第21話 祭りの準備
ジュダレーム家の屋敷は、朝からずっと落ち着かなかった。
玄関では人が行き来し、庭では荷物が積まれ、どこかで誰かが何かを叫んでいる。
窓の外から流れ込んでくる空気は生ぬるく、すでに日差しが地面を焼き始めているのが分かった。
夏というものは朝から遠慮というものを知らないようだ。
「こんなに暑いのに、皆良く働くな……」
ミットリオは自室の窓枠に肘をついて、その光景をぼんやりと眺めていた。
数日後には村で納涼祭が開かれる。
それに向けて屋敷の者たちが準備に走り回っているのだ。
いつもは本を読んで自分に風魔法を掛けて、夏の暑さをやり過ごしているのだけれども、これほど朝から賑やかだと、本を読む気にもなれなかった。
アウドールが庭を横切りながら、すれ違う使用人に次々と指示を飛ばしている。
その声が風に乗って届いてくる。
ぼんやりと庭を眺めているうちにミットリオは気がついた。
アウドールがいつもよりも、妙に穏やかな顔をしている。
いつもと変わらず忙しく動き回っているのに、その顔には、何と言えばいいのか、静かな充足のようなものが滲んでいた。
単に祭りの準備が楽しいというだけではない、もっと内側から滲み出るような、そういう顔だった。
(何かあったのかな?)
深く考えるほどのことでもない気がして、ミットリオは視線を庭の奥に移した。
シトレアの稽古が無くなってしばらく経つ。
体調を崩しているとは聞いていた。
夏バテか風邪か。けれどあの母親が、暑さ如きで寝込むとは考えにくい。
体調が悪いのは本当だろうけれど、その中身が何なのかミットリオには分からなかった。
分からないまま、日が過ぎていた。
そのことが、じわりと胸の底に、小石を落としたかのような感覚がずっとあった。
別に居心地が悪いというわけではない。
ただ、何かが変わりつつあるという予感がぼや~っと浮かんだまま漂っている。
その朝もミットリオはいつものように本を開こうとした。
いつものように自室の椅子に座って、いつものページに目を落とそうとした。
でもできなかった。
文字を追っても意味が頭に入ってこず、窓の外の声が、匂いが、熱気が、紙の上の世界よりもずっと鮮明に感じられて本を閉じた。
村の子供達だろうか。
遠くから子供達の笑い声が聞こえてくる。
何かを笑いながら、楽しそうに、汗をかきながら全力で駆け回っている姿が浮かんでくる。
眩しいと思った。日差しのせいだけではなく。
(……今年は、俺も行ってみようかな)
自分でも少し驚く思いつきだった。
去年も一昨年も、ミットリオは祭りには行かなかった。
面倒くさいとか、人が多くて嫌だとか、そういう理由を自分に言い聞かせていたけれど、本当のところはたぶん、ひとりで本を読んでいる方が楽だったのだ。
祭りというのは、楽しそうにしなければならない場所だから。
でも今は本を読んでも楽しくなかった。
読んでいるのに頭に内容が入ってこない。
それならば外に出た方がまだましだという、消去法に近い動機だったかもしれない。
それでもミットリオは、窓の外を流れていく夏の空気を胸に吸い込んで、少しだけ祭りに行ってみたいと思った。
何かが変わる前に、今のこの屋敷の空気を外に持って出たかったのかもしれなかった。
うまく言葉にはできなかったが。
バンッ、と扉が開いた。
いつものように、勢いが良すぎて扉が壁に当たって跳ね返る音がした。
「ミトッ! 一緒に祭りに行きましょうっ!」
姉のシュトラがいつも通り突撃してきた。
「いいよ」
「……えっ?」
俺がそう言うとシュトラ姉さんが固まった。
俺は窓から視線を動かさないまま、もう一度言う。
「いいよ、行く」
「……本当に?」
「何でそんな変な物を見たかのような目で見てくるのさ」
「だって……」
シュトラは一瞬口ごもる。
「俺だって、楽しそうな事には興味を持つよ」
ミットリオは少し膨れながら言った。頬の片側だけが膨らんで、押せばぷっと音が出そうだった。
「それに……」
続けて言う。
「今年が初めての祭りだし」
「初めて? そうだったっけ?」
「そうだよ。去年までは家にいたから」
「……それ、何か留守番させられてたみたいな言い方だけど」
シュトラが半目で見てくる。
「単に自分が行きたくなくて家にいただけじゃないの?」
「…………」
ミットリオは何も言わなかった。
全く何を言っているのだろうかこの姉は。
ミットリオは痛いところを突かれたのか、窓の外に視線を移す。
窓の外では、大人たちの声が夏の風と一緒に流れていく。
香ばしい匂いがどこかから漂ってきた。
はっきりと甘い。砂糖か、あるいは蜂蜜か。
祭りというのは匂いから始まるのだな、とミットリオは思った。
「……行くよ」
それだけ言って、ミットリオは窓を閉めた。
夫婦兼用の部屋は屋敷の廊下の奥にある。
出かける前に一言告げておこうとシュトラが言い出した。
それについてはミットリオも特に反対しなかった。
「母さん、入ってもいい?」
「どうぞ」
シトレアは椅子に腰かけて編み物をしていた。
ゆったりとした薄い色のドレスを纏い、窓から入る光の中で針を動かしている。
ミットリオは、無意識に目が止まった。
何かが違った。
具合が悪いとは聞いていたのに、というよりは具合が悪いからこそかもしれないが。
シトレアの顔は、ミットリオが見慣れたそれよりもどこか柔らかかった。
稽古の時のあの鋭さが、今日はすっかり鳴りを潜めている。
代わりに漂っているのは、静けさ、というより内側に何かを抱えた人間特有の落ち着きだった。
編み物の手元を見て、次に母親の顔に視線を移して、ミットリオは気がついた。
いつもより、目が細い。
シトレアは手元を見ているようで、その視線は少し遠いところに向いている気がした。
針が動くたびに、その手がほんの少しだけ、何かを確かめているかのように丁寧だった。
(母さんって、編み物なんてしていたっけ?)
ミットリオの記憶の中のシトレアは、剣を持っているか、腕を組んで仁王立ちしているか、あるいは、アウドールと一緒に、魔法の術式について難しい顔で考え込んでいるか、そのどれかだった。
こんなふうに椅子に座って、静かに針を動かしている姿は初めて見るかもしれない。
「今年の祭りに、ミットリオが行くって言うから。一緒に連れて行こうと思って」
シュトラが言う。
シトレアの手が、一瞬だけ止まった。
それからゆっくりと顔を上げてミットリオを見た。
何かを言うかと思ったが、何も言わなかった。
ただシトレアの目が少し細くなった。
嬉しそうに、というより懐かしそうに、とでも言うような顔だった。
あるいは、ミットリオには読み取れない何か別の感情が、その奥にあったのかもしれない。
「そう。楽しんできてね」
声は、いつものシトレアよりも少しだけ穏やかだった。
「うんっ。母さんも体調に気を付けてね」
シュトラが元気よく答える。
ミットリオは何も言えなかったが、扉を出る前に一度だけ振り返った。
シトレアはもう編み物に視線を戻していた。
針の動きは、さっきと変わらず静かだった。
いや、さっきよりも少しだけ、ゆっくりだったかもしれない。
編みかけの毛糸が、何色なのかミットリオには分からなかった。
小さなまだ小さな、形になっていない何かだった。
玄関に戻ると、アウドールがまだ忙しなく立ち回っていた。
汗を額に光らせながら、それでも顔はどこか楽しそうだった。
いや楽しそう、というよりもさっき窓から見た時と同じ顔だった。
充足している、とでも言うかのような……。
「あれ? 二人でどこへ?」
「ミットリオがね、祭りに行くって」
シュトラが言った瞬間、アウドールの顔がぱっと明るくなった。
「そうか! それは良かった!」
(……そんなに珍しいかな? 俺)
ミットリオは小さく溜息をついた。
祭りに行くというだけでこれほど喜ばれると、普段の自分がどれだけ外界と断絶した生き方をしているのか、嫌でも実感させられる。
それに、アウドールの喜び方が少し大げさな気がした。
祭りに行くだけのことで、あそこまで顔が明るくなるだろうか。
まるで、ずっと良くないことばかりが続いていて、それがようやく少し晴れてきた時のような、そういう顔だった。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいではないかもしれない。
「ちょうど良かった。僕もこれから村に行くんだ。馬車に乗っていかないかい?」
「乗る」
ミットリオは即答した。
村まで歩くのは暑いし、遠いし、何より面倒だ。
アウドールの提案は渡りに船だった。
「あれ、シュトラとミットリオじゃないか」
外から戻ってきたチェルスが、二人を見て首を傾げる。
外は暑いのだろう。日に焼けた頬に汗が流れ跡がある。
「祭りに行くんだ。父さんが馬車に乗っけてくれるって」
「へえ! 楽しそうだね」
「兄さんも来る?」
思ったより嬉しそうな顔をしていたので、ミットリオは少し考えてから誘ってみた。
「いいのかな?」
「別にいいんじゃない?」
シュトラが肩をすくめる。
チェルスは少し迷うような顔をしたが、すぐに笑った。
「じゃあ、行こうかな」
アウドールが戻ってきて馬車に乗り込むまで、三人は玄関の日陰で立ち話をした。
石畳は午前中からすでに熱を持ち始めていて、じっと立っているだけで足の裏から暑さが伝わってきた。
(うざいなもう……)
手の甲で、流れてきた額の汗を拭う。
夏は本当に容赦がない。
地面の凸凹に応じて馬車が揺れる。
窓の外では、木々の緑が眩しい青い空に切り取られて、風が葉を騒がせている。
鋭い日差しと、うだるような暑さが襲ってくる。
しかし、この暑さの中でも村民は農作業を欠かさない。
皆帽子を被りながら、滝のように汗を流して農作業をする手を止めない。
「でも、母さんも来れたら良かったのにね」
シュトラが窓の外を見ながら、ぽつりと言う。
「声はかけたんだけどね。今日は外に出ないって」
「……具合、大丈夫かな」
「大丈夫さ」
アウドールの答えは少し早かった。
ミットリオはそれを聞きながら、窓の外を見ていた。
早い、というか迷いがなかった。
心配しているシュトラをあやすためではなく、本当に大丈夫だと知っているから、そう言えるような、そういう「大丈夫さ」だった。
「食欲はあるみたいだし、デフィーもニカラも傍にいるから」
続く言葉も妙に穏やかだった。
シュトラはそれでも少し心配そうな顔をしていたが、やがてさっきと同じように窓の外に視線を戻した。
ミットリオは何も言わなかった。
さっきのシトレアの顔と、アウドールの顔が頭の中で重なった。
それから、形にならないまま編まれていた毛糸のことを思った。
小さな、まだ何かになる途中の。
何かが変わりつつある。
その予感だけが馬車の揺れの中で、じんわりと輪郭を帯びてきた。
でも今日は祭りだ。
ミットリオは目を細めて、窓の向こうに広がる夏の空を見た。
白く焼けた空の端に、村のアーチがぼんやりと見え始めていた。
馬車が村の入口に差し掛かると、アーチが見えてきた。
前に見た時とは違った、青や黄や赤の布が何枚も飾られ、風に揺れるたびにさわさわと音を立てている。
アーチの向こうから、人の声と何かが焼ける匂いと、どこか遠くで鳴っているらしい何かの楽器の音が、ひとかたまりになって流れてきた。
ミットリオは馬車の窓から身を乗り出した。
村の中は人で溢れていた。
老人から子供まで皆それぞれに笑っている。
子どもたちが走り回り、屋台には色とりどりの食べ物が並んでいる。
空気の中に甘いものと辛いものと塩辛いものが全部混ざって、夏の熱さと一緒に押し寄せてくる。
うるさくて、暑くて、とてもごちゃごちゃしている。
それなのに。
(悪くない、ね)
ミットリオは自分でも気づかないうちに、少しだけ口の端が上がっていた。
頭の片隅には、まだ編みかけの毛糸の色が引っかかっていたけれど。
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