは様子を見ていた。
その頃、タクの執念のプロダクトは製品化プロトタイプへと進化を遂げていた。かつて巨大だった装置は、センサーとマイク、小型バッテリーをなんとか一本の首輪の中に収めたが、さらなる軽量化と小型化が問題として残っていた。喉の微細な振動と脳波の揺らぎを検知し、簡易的なテキストとして出力する仕組みだ。
ご飯を食べているナムの首輪の小さな液晶画面に文字が浮かび上がる。
『うれしいニャ』
「やった……! ナム、伝わったぞ!」
『おいしい』という詳細な感情までは届かない。しかし、「不快」「快適」「空腹」といった大まかな感情のシグナルを確実に捉えられるようになったのだ。タクはこの装置に、己の情熱のすべてを込めて名前を付けた。
『NAMTAC(Neko And Man Translate Access Connector)』
それは会社再建のためでも、ビジネスのためでもない。ただ「ナムと分かり合いたい」という、タクの個人的な執念が生んだ奇跡の結晶だった。
個人的な執念とも言える想いから始まったNAMTACは画期的なペット用品として製品化され、ペットの気持ちを少しでも知りたいという潜在層に刺さった結果、ヒット商品となり、会社再建の一助となったのだった。
■届かなかった言葉
そこからさらに、三年の歳月が流れた。タクは二十五歳、そしてナムは二十歳になっていた。
NAMTACはヒット商品となったが、タク自身はさらにその先の性能を求め、NAMTACの改良を続けていた。マイは工場を訪れた際、最新の試作機に自分の名前がないことに気づき、「不満だなあ」とタクに聞こえるように言いながらマジックでロゴの横に「 -M」と落書きした。「M」はもちろんマイのMである。
こうして改良された最新の試作機である「NAMTAC-M」は、最新の超小型センサー、マイク、振動検知などで、ありとあらゆる情報を集約し、さらにAIを追加したことにより、収集した情報から不足部分をある程度推定して文章化することができる。
…はずだった。しかしNAMTAC-Mのセンサーには偶然にも初期不良が起きており、ディスプレイには何も表示されない状態になっていた。タクはわずかな配線ミスや接触不良を疑って何度も調整を試みたものの、最後までその原因を究明することはできなかった。
毛並みの艶は失われ、日ごとに身体は小さくなり、ナムは横になったまま自力で起き上がることすらできなくなっていった。タクは仕事をすべて投げ打ち、昼夜を問わずナムの傍らに寄り添い続けた。
「ナム……ごめんな、ナム……」
首輪につけられたNAMTAC-Mのディスプレイを、タクは泣き出しそうな目で見つめていた。だが、センサーの初期不良によって、そこには何も表示されていない。
ピリピリとした静寂の中、ナムが薄く目を開けた。そして最後の力を振り絞るように、ゆっくりと首を動かすと、タクの濡れた手元に小さな鼻先をそっと擦り寄せてきたのだ。
微かな温もりと、いつもの鼻先の感触。NAMTAC-Mは何も伝えてくれなかった。けれどタクには、ナムが何かを自分に伝えようとしてくれたこと、そして言葉などなくとも、自分たちが互いを心の底から必要としていたことだけは確かに理解できた。
それが、ナムの最期の行動だった。
小さな身体から完全に力が抜け、ナムの呼吸が止まる。二十年間、共に歩んできた相棒の冷たくなっていく体を抱きしめながら、タクは悔恨と喪失感に苛まれていた。
(こんな機械じゃダメだったんだ……。俺は、ナムの気持ちを何一つ理解してやれなかった……)
もっと話したかった。もっと完璧に向き合いたかった。もう一度だけナムと会い、今度こそ本当の意味で完璧に意思疎通を果たしたい――。
冷たくなったナムを抱きしめながら、タクの胸は引き裂かれるような喪失感に塗りつぶされたのだった。




