14.エーリッヒ少将の決意とゲルティの歌声
14.Der Entschluss von Konteradmiral Erich und Brahms’ Wiegenlied
私はエーリッヒ少将を、信じることに決めた。
私には少将を見極めるのは難しい。でも、少将が危ない綱渡りをしながら、EKMを守ろうとしている事は分かる。それが、軍人としての野心からではなく、正義や愛情によるものであることも……。
そして、少し羨ましいけれど、その中心にはグレーテという存在がある。
凄惨な戦場にこそ、そういった美しい感情が隠されていても良いんじゃないかしら。そう思う。
最近は、エンジン技術者やロケット燃料扱要員の一部に、冷蔵・冷凍設備を造らせるための研究をさせている。少将のことだから、きっと深い思惑があるのだろう。
少将は以前、日本女性と結婚すると言った。おそらく、グレーテにも日本人との結婚を求めるだろう。私たちは日本人と同化しなければならないのだから。
でも、エーリッヒ少将は、私たちの未来を幸せにするとも言った。それは、近い将来ではなく子孫の時代をも見据えた言葉なのだろうと私は思った。
「ねぇ、グレーテ。あなたは少将を慕っているんでしょ?その気持ちは少将には伝えたの?」
「伝えたわ。でも、生まれ変わってからじゃないと、君とは一緒になれないって言われたの」
「生まれ変わりなんて、私たちの信仰には存在しないわよ」
「そうね。だから振られちゃったってことなのよ」
「落ち込まないでグレーテ。少将もキリスト教徒でしょ?本当にそう言ったの?」
「想いは続いていくものだって……。いつか、どこかで繋がるって」
「あら。すごくロマンティッシュ(romantisch)じゃない?」
「そうかしら……?」
「少将らしいと言えばらしい表現だけど……。それって、結婚は子孫に託そうっていう〝約束〟の言葉じゃないかしら?」
「でもね、ハンナ。子孫は私ではないのよ」
「少将は、日本人と同化してEKMのみんなを守るつもりなのよ」
「それは分かってるんだけど……」
「じゃあ、二人で長生きして見届けましょうよ。少将やあなたの子孫が〝約束〟を守るのか」
しばらく経って、先日の会議席上で会った日本海軍少将からグレーテへ結婚の申し込みがあった。
その直後、エーリッヒ少将と小さな海の岸辺で話す機会があった。小さな海を利用した波力発電装置が作れないかという少将の提案で、技術者数人と連れ立った際の通訳として同行したときのことだ。
「ふむ。やはりブンカー内に発電装置を作るのが一番良いかな。上空からも隠せる」、「係留区画一つを潰して、居住区画の照明を賄える程度かな」、「しかし、補助電源としてはないよりはあったほうがいいかな」
そういった少将の考えをひと通り日本人技術者のために通訳したあと、私は気になっていたことをこっそり聞いてみた。
「エーリッヒ少将。この前の会議にグレーテと私を連れて行ったのは、実はお見合いの意図があったのですね?」
「ん?いや、偶然だよ」そう言うと少将は瞬きを繰り返した。
「最近、少将が嘘を言っている時の癖が分かるようになってきました」
「岸本海軍少将は、強い意志を持った聡明な方だ。物腰も柔らかい。マルガレーテには良いと思うよ」
「申し訳ありません。私は陸軍少将から見初められなくて」
「いや、だから偶然だと言っただろう?そもそも陸軍少将は既婚者だよ」
「おや、私の勘違いでしたか。しかし、岸本海軍少将は特攻推進派ですね。私は好きになれませんが」
「本当にそう思うかな?彼は軍務としてそう言っているだけで、本心はどうだろうね」
私は、その言葉に以前、秋桜の花壇で川野や松田と交わした会話のことを思い出した。戦争は語ることさえ奪っていく。
ふと気づくと、同行した技術者の中に松田がいて、少将の発案をどうすれば具体化出来るか、日本語とドイツ語で話をしている。あれ?松田がいれば私は不要だったのでは?
「あっ!」
「どうした?ハンネローア」
「少将。私たちの車の助手席にMatsudaがいました。なぜでしょうか?」
「技術者の車が定員いっぱいだったからだよ」少将が瞬きを繰り返しながら言う。
「少将の気遣いだったのですね?」
「まあ、そうとも言えるかな。松田も君もお互い惹かれ合っているだろう?見ていれば分かる」
呆れたような、保護者のような、どちらとも取れる表情で少将は続けた。
「そろそろ桜を見に行こうと松田から誘いがあると思うよ」
「なるほど、それも少将の入れ知恵でしたか」
「おや。もう誘いがあったか?」
「ありました。明日トンネルを抜けて桜を見に行きます。あの花がどんなふうに人の命を奪おうとするのか、それを確かめるためです」
「君らしいな。そんな理由はどうでもいいから行ってきなさい。明日は空襲でもない限り休暇にしてあげるよ」
そう言う少将は瞬きもせずにまっすぐこちらを見ていた。これは嘘ではないらしい。
翌日の正午頃に1台の車が迎えに来た。
私は、鈴鹿海軍航空隊の会議に同行したときと同じ装いだ。私にとってはこれがいちばん改まった服になる。
ただし今日は私用なので、腕章はつけていない。腕章を外すと袖がどこか物足りなく見えて、昨夜、代わりに刺繍を入れておいた。秋桜にしようかと思ったが、桜を見に行くのにそれも変な気がして、結局、花とも葉ともつかない、小さな蔓の図案に落ち着いた。
松田と一緒に後部座席に並ぶ。
「運転兵。鈴鹿の桜並木の一番美しいところへ連れて行ってくれ。同盟国の御婦人が桜を見たいとおっしゃられておる。私は随行する」
「はっ!中尉殿、発進いたします。ですが、人目の少ない場所がよろしいでしょうか?」
「任せる」
車は小さな海のトンネルを抜ける。トンネルの出入り口は赤い大きな建物で隠されている。建物はハリボテで、裏面と正面に大きな扉があって、その扉を開ければ大型車も通過できる。赤い建物の正面に当たる位置には、日本の神域を象徴する鳥居という巨大な赤い門がある。車はその門をくぐり抜けて進む。
「あれは、神社を装った特試への出入り口を隠す建物なんだ」松田が説明する。
「神社って、第三帝国の教会のようなものと考えれば良いのかしら?」
「そうですね。これは本物ではないけど」
「どうして赤く塗られているの?」
「赤は『神の世界』と『人の世界』を分ける境界色なんだ。もともとは太陽や火や血の色で魔除けの意味から始まったようですよ」
「では、EKMはあなた方にとって異教の神ってことかしら?」
「それだと、特試に常駐している私も異教の神になるね。そんな深い意味はここにはないです。ただの隠蔽用の偽物ですよ」
そんな会話をしていると、運転兵が車を止めた。
「中尉。こちらではいかがでしょうか?」
「うん。人も少ないし、桜も多い。ここで良い。そのまま待機」
「はっ!」
「では、ハンナ。降りましょうか。お手をお貸しします」
車から降りて見た桜は、雪が降るように花びらを降らせていた。どの桜の木も、まるで申し合わせたかのように花びらを散らしている。
風が少し強く吹いた。その途端、まるで吹雪のように花びらが舞う。その花びらの一つ一つが太陽の光を透かしながら、途切れることなく降り注ぎ、舞っている。
その様子は、儚く美しく、そしてなぜか死を思わせる。
周りの音が、急に遠のいたように感じる。私は、惹きつけられ、桜から目が離せなくなる。
「ハンナ。大丈夫かい?涙が」
松田が心配そうに声をかけてきた。
「え?泣いてる?あ、本当だわ」
松田に言われるまで、頬に涙が伝っているのに気づくことすらできなかった。私はそれでも桜から目が離せない。
「どうですか?満開の時とはまた違った美しさがあるでしょう?」
「ええ。この花の美しさは……」また、風が吹いた。吹雪のように花びらが舞う。「とても危険だわ」
EKMに戻ると、松田から秋桜の花壇も見に行かないかと誘われた。
「秋桜は秋に咲くのではなくて?」私は不思議に思って松田に聞く。
「秋桜は日が短くなると咲くんです。だから秋に咲く花なんだけど、ここは山の谷間だから春でも日が短い。去年の11月に川野と種を巻いておいたんです。そうしたら予想通り花が咲いた」
秋桜の花壇に行くと、前に見たときよりも白い秋桜が増えていた。以前、松田がこの花壇を全部白い秋桜にしたいと言っていたことを思い出した。
「今度、秋桜が咲くのはいつになるの?」そう言って振り返った瞬間、カシャっとシャッターの音がした。松田がカメラを向けている。
「うん。たぶん、うまく撮れたな。焼き上がりのお楽しみだ」
「写真を撮るって言ってもらえれば、正面を向いたのに……」私が不満を言うと、松田は「いや、ハンナの自然な表情が欲しくて」と、言い訳をしながら笑った。
「写真も良いけど。まだ、私の質問には答えてもらってないわよ」私も笑いながら松田に返す。
「そうだな。いま種まきをすれば、ここの環境なら7月後半くらいにはまた咲くかな。今度はもっと白い秋桜を増やすよ」
こういった何気ない会話が、日々の緊張を薄れさせ、とても心地よく感じる。
「ねえ、Matsuda。これからは今みたいにくだけた口調で話してくれないかしら?丁寧だったり、くだけていたりすると、Matsudaにはどういう日本語を使えば良いのか、混乱しちゃうのよ。それともドイツ語で話をする?」
「ああ、悪かった。女性との距離感をうまく掴めなくてね。Ich pass’ ab jetzt besser auf.(これからは気をつけるよ)」
「ええ、そんな感じだわ」松田の誠実さを感じる。
「じゃあ、戻ろうか。今日は一緒に桜が見られて良かった」
「ええ」
私は、当然、次の言葉があるはずだと思って、松田としっかり目を合わせながら間をおいた。松田の口元が開き、声を出そうとしたらしい瞬間、松田は目を逸らすと背中を向けて歩き始めてしまった。
松田。言葉にしてくれなければ、何もないのと同じなの。私は、あなたたちとは違うのよ。
1945年5月。総統が自殺し、ついに第三帝国が無条件降伏したという情報が入ってきた。
私の中では、総統の計画も、私たちが日本に来た意味も、第三帝国の誇りとともにすでに失われていたが、さらに心の大きな柱が一つ崩れ落ちたような気がした。
気持ちが沈んで、いつの間にか秋桜の花壇へ足を運んでいた。そこには、若草のように柔らかい緑が地面から顔を出していた。7月には咲くのだろうか?今度はさらに白い秋桜が増えているのだろうな、と思いながら、持ち場へ戻る。
その途中、日本人技術者に声をかけられたような気がしたが、今は顔を上げることもできない。今のは松田だったのかもしれない。あとでそう気づいたが、振り返る勇気がなかった。
私たちは負けたのだ。もはや日本の同盟国ですら無い。総統からも裏切られ、捨てられた。惨めな気持ちだった。これからの私たちはどうなるのかしら。日本軍に組み込まれることになるのだろうか?
「ハンネローア。水脈は開いておいたと言っただろう?」
「その水脈が何を意味しているのか、まだ私にはよく分かりません」
「一義的には、日本軍部の中での我々の立ち位置のことだよ」
「戦闘機技術組織としての価値、という意味でしょうか?」
「それも一つだが、技術だけでは足りない。危険思想を持っていると判断されれば、どれほど有能でも排除される。だから私は、極端な民族主義を捨て、我々は日本にとって扱いやすい存在だと印象づけてきた」
「……事を運びやすいような土台を整えたということでしょうか?つまり、思想の芽を植え付けたということですか?」
「そのつもりだよ。まだまだ小さな水脈だが、未来へ向けた流れになるはずだ」
「ですが、これからはどうなるのでしょう?第三帝国はもうありません」
「私は、敗北すると言ったはずだよ。何も変わらない」
「そうでしょうか?」
「我々の技術力は日本軍部も理解している。陸海軍の確執とは無縁の独立組織として維持するほうが、彼らの利益にもなる。日本人との同化も、日本側からの発案でもある。だから、我々を簡単には手放さないはずだ」
「少将が、そう仕向けたのですね」
「生存戦略だよ。私は正しい判断だと思っている。どうかな?何も変わらないということは分かっただろう?」
「しかし、もう同盟国ではないのですよ。第三帝国はなくなってしまったのですから」
「そうだな。祖国の後ろ盾がなくなって民間組織に変わっただけだ。指揮権も内部体制も何も変わらない」
「エーリッヒ少将。申し訳ありません。『思想教育部隊』の責任者に任命されながら、私は日々の持ち場業務を優先し、思想教育を怠ってきました。何も始まっていないまま終わってしまいました」
「君はまだ誤解してるな。祖国の終わりが思想教育の終わりではないよ。むしろ始まりだ」
「始まり……と、申しますと?」
「これまでどおりでいい。『思想教育部隊』とは言ったが、私の考えるそれは祖国の思想ではない。大日本帝国の皇国史観でもない。私の思想と日本人の感性が融合されたまったく新しい思想のことだ。それを君には少しずつ伝えてきたつもりだよ」
「真のアーリア人による暴走なき民族主義の理想国家……ですか?」
「そうだ。君は、自分の意志で、客観的に判断してくれるはずだ。もう賛成してくれているだろう?」
「そうですね。少将の言う国家が実現できれば、素晴らしいと思います」
「君は、冷静で優しい視点を持ち、人望もある。なによりも信念に裏付けられた正義を持っている。そういった特性をもっと伸ばしていく。今はそういう段階だ。君に動いてもらうのはもう少し先だ」
「もう少し先?」
「次は日本が上手に敗戦してくれるのを待つ。私はあと1、2か月と見ている。それまでは、Me 163『秋花』の開発を、完成しない程度にゆっくり進めておけばいい」
そう言うと少将はしばらく黙り込んだ。まだ私は席を立つ気配を見せていないのに、もう話は終わりにしようとの合図だろうか?
と、そのときエーリッヒ少将が不意に口を開いた。
「ハンネローア。エルベ特別攻撃隊が4月に実戦投入された。大きな戦果もなく100名余の若い命が散ったということだ」
エーリッヒ少将は部屋の隅に視線を向けながら、もっとずっと遠くを見ているような表情で、片肘をつき顎を支えていた。軍人だった昨日までなら絶対に見せない仕草だ。
「特攻機には〝空襲で焼かれた母を、子を思え!〟という無線通信が、ずっと流れていたそうだ。悪魔になったはずの私でも、耐えられぬ苦しさだよ。こういうとき、日本人ならどうするんだろうね?」
「少将。私はその質問にはお答えできません」
「そうか……。だが誤解はしないでくれ。私は岸本海軍少将の心配をしている。部下を大勢死なせてしまった時、自分の命で償うのが日本軍人の考え方だとは思わないか?」
「あっ……B-29用の『桜花』を造らせてはいけません。グレーテが不幸になります!」
「そうだな。対爆撃機型『桜花』の開発はEKMでやらせてくれというつもりだ。日本の敗戦までに間に合わせないようにね」
グレーテが岸本海軍少将と結婚し、岸本マルガレーテになった。これで10人のBDMメンバーの中で結婚していないのは8人になった。どうして仲良しばかりが結婚するのかしら?小さな海の岸辺で、ロッテとそんな話をした。
EKMの試作機操縦者の一部が配置替えとなり、ゲルティの夫である川野が鈴鹿航空隊へ移された。
変わったことと言えばこのくらいで、エーリッヒ少将、いえ、今はエーリッヒ所長の言ったとおり、第三帝国が崩壊してもEKMの在り方は、何も変わらなかった。
対爆撃機型『桜花』の開発は、搭載爆弾の小型化や燃料の増量、カタパルト発進装置の追加など、再設計が必要だという名目で、EKMが引き取ることに成功した。
旧第三帝国の技術者の中には、Me 163『秋花』や、特に日本製『桜花』のような特攻機の開発に反対する声もあった。おそらく日本人技術者の中にも同じ思いを抱く者はいたはずだ。
だがエーリッヒ所長は、そうした声を逆に利用して、命を散らす特攻機だからこそ、敬意をもって、より丁寧に、より完璧に作り上げるべきだ。そう言って、技術者たちの職業倫理を巧みに刺激していた。
その言葉の裏には、終戦には決して間に合わせないという所長の確かな意思が感じられた。
およそ1か月後の6月20日、うれしい報せが舞い込んできた。ゲルティが出産したのだ。男の子だという。
すぐに、私はゲルティの住む北の川沿いの家へ行くことにした。
髪を黒く染め、地味なブラウスに、ゲルティが以前言っていたモンペを合わせ、日本人女性らしく髪をまとめて、刺し子で補強された防空帽を被った。
ゲルティの話では、日本女性はこの格好をあまり好まないらしい。だが、私たちドイツ人は合理的なものを好む傾向がある。動きやすくて、私はむしろ気に入った。
この日本女性の標準服は、ゲルティの出産が近いと聞いたとき、日本人技術者に頼んで作ってもらったものだ。私たちは平均的な日本女性より背が高いので、その技術者の体型に合わせて仕立ててもらったら、思ったとおりぴったりだった。使った布は、これもブンカーの垂れ幕を染め直したものだ。
さて、あとは松田の自転車を借りるだけだ。
「Matsruda。自転車を貸してもらえる?」
松田は声の主である私を見るなり、口を開けて動かなくなってしまった。そしてしばらくして「ああ、ハンナか。いや、似合っていると言うか、いつもと違うというか、びっくりしたよ。黒い髪もすごく良いね」と言って、今度は下を向いてしまった。
珍しく直接的な言葉で、松田が褒めてくれたことに少し驚いた。松田も自分の口から出た言葉に驚いたみたいだったけど。
「あれって、BDMのハンナ嬢か?」周りの技術者もコソコソ話をしている。
そんなに、イメージが違うのかしら?普段の私はどんなふうに見えているのだろう。
「自転車に乗ったことは?」松田がたずねてくる。
「あるわよ。もう何年も前だけど」
「持って来るから、そこで乗ってみてもらえるかな」そう言って、松田が作業場の隅に置いてあった自転車を持ってきた。私は自転車にまたがってこいでみる。最初は少しふらついたが、問題ない。
「うん。大丈夫そうだ。トンネルの中は照明があるけど、軍用大型車が通ることもある。端っこに寄って走ること。あと、あんまり端っこに寄りすぎると、今度はいつのまにか壁に吸い寄せられて、腕を擦ることもある。それにも気をつけるんだ」
「大丈夫よ。心配しないで。じゃあ、借りるわね」
自転車も貴重品なのに、私の心配をするなんて松田らしいとは思ったが、優しいだけじゃだめよ。私から言わせるつもりじゃないでしょうね。
第三帝国崩壊後は、髪を黒く染めればトンネルを抜けることが許されるようになった。ただし、EKM関係者の生活圏から、あまり遠くへ行かないように注意されている。アメリカ人と勘違いされる恐れがあるからだ。
ゲルティの家に近づくとドイツ語の優しい歌声が聞こえてきた。聞き慣れたゲルティの声だ。
Guten Abend,gut Nacht,
Mit Rosen bedacht,
Mit Näglein besteckt,
Schlupf unter die Deck':
Morgen früh,wenn Gott will,
Wirst du wieder geweckt.
Guten Abend,gut Nacht,
Von Englein bewacht,
Die zeigen im Traum
Dir Christkindleins Baum:
Schlaf nun selig und süß,
Schau im Traum's Paradies.
(おやすみ、よい夜を。
バラの花に包まれるように、
小さなカーネーションを飾ったように、
そっとお布団にもぐりこんでね。
明日の朝、神の御心のままに、
また優しく目を覚ませるでしょう。
おやすみ、よい夜を。
小さな天使たちが見守っているわよ。
夢の中では、
幼子キリストの木を見せてくれる。
だから安心して、幸せに眠ってね。
夢の中で、天国のような世界を見られますように。)
「ブラームスの子守歌ね。でも、まだ夜じゃないわよ、ゲルティ」
「ああ、ハンナ。来てくれたの」
「あのゲルティが、すっかり母親の顔になっちゃったわね」
まだ、安静が必要で横になっていたゲルティが、ゆっくりと上体を起こし、ゆりかごに目を向けながら、私の言葉に馴染みのある微笑みを返した。
「小さいでしょ?」
そう言いながら嬉しそうに笑っているゲルティの顔が、これまでの幼い美しさから、強い美しさに変わったように見えた。
「可愛いわね。お人形みたい」
手のひらに指を押し付けると握り返してくる。本当に素敵な赤ちゃんだわ。
「穂高って名前にしたの」
「Hodaka?どういう意味なの?」
「私の名前を、日本的にしてみたの。ゲルトルートって、槍を持った守護者って意味があるのよ。その槍の穂先を、麦の穂に見立ててね。実り高く、気高く育つようにって。それで、穂高」
「素敵な名前!」
「あのね。ハンナ。この戦争が終わったら、穂高にピアノを教えるつもりなの。ブラームスのように、ピアニストから偉大な作曲家へと羽ばたいてくれたらいいなって」
未来を創りたい、エーリッヒ所長が語った言葉が、まるで自分自身の声のように胸の奥から響いていた。
「すぐに来るわ。そんな時代が」




