太陽
夏が終わる前に陽菜はいなくなった。
その知らせを聞いたとき、俺は何も言えなかった。
悲しいとか苦しいとかそういう言葉すら出てこなかった。
ただ、頭の中に浮かんだのはあの日のことだった。
――絶対来てね。
――絶対行く。
俺は約束した。
なのに。
俺はどこへ行けばいい。
病院の廊下は相変わらず白かった。
窓から差し込む光もいつもと同じだった。
蝉の声も聞こえていた。
世界は陽菜がいなくなったことなんて知らない。それがどうしようもなく腹立たしかった。
病室に入る。
ベッドの上には何もなかった。
枕も、毛布も、陽菜の荷物も
全部なくなっていた。
ただ窓際に小さな紙袋が置いてあった。
中には一本の髪留めが入っていた。
見覚えがあった。
陽菜がよく使っていたものだ。
俺はそれを手に取った。
長い髪を結ぶとき暑い日に邪魔だからと、陽菜がよく使っていた。
「……なんで」
声が震えた。
何で、こんなものを残すんだ。
何で、俺より先にいなくなるんだ。
何で――。
その日、俺は初めて泣いた。
声を上げることもできず、ただ髪留めを握ったままずっと泣いていた。
それからの日々を俺はあまり覚えていない。
学校へ行った。
飯を食った。
眠った。
笑うこともあった。
でも全部どこか遠かった。
世界から色が抜け落ちたみたいだった。
夏が終わった。
秋が来た。冬が来た。春になった。
季節は勝手に進んでいった。
そして一年後。
俺はあの丘へ行った。
去年と同じ夏だった。
焼けたアスファルト。
蝉の声。青い空。
何も変わっていない。
俺だけが変わっていた。
ベンチに座って空を見上げる。
陽菜が隣にいるような気がした。
「……来たぞ」
返事はない。
「約束したから」
もちろん、返事はない。
それでも俺はしばらくそこにいた。
太陽が眩しかった。
陽菜は昔言っていた。
――悠真が太陽だったらいいのに。
あのときは何のことか分からなかった。
「何で俺が?」
そう聞いたら、陽菜は笑っていただろう。
理由は教えてくれなかっただろう。
でも今なら少しだけ分かる気がする。
太陽は誰か一人のためにあるわけじゃない。
誰かが泣いていても、誰かが笑っていても
何も知らない顔で、空から光を落としている。
陽菜がいなくなっても世界は明るかった。
それが嫌だった。
でも――。
もし陽菜がここにいたらきっと、同じように空を見上げていただろう。
「……陽菜」
俺は空に向かって呟いた。
「俺、まだ約束守れてないよ」
来世でも見つける。
そう言った。
でも、どこにいるのか分からない。
何年経っても。
何十年経っても。
きっと分からない。
それでも俺は生きていくしかなかった。
高校を卒業した。大学へ行った。就職した。
働いて、失敗して、誰かと笑って、誰かと喧嘩して。
そうやって、少しずつ大人になった。
陽菜のことを忘れたわけじゃない。
忘れることなんてできなかった。
ただ思い出す回数が少しずつ減っていった。
それが少し怖かった。
陽菜を忘れてしまうんじゃないか。
あの夏を失ってしまうんじゃないか。
だから俺はときどき写真を見た。
古いアルバムを開いて。
陽菜の長い髪を見て。
笑っている顔を見て。
「ちゃんと覚えてるからな」
そう呟いた。誰に聞かせるでもなく。
それから十数年が経った。
俺は、久しぶりに故郷へ戻った。
夏だった。駅を出る。
焼けたアスファルトの匂いがした。
蝉が鳴いている。
空はあの日と同じくらい青かった。
俺は歩きながら、ふと思った。
陽菜がいた時代に、生まれてこられた。
それだけで…
あの夏を一緒に過ごせたことだけで…
俺の人生には確かに意味があった。
そう思えるようになるまで俺はずいぶん長い時間をかけた。
そしてその日
俺はもう一度、あの丘へ向かった。




