15.ゲルトルートと秋花
15.Gertrud und ihr Schicksal: Messerschmitt Me 163 "Syuka"
エーリッヒ所長の読み以上に、日本は戦い続けていた。
対爆撃機用『桜花』はまだだったが、Me 163『秋花』は、7月前半には、最終整備を残し、ほぼ実機が完成してしまった。Me 163が、第三帝国で実用初飛行したときに真っ赤に塗られていたことから、Me 163『秋花』にも同じ塗装が施された。日本人技術者にとっては神社の赤だ。
量産化が厳しい見通しのままであることには変わりないが、設計図の整理や専用工具などを準備するのに、もう少し時間が必要という理由で、実機の日本軍への納入は引き伸ばされていた。
1945年7月16日から17日に日付が切り替わって、1時間ばかりたったころ、空襲警報が鳴らされた。90機ほどのB-29が桑名市上空で投弾体制を取りつつあるという情報だった。桑名はEKMのある鈴鹿に近い。つまり、ゲルティの今の住まい、川野の祖父母の家にも近いということだ。
出産から1か月近く経ってゲルティの安静期間もそろそろ終わりになるが、まだ無理の効かない体だ。B-29が鈴鹿まで空襲範囲を広げた場合、避難するのも、火災が起こった時の消火活動をするのも、不便に違いない。
私は、持ち場の通訳をロッテに任せて、日本女性の標準服に着替え、施設関係者共同利用のために支給されたばかりの自転車に乗って、ゲルティの家へ向かう。
「ゲルティ、川野は?」
「鈴鹿海軍航空隊で、今日は当直」
「念の為、EKMのトンネルまで行きましょう。そうすれば、空襲がここまで広がってきても大丈夫だから」
川野の祖父母にもEKMのトンネルまで行こうと誘うが、川野の祖父も元軍人だったらしく、我先に逃げるのは恥だと動かない。
仕方なく空を見上げる。暗く暑い夜だ。B-29の爆音は聞こえるものの、姿が見えない。そのうち桑名に火の雨が降り始めた。
やっと、いくつかの探照灯が空を照らし、時々B-29の巨体を捉える。B-29は目測で高度3000メートルほどにいる。
「ずいぶん、低いところを飛んでるじゃない?」私が言うと、穂高を背負ったゲルティが答える。
「最近は低高度で侵入して、その高度のまま焼夷弾を落とすらしいの。レーダーに写りにくいから、迎撃が難しいってKawanoが言ってたわ」
「対空砲火もほとんどないのね」
「もう弾薬が不足しているから」
そのうち、桑名市街地のあちこちから火災が起こり始め、空が赤く染まる。
探照灯の光で、ふたたび1機のB-29の姿が浮かび上がる。
と、同時に双発の迎撃機が、B-29へ向かって行くのが見えた。その日本軍機は、ためらう様子も見せず、まっすぐに進んでいった。B-29の機銃掃射が日本軍機に集中する。しかし、そのまま突っ込んだ。
「体当たり攻撃……」私は思わず声を出してしまう。
日本軍機は、B-29の尾翼辺りに当たったように見えた。そして、炎に包まれ墜ちて行く。松田と見た桜の花びらのように、その炎は儚く、とても悲しい。
一方で、体当たりされたB-29は、それでも墜ちず、ふらつきながらも夜の闇の中へ消えて行った。
「あれは、『月光』だわ」ゲルティがポツリと呟いた。
「『月光』って?」
「日本海軍の双発の夜間戦闘機……。鈴鹿航空隊には3機しかないらしいの。そのうちの1機をKawanoが操縦しているはず」
ゲルティが震え始めた。
「まだ分からないじゃない。そうよ、あれは Kawano じゃないわ。空戦は技量の勝負だって、Kawano が言っていたでしょう?」そう励ましながらも、圧倒的物量に技量なんて関係ない、それは川野だって良く分かっているはず……、不安が胸の底からせり上がってくる。ゲルティの動揺がじわじわと伝わってきて、夏の温度が失われていく。
「どうしよう?今日、出かける時、いつもと様子が違ったの」そう言うと、ゲルティは力が抜けたように座り込んだ。私はゲルティが倒れ込まないように支えながら、あの日本軍機は川野が操縦していたのだと確信めいた気持ちになった。
「ドイツ語が出来なくて申し訳ないって言われたの。伝えたい気持ちはたくさんあるのにって」ゲルティが呟いている。
どうすればいい?
「大丈夫。大丈夫」私はそう繰り返すしかなかった。
火の雨は、桑名の街へ変わらず降り続いている。
雨はおよそ1時間後に、やっとあがった。
桑名のあった場所は、火の海に変わっていた。
「ゲルトルートさん」
EKMから松田が自転車でやってきた。ずいぶん急いできたらしい。これ以上ゲルティを追い込まないでほしい。
でも、聞かないわけにはいかない。
それが、戦争の理不尽を押し付けられた私たちの日常なのだから。
「特試に、鈴鹿航空隊から電話連絡があって、川野が……、川野海軍中尉が戦死されました」
あの日、秋桜に囲まれた川野が、優しい声でゲルティに語った言葉を思い出す。
〝だから、自ら散るんだ。そうならないように〟
次の空襲は、日本陸海軍の航空隊基地が集中する鈴鹿になる可能性が高いとの予測から、川野の祖父母と穂高は、川野の実家のある岡崎市へ疎開することになった。
ゲルティは、まだ出産後の安静が必要で、今は育児の出来る精神状態ではないことを考慮し、一旦EKMで預かることになった。
私は、時間の許す限りゲルティのそばにいることにした。川野が作って松田が守っている秋桜の花壇にも連れて行った。ゲルティが行きたいと言ったからだ。
松田が計画したとおりに、秋桜が花を咲かせていた。白い秋桜がずいぶん増えている。ゲルティは眩しそうな瞳で、風に揺れる秋桜を見つめていた。
そのあと、川野との想い出をなぞるように、ゲルティが滑空訓練専用機のMe 163Sを見たいと言うので、作業場へ連れて行く。
「あの赤いのは?」
「あれは、Me 163Syuka。Syukaって秋の花って書くの。秋桜のことよ」
「美しい名前……。戦争の道具に付ける名前ではないわ」
私は、Me 163『秋花』が特攻機であることを、どうしてもゲルティに言えなかった。
話せば、彼女の目に焼き付いているはずの、川野が散ったあの姿を、さらに呼び起こしてしまう気がしたからだ。
「技術者の方、どなたか」ゲルティが日本人技術者に声をかける。
「ああ、BDMのゲルトルート嬢。どうされました?」
私は、ゲルティは嬢ではなく川野夫人だと訂正しかけて、あわてて口をつぐんだ。彼女はもう未亡人なのだ。危うく余計なことを言うところだった。
「白い秋桜を、Me 163Syukaに描いてもらえる?」ゲルティが言う。
「秋桜のマークは、最初から描くつもりだったんで、問題ないですよ。たしかに、白のほうが映えるでしょうね」
その夜、「穂高はいい子でいるかしら?」そう呟くとゲルティが、ブラームスの子守歌を歌い始めた。
「大丈夫よ。優先的に配給された粉ミルクを2缶、お祖母様に持たせておいたわ」
ゲルティの歌声が、あまりにさみしげで、あまりに優しく響いてくるので、私も一緒に歌ってしまう。
あなたのムッティ(ママ)と一緒に歌ってあげる。だから、寂しがらないで。
「Guten Abend,gut Nacht,Mit Rosen bedacht,……Schlaf nun selig und süß,Schau im Traum's Paradies.」
1945年7月19日の深夜。そろそろ20日になろうとする時刻に、再び空襲警報が施設内に鳴り響いた。私はベッドから飛び起き、持ち場の作業場兼中央司令室へ向かった。寝ずの作業をしていた日本人技術者とドイツ人技術者が、静かにラジオを聞いている。私はラジオから聞こえる日本語を、ドイツ語に訳して伝えなければならない。
他のBDMメンバーもそれぞれの持ち場で、同じことをしているはずだ。
「B-29の編隊約100機が、高度を下げながら紀伊半島上空から伊勢湾に向かっているそうです」
施設内の灯りは外には漏れないはずだが、必要最小限にしている。そのうち、B-29のエンジン音が響き始めた。
私は数人の技術者たちと外に出て上空を見てみる。雲の下、高度約4000メートルほどの私達の頭上を、伊勢湾方向へ満月よりも大きな機影達がゆっくりと、途切れずに横切って行く。目標はどこだろう。
「目標はOkazakiらしいわよ」
駆け寄ってきたロッテが言った。B-29が岡崎上空で編隊を整え、投弾体制に入ろうとしているらしい。
「ゲルティは?」
「ハンナと一緒だと思ってたけど。いないの?」
「ここには来ていないわ」
私は施設内の居住区画へ急ぐ。まだ、安静期間が終わったばかりで無理もできない体の上に、3日前にあんな事があったばかりだ。しかも、よりによって岡崎が空襲目標だという。ゲルティの側にいなければ。
ゲルティの部屋を覗いてみる。
ゲルティがいない。
私は、ゲルティの以前の持ち場だった通信室へ向かう。
途中で松田とすれ違う。
「ハンナ。牽引車が動いているらしいんだ。なにか知ってるかい?」
「いえ、知らない。それよりゲルティを見かけなかった?」
「いや、見てないな」
通信室にもゲルティはいない。
また私は、引き返して外に出てみる。
飛行場の薄暗い緑色照明がついている。どうして?
隅っこの方に何かある。嫌な予感がして私はそちらの方へ走った。
飛行場全体が、緑色のぼんやりとした照明に浮き上がっている中、月が西の雲の隙間から顔を出してきたらしい。その光が雲を照らし、小さな海周辺もほんのりと明るくなった。さらに視界が確保される。
湿り気を帯びた空気の向こう、滑走路の中間辺りに消火設備が準備され、防護服を着た数人が待機しているのが見える。
そこには、赤く塗られ胴体に白秋桜のマークが描かれたMe 163が置かれている。
「あれは!」
キャノピーが開いている。
「誰が、あれを出せと言ったの?」私は駆け寄りながら大声で叫ぶ。
そのとき。
日本海軍の飛行服を着て、左袖にハーケンクロイツの腕章をつけた金髪の少女が、Me 163に近づくのが見えた。手には白秋桜を持ち、白いマフラーをしている。
「馬鹿な!」
Me 163が揺れる。たった今、彼女が乗り込んだ。
誰?まさか!
走り寄った私は、止めようとして、やっとMe 163の翼に手をかけることができた。
乗っているのは、金髪の誰よりも良く知った顔。
「ゲルティ!」
操縦席の横に、白秋桜が置かれたのが見えた。
「ゲルティ。あなた、何をするつもりなの?」
肩で息をしながらも、なんとか声を絞り出すことができた。
ゲルティは私の方を向いて、取り返しのつかないほどの美しい顔で、かすかに微笑んだ。
「ハンナ。あの日、Kawanoは私にこう言ったの。『俺がドイツ語を話せれば、もっと君に気持ちを語ることが出来た』って。……今はこう思うの。『Kawano。私が今より日本語が上手だったら、もっともっとあなたに気持ちを語ることが出来た』って」
「そのMe 163に乗ってはダメ!それは、帰れない飛行機なのよ」
「ハンナ。そんなこと分かってるわ。だから行くの」
「なぜ、こいつを出した!」後ろから牽引班や消火班に向けた松田の怒鳴り声が聞こえる。
「Matsuda!ゲルティを止めて!」
「なんだって?」
「これに乗ってるのはゲルティなのよ!」
「ゲルトルートさん!そいつはきちんと整備もされてない。しかも、そいつはMe 163じゃない。『秋花』だ!」
「そうよ。ゲルティ!それはKamikazeなのよ。花なんて操縦席に置いてはダメ。そんなの美しくはないの。Kamikazeを美化するプロパガンダなのよ」
「そうね。私には日本人の桜への気持ちはよく分からない。だから、秋の桜を持っていく。語られなかった想いの象徴として。静かな別れの象徴として。これが、ドイツ女子同盟、ゲルトルートの矜持です」
「ゲルティ!お願い降りて!絶対に嫌だ!」
「私とKawanoの子供、穂高がOkazakiにいる。死んでも守る」
「ゲルティ!」
「ハンナ、今までありがとう。じゃあ、行くわね。離れてて」
そう言うと、ゲルティはキャノピーを閉めた。
「ゲルティ!」
声が震え、次の瞬間には絶叫になっていた。
松田が、「ハンナ。危ない」と言って、私の肩を両手で掴んで『秋花』から引き離した。
ゲルティは、その美しい顔に頬笑みを浮かべながら、まるで金髪の髪を抑えるように、日本海軍式敬礼をとった。
そして、ゲルティの乗った『秋花』は、ドン!という爆発的な音で滑走路を震わせると、即座に加速して急角度で飛び上がり、白い煙を曳きながら山に遮られて見えなくなった。
それが、ゲルティを見た最後だった。
B-29の投弾が始まったようだ。小さな海の東の山側の空が、赤く染まっているのが分かる。
ゲルティの『秋花』は、高度1000メートルほどで、おそらく燃料漏れによる小さな爆発を起こし、破片を撒き散らしながら燃え上がったらしい。
コントロールを失った『秋花』は、ふらふらするように見え、その炎の明るさのあまり、周囲が昼間のように照らされたという。そして最後に大きな爆発を起こし、夜に消えていったということだ。
化学反応による特異な炎の色や、低高度での爆発から、子連れの火の玉が、手の届きそうな距離を飛んでいったと誤解する人もいたらしい。
違うわ。
あれは私のカメラーディン(同志、Kameradin)であり、親友だったゲルティが、高度1000メートルで、我が子、いいえ、あなた達の未来を守ろうとして散っていった姿なのよ。




