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HEAVEN  作者: 二千年の亡霊
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8/9

君がいる時代

夏が終わりかけていた。

あの丘の蝉も少しだけ鳴き声が弱くなっている。

俺はベンチに座って隣にいる彼女を見た。


「これ、見てみる?」


そう言ってスマホを差し出した。

画面に映っていたのは、一枚の古い写真だった。

まだ子どもだった俺と陽菜。

二人とも笑っている。

何の変哲もない写真。

でも俺にとってはそれだけで特別だった。


「……かわいい」


彼女が笑った。


「だろ?」


「悠真さんも?」


「俺じゃなくて、こっち」


指で陽菜を指す。

彼女は写真をじっと見つめた。


「この人が、陽菜さん?」


「ああ」


しばらく沈黙が続いた。


風が吹いて彼女の髪が揺れる。

その髪を彼女はいつものように耳へかけた。

俺はもうその仕草に陽菜を重ねなかった。


似ている。


でもそれだけだった。


「……幸せだったと思いますよ」


彼女が突然そう言った。


「え?」


「陽菜さん」


彼女は写真を見たまま続けた。


「こんなふうに笑ってる写真が残ってて、こんなに長い間、覚えてくれてる人がいるんでしょう?」


「……」


「だったら、きっと幸せだったと思います」


胸の奥が痛くなった。

悲しい痛みじゃない。

ずっと固まっていたものがゆっくり溶けていくような痛みだった。


「俺は……」


言葉が止まった。


「陽菜が死んでから、ずっと思ってた」


俺は空を見上げた。


「もっと何かできたんじゃないかって」


もっと一緒にいればよかった。

もっと笑わせればよかった。

もっと早く何かに気づけたんじゃないか。

そんなことばかり考えていた。


「でも、たぶん違ったんだよな」


「何が?」


「俺が欲しかったのは、陽菜の未来だったんだと思う」


彼女は黙って聞いている。


「もっと生きてほしかった。大人になってほしかった。一緒にくだらないことで笑って、歳を取って……そういう未来が欲しかった」


自分で言葉にしてみて初めて分かった。

俺は陽菜の死だけを悲しんでいたんじゃない。

陽菜と一緒に迎えられなかった未来をずっと悲しんでいたのだ。


「だから、あの頃の俺は……陽菜を忘れないことが生きることなんだと思ってた」


彼女が俺を見る。


「でも違った」


俺は笑った。

ほんの少しだけ。


「陽菜を覚えてるために生きるんじゃない」


風が吹く。夏の匂いがする。


「陽菜と出会えた人生を、ちゃんと生きるべきなんだと思う」


口にした瞬間涙が出た。

自分でも驚くくらい静かに。

彼女は何も言わなかった。

ただ隣にいてくれた。

それだけでよかった。

俺は涙を拭った。


「……ごめん。こんな話」


「いいですよ」


彼女は笑った。


「私、聞けてよかったです」


「何が?」


「悠真さんが、その人のことを大切にしてたって分かったから」


「……そうかな」


「はい」


彼女は空を見上げた。

夕焼けが雲の隙間から差している。


「きっと、その人が今の悠真さんを見たら、安心するんじゃないですか」


俺は答えなかった。

答えられなかった。

ただ空を見た。

昔、陽菜と一緒に見た空。

あの日と同じ色だった。


でも。


あの日とは少し違って見えた。


「なあ」


「はい?」


「また来年、ここに来ようか」


彼女は少し驚いたあと、笑った。


「いいですね」


「その次も」


「はい」


「その次の次も」


「……気が早いですね」


二人で笑った。


その笑い声が丘の上に広がっていく。


俺は思った。


陽菜。


君がいる時代に生まれてこられたこと。

それだけで俺の人生は確かに変わった。

君と出会った。君と笑った。君と泣いた。


君を失った。


そして。


君を失ったあとも俺は生きている。


それは君を忘れたからじゃない。


君がいたことを抱えたままここまで来たからだ。


空を見上げる。

太陽は、もう沈みかけていた。


それでも世界は暗くならなかった。

残った光が空を赤く染めていた。

俺はその光を見ながら思った。


あの日、陽菜が言った言葉を今でも覚えている。


――悠真が太陽だったらいいのに。


昔の俺はその意味を知らなかった。

ただ陽菜を照らせる人になりたかった。


ずっと隣にいて、ずっと守って、ずっと笑わせて。


でも。


今なら少しだけ分かる。

太陽は、一人だけを照らしているわけじゃない。

誰かを照らした光はその人の中に残って、また別の誰かを照らす。

俺は立ち上がった。


「帰るか」


「はい」


俺たちは丘を下りた。

夕暮れの道を並んで歩く。


ふと彼女が俺の手を取った。


「……?」


「どうしました?」


「いや」


昔の記憶が一瞬だけ胸をよぎった。


あの夏、陽菜と繋いだ手。

でも今、俺が握っているのは陽菜の手じゃない。


この人の手だった。


だから俺は……


ちゃんと握り返した。

夕暮れの中を。

二人で歩いた。

もうすぐ夏が終わる。


けれど、俺の夏はあの日からずっと続いていたのかもしれない。

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