色褪せた世界で
夏が始まってから、陽菜は少しずつ歩かなくなった。最初は暑いからだと思っていた。
次に疲れやすいだけだと思っていた。
でも違った。
「今日は病院だから」
そう言って笑う陽菜の隣で俺は何も言えなかった。
病院の廊下は、いつも白かった。
窓から入る夏の日差しだけがそこに季節があることを教えてくれる。
陽菜は窓際の椅子に座っていた。
長い髪を耳にかけながら外を眺めている。
「蝉、聞こえるね」
「ああ」
「病院の中にいると、夏じゃないみたい」
「……そうだな」
陽菜が笑う。
「だから外に行きたいな」
「行こうぜ」
「どこに?」
「いつもの丘」
「暑いよ?」
「アイス買ってやる」
「それなら行く」
陽菜は笑った。
でも医者からは外出を控えるように言われていた。そのことを俺は知っていた。
「……無理だろ」
「え?」
「丘は」
「そっか」
陽菜は少しだけ俯いた。
「じゃあ、退院したら行こう」
「うん」
「絶対な」
「絶対」
俺はそう答えた。
その「絶対」が、どれほど軽い言葉だったのか。
病室を出たあと、俺は廊下で医者を呼び止めた。
「治せないんですか」
「……」
「何か方法あるんじゃないですか」
「今できる治療は――」
「そういうのじゃなくて」
自分でも分かっていた。
無茶を言っている。
でも、止まらなかった。
「治してくださいよ」
医者は黙っていた。
その沈黙が何よりも嫌だった。
病院を出ると、外は眩しいほど晴れていた。
さっきまでいた白い廊下が嘘みたいだった。
蝉が鳴いて、道路は焼けている。
夏は何も知らない顔をしている。
その夜。
俺は陽菜の家の前まで来た。
窓に明かりがついている。
電話をかけようとしてやめた。
何を言えばいいのか分からなかった。
翌日。
陽菜から電話が来た。
「昨日、病院で何か言われた?」
「……別に」
「嘘」
「なんで分かるんだよ」
「悠真、嘘つくと黙るから」
「……」
「やっぱり」
陽菜が笑う。
「ねえ」
「ん?」
「私ね、そんなに死ぬの怖くないよ」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……何言ってんだよ」
「だって、ずっと怖がってても仕方ないじゃん」
「俺は怖いよ」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
「俺は、陽菜が死ぬの怖い」
電話の向こうが静かになった。
「……そっか」
陽菜の声が少し震えていた。
「ごめん」
「謝るなよ」
「でも」
「謝らなくていい」
「うん」
しばらく二人とも何も言わなかった。
「悠真」
「ん?」
「私、ちゃんと生きたかったな」
その言葉が、胸に刺さった。
「まだ生きてるだろ」
「うん」
「だったら、まだいいだろ」
「……そうだね」
「これからだって、いっぱい――」
言葉が止まった。
いっぱい。
何がいっぱいあるんだ。
来年の夏、その次の夏、大人になって、いつか結婚して、子どもができて…
そんな未来を俺は当たり前みたいに考えていた。
でも陽菜は、そのどれにも触れられないかもしれない。
「……悠真」
「ん?」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「嘘」
「泣いてないって」
「声で分かるよ」
「……うるさい」
陽菜が小さく笑った。
「そっか」
「何だよ」
「私、ちょっと嬉しい」
「何が」
「悠真が私のことで泣いてくれること」
「馬鹿」
「うん」
「笑うなよ」
「だって、嬉しいんだもん」
電話を切ったあと俺は一人でしばらく動けなかった。
窓の外では夏の夜が静かに続いている。
昼間あれだけ眩しかった世界が、夜になると色を失っていた。
俺はそのとき初めて思った。
もし陽菜がいなくなったらこの世界はどんな色になるんだろう。
そしてその想像を振り払うように俺は目を閉じた。
まだ夏は終わっていない、まだ陽菜は生きている。だから俺はもう一度だけ陽菜と、夏を歩きたかった。




