太陽になって
あれから何年経っただろう。
夏が来るたびに、俺はあの丘を思い出す。
蝉の声、焼けたアスファルト、夕方の風。
そして、あの夏を一緒に歩いた女の子のことを。
陽菜。
俺の人生でたった一度しか会えなかった人。
……そう思っていた。
でも本当は違う。
陽菜には何度も会っている。
夏の空を見上げたとき。
誰かが笑ったとき。
長い髪が風に揺れたとき。
ふとした瞬間にあの夏は俺の中へ帰ってくる。
だから俺は、もう陽菜を探していなかった。
今日は家族であの丘に来ていた。
「パパ、はやく!」
少し先を走っていた子どもが振り返る。
「走ると転ぶぞ」
「だいじょうぶ!」
元気な声。
俺は笑いながら追いかけた。
丘の上に着くと子どもは芝生に座り込んだ。
「あつーい!」
「そりゃ夏だからな」
「太陽さんまぶしい!」
「帽子かぶれって言っただろ」
俺が帽子をかぶせると子どもは少し不満そうな顔をした。
その顔を見て、妻が笑う。
「ほんと、昔から心配性だよね」
「そうかな」
「そうだよ」
俺も笑った。
子どもは帽子を押さえながら空を見上げている。
俺はその横顔を見つめた。
すると。
子どもが突然言った。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「ここ、前にも来たことある?」
俺は少し驚いた。
「初めてだろ?」
「そっか……」
子どもは首を傾げた。
「なんか、知ってる気がする」
俺は何も言わなかった。
風が吹く、草が揺れる、遠くで蝉が鳴いている。
そのとき。
子どもが自分の髪を耳にかけた。
何気ない、よくある仕草だった。
ただそれだけ、なのに…
胸の奥がほんの少しだけ震えた。
陽菜もよくそうしていた。
昔、俺が何度も見ていた仕草。
「……どうしたの?」
子どもが俺を見る。
俺は笑った。
「なんでもない」
「変なの!」
「そうだな」
俺は子どもの頭を撫でた。
いつかどこかで陽菜が生まれ変わったとしても俺にそれを確かめる必要はなかった。
陽菜には陽菜の人生があった。
そして、この子にはこの子の人生がある。
俺はもう過去を取り戻したいとは思わない。
ただこの子がこれから見る夏を。
この子がこれから出会う人を。
この子がこれから好きになるものを。
その全部をちゃんと大切にしてやりたいと思った。
「パパ」
「ん?」
「手!」
小さな手が伸びてくる。
俺はその手を握った。
あの日陽菜と繋いだ手を思い出す。
あのときの俺はこの手を離したくなかった。
ずっと隣にいてほしかった。
死なないでほしかった。
できるなら二人で同じ未来を生きたかった。
でも人生は思い通りにはならない。
誰かを永遠に隣に置いておくことなんてできない。
それでも一緒に過ごした時間は消えない。
もらった言葉も、笑顔も、涙も、その人が生きていた証も。
全部自分の中に残っていく。
そしていつかそれを誰かに渡していく。
俺は子どもの手を握りながら、空を見上げた。
太陽が、まぶしい。
昔、陽菜が言った。
俺が太陽だったらいいのに、と
あの頃の俺は、陽菜を照らしてあげたいと思った。
病気も、不安も、悲しみも、全部消してしまえるくらい強い光になりたかった。
でも今なら分かる。
太陽は誰か一人のためだけに輝いているわけじゃない。
今日俺を照らした光は明日、別の誰かを照らす。
その人がまた誰かに笑いかける。
そうやって光は少しずつ渡っていく。
俺は子どもの手を握り直した。
「行こうか」
「どこに?」
「帰ろう」
「うん!」
俺たちは丘を下り始めた。
夕方の道、焼けたアスファルト、蝉の声。
昔と何も変わらない。
なのに、俺の見ている景色は、もう違っていた。
ふと、子どもが振り返った。
「パパ!」
「ん?」
「来年もここ来ようね!」
俺は笑った。
「もちろん!」
来年も。
その次の年も。
何度でも。
夏が来るたびに。
俺はこの場所へ来るだろう。
陽菜を忘れないためじゃない。
陽菜がいたことを抱えたまま自分の人生を生きるために。
そしていつかこの子が大人になったとき
自分の大切な誰かと、この場所に来る日が来るのかもしれない。
そのとき俺はもう隣にはいないかもしれない。
それでもこの夏の光がほんの少しでも、この子の中に残っていたらいい。
それで十分だ。
空を見る。
太陽が沈んでいく。
赤く染まった雲の向こうへ。
けれど太陽が沈んでも光はすぐには消えない。
空に残って、道に残って、誰かの心に残って。
また明日の朝、昇ってくる。
俺は歩きながら、昔の約束を思い出していた。
――生まれ変わっても、同じ場所で。
俺は小さく笑った。
「……見つけたのかもな」
誰に言うでもなく呟く。
「パパ?」
「ん?」
「なんで笑ってるの?」
「……昔の友達を思い出した」
「どんな人?」
俺は少し考えた。
それから笑って答えた。
「すごく大切な人だよ」
「ふーん」
子どもは興味なさそうに前を向いた。
そしてまた俺の手を引っ張る。
「早く帰ろ!」
「はいはい」
俺はその背中を追いかけた。
夏の夕暮れ。
遠くで蝉が鳴いている。
焼けたアスファルトの上を。
小さな手を握って。
俺は歩いていく。
あの日俺は君を照らす太陽になりたかった。
今は誰かの明日を照らせる人になりたい。
君からもらった光を次の誰かへ渡せるように。
いつか俺がいなくなったあとも。
その光がまた誰かを照らせるように。
だから陽菜。
君がいる時代に生まれてこられたこと。
それが俺にとっての生きている意味だった。
そして君と出会えた人生をこれからも生きていく。
太陽は沈むそれでも明日はまた昇る。
今年の夏もきっと。
その先の夏も。




