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自堕落に生きると決めた貴族、何故か今日も忙しい ~高級自堕落貴族を目指す~  作者: 鏑右いなだ


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第20話 想定外

 絵の具を手に入れたミットリオは、それをチェルスの部屋に置いてから、今度は針と糸を探して屋敷の廊下を歩き始めた。

 

 窓の外から差し込む光が細長く床に切り取られている。ミットリオは、足の置き場をなんとなく選びながら歩いて、遊びながら廊下を歩く。

 

 そしてミットリオは、針と糸を手に入れるため今度は母親のシトレアの元を訪ねていた。


 母親の夫婦兼用の部屋の前に立ち、ミットリオは扉を三回ノックした。

 

「母さん、今大丈夫?」

 

「……珍しいわね」

 

 声の質が変わる前に扉が開いた。シトレアは羽根ペンを持ったままで、インクが指の節まで滲んでいた。

 

「ミットリオがここへ来るなんて」

 

「忙しかった?」

 

「もう少しで休もうと思っていたから、ちょうどいいわ」


 ミットリオは部屋の中を一瞥すると、机の上に書簡が幾つも重なっていた。

 それぞれ封蝋の色がみんな違う。

 

「何の返事を書いてたの?」

 

「チェルスとシュトラを呼ぶ夜会と舞踏会。それと再来月の教会での催し」

 

「……母さんがそこまでやるんだ」

 

「アウドールは他のことで手が塞がっているから、細かいことは私がやっているのよ」


 シトレアは肩をわずかに動かした。

 

「面倒くさいね」

 

「……まあ時々私もそう思うわね」


「母さんでもそう思うの?」


「……偶にね。教会での催しはこの村で必要な事ですからしっかりとやらなくては駄目だけど、夜会や舞踏会は余り頻繁には行いたく無いわよね」


「俺も出なきゃ駄目? 舞踏会」

 

「いつかはね。今はまだ五歳だから、それほど参加しなくちゃいけないとはならないけど」

 

「うへぇ」

 

「その顔を止めなさい。折角の顔が台無しよ」


 シトレアの目が細くなった。

 

 ミットリオは言われて顔を戻す。

 褒められているのか注意されているのか、どちらとも取れる言い方をする人だった。

 

「それで? 何の用で尋ねてきたの?」


「あっ、糸と太めの針金が欲しくて来たんだ」


「糸と針金? そんな物を何に使うのよ」


「姉さんと兄さんと遊ぼうと思ってね。それに必要なんだ」


「そう」


 シトレアは引き出しを開けて太めの麻糸と、先端が丸くなった針を取り出した。

 一つの束になっている麻糸と針金を渡してくる。

 

「遊ぶにしても気を付けてね」

 

「は~い」

 

 受け取って、廊下に出る。

 

 扉が静かに閉まる音を背中で聞きながら、ミットリオは握った糸の感触を確かめた。

 これで最後の材料が揃った。



 準備が全部終わったのは、窓の光が夕方の色に傾きかけた頃だった。


「よし!」

  

 ミットリオは両手を前に差し出し、静かに息を整えた。

 

 掌の上に置かれた小さな木の魚。チェルスが鱗を一枚一枚丁寧に描いて、シュトラが青い絵の具を何度も重ねた、あの魚だ。

 

 魔力を流し込む。

 小さく木製の魚が反応する。

 ほんの少し、風に揺れる葉のように。

 

 それからゆっくりと腹の辺りが浮き上がり、魚は糸で吊られたように頼りなく揺れ、やがて、見えない水の流れを見つけたかのように、静かに宙へと泳ぎ出した。

 

 夕焼けの光が絵の具で塗られた魚の側面を撫でる。

 

 青い絵の具が光を弾いて、チェルスの描いた鱗の線が細く白く光った。

 向きを変えるたびに表情が変わる。さっきまで板切れだったものが、今は確かに「魚」に見えた。

 

「わはっ」

 

 笑いが漏れた。

 こうなるだろうとは思っていたし、頭の中で何度も想像していた。

 

 でも実際に目の前で動き出したそれは、想像よりもずっと静かで、ずっと綺麗だった。

 なぜ綺麗なのかうまく言えないけれど、たぶん三人で作った努力の結晶だからだと思った。

 

 魚は机の上を泳ぎ、椅子の背もたれをゆっくりと回り込んだ。窓際まで行くと身を翻すように向きを変え、尾を揺らして戻ってくる。まるで部屋の空気を水だと思って、本気で泳いでいるみたいだった。

 

「……すごい」

 

 チェルスの声は小さかった。それでもミットリオの耳にはっきり届いた。

 

 シュトラは声も出さずに魚を目で追っていた。身体が少しずつ前のめりになっていって、獲物に今にも飛びつきそうな、猫みたいになっていた。

 

 一匹目が泳いでいる間に、ミットリオは床に並べた二匹目へ意識を向ける。

 

 ぷかりと浮かぷ、続いて三匹目も浮かぶ。

 

 赤い魚が天井近くを漂い始め、銀色の魚が窓辺を横切り、黄色い魚が机の下を潜り抜ける。

 魚が増えるたびに、部屋の空気の質が少しずつ変わっていく気がした。

 

 十匹近くになった頃には、もうここは屋敷の一室ではなかった。

 

 壁に揺れる影が波のように動き、天井に散った光の点が星のように見えた。魚たちが泳ぐたびに絵の具の色が陽光を受けてちらちらと輝き、その残像が空気の中に溶けていく。

 

 チェルスも、シュトラも、言葉を忘れたまま上を見ていた。

 

 ミットリオも、同じだった。

 

 自分で作ったのに、自分で全部考えたのに、それでも少しだけ息を呑んだ。

 とても綺麗だった。

 自分で作ったものが綺麗だと思えることが、少し不思議で少し嬉しかった。

 

「よしっ!」

 

 先に我に返ったのはシュトラだった。

 そこらへんに立て掛けていた釣り竿を両手で掴む。

 やる気が満ちており目が本気になっていた。

 

「捕まえるわっ!」

 

「えっ」

 

「えっじゃないわよっ!」

 

 しゅるしゅると糸が飛んだ。

 

 ミットリオは慌てて銀色の魚を動かすし逃げる。

 赤い魚も同じように逃げる。

 そこへチェルスがいつの間にか回り込んでいた。

 静かに、でも確実に、退路を塞ぐように。

 

「こっちからは逃げられないよ」

 

「兄さんまで!?」

 

 追われる。逃がす。別の魚が狙われる。それも逃がす。また追われる。また逃がす。

 

 気付けばミットリオだけが、魔力を送って必死に両手を動かしていた。

 

 チェルスとシュトラが部屋中を走り回り、魚たちが縦横無尽に泳ぎ回り、その全てを操るミットリオの額に汗が滲む。

 手首が疲労で熱を帯びてきた。魚を逃がすたびに、魔力よりも集中力の方が先に削れていく。

 

「ミトっ、もっと速くっ!」

 

「今の遅かったよ!」

 

「無茶を言うなっ!」

 

 叫んだ瞬間、ぱしゃん、と音がした気がした。

 

「やったぁっ!」

 

 シュトラが竿を上げた。魚が一匹、宙でくるりと回る。


 「うそだろ……」

 

 シュトラに気を取られていると、もう一匹。今度はチェルスの方から歓声が上がった。

 笑い声が部屋に満ちる。魚が泳ぐ。追われる。逃がす。また追われる。


 三十分後。

 

 ミットリオは呼吸を荒げて床に転がっていた。

 

 天井が白く見え、妙に遠く見えた。

 

 胸が苦しく腕が重い、指一本動かすのも億劫で、今にも瞼が落ちそうだった。


 魚の影がユラユラと揺れている。

 綺麗だった。さっきまであんなに綺麗だと思っていた。

 

 だが今は憎い。

 一匹残らず魚が憎い。


 (お前達のせいだ……)


 とミットリオは思った。

 

 (お前たちが綺麗に泳ぐから。お前たちが楽しそうに逃げるから。俺が全部悪いみたいになっている。俺が作ったのに。俺が全部考えたのに……)

 

「ミトー! もう一回!」

 

「次は二十匹にしようよ!」

 

 上から二人の声が降ってくる。

 

 ミットリオは片腕を持ち上げようとしたが持ち上がらなかった。

 腕が石になっている。

 

 (こんなに重かったっけ……、さっきまで普通に動いていた気がするのに……)

 

 おかしい。

 絶対におかしい。

 

 これは魔力の消費ではなく呪いだ。兄と姉から掛けられた呪いで腕が石になっている。そうに違いない。

 

「ミトってば!」

 

「聞こえてる?」

 

 とても聞こえている。全部聞こえている。

 

 それでも返事が出来ないのは、口も石になりかけているからだ。

 このままでは全身が石になり、五歳で石になる。

 それはあんまりではないかと思った。

 

 そこに青い魚が漂ってくる。シュトラが色を塗った魚だ。

 

 やっぱり綺麗だと思った。憎しみが少し揺らいでいく。

 

 ――駄目だ。

 

 ミットリオは目を閉じた。

 あれを綺麗だと思ってはいけない。

 綺麗だと思うとまたやりたくなる。またやりたくなるとまた死ぬ。この流れは断ち切らなければならない。

 そのために今、ミットリオは全力で綺麗だと思わないようにしている。

 

 これは戦いだ。

 自分の感情との、とても静かな、とても切実な戦いだ。

 

「ミットリオ、顔色が悪いわよ」

 

 シュトラがひょいっと顔を覗き込んできた。

 

「大丈夫?」

 

「……大丈夫じゃない」

 

「続けられる?」

 

 ミットリオは、容赦のない質問に目を開けた。

 

 シュトラの顔がそこにはあった。

 きらきらした目をしており、全く疲れた様子が見られない目をしていた。

 

 (……ああ)

 

 この顔を見てしまったら駄目だった。

 寝転がりながら、今度は助けを求めるように視線を横へ逃がす。

 

 チェルスと目が合い、彼は優しく微笑んでくれた。

 

 とても穏やかなとても綺麗な兄の笑顔だった。

 そうしてひと言だけ言った。

 

「あの赤い魚、もう少し速く出来る?」


「ちくしょうめっ!!」

  

 駄目だ、とミットリオは思った。

 

 シュトラのきらきらした目は断れない。でもそれは分かっていた。姉はきっとそう言ってくるだろうと、分かった上で横を向いた。

 そしてチェルスならきっと自分を心配してくれると思った。

 チェルスは賢いから。チェルスは優しいから。

 

 なのに。

 赤い魚。

 速く。

 

 それだけ言われた。

 それだけなのに、なぜか断れる気がしなかった。シュトラの熱量で押してくるのではなく、ただ静かに、当然続くものとして話しかけてくる。

 逃げ場のないようなゆっくりと囲まれているかのような言い方。

 続ける気がないのにもう続く話をされている。

 

「……少しだけ」

 

 何故か気付いたら口が勝手に答えていた。

 

 チェルスはまた微笑んだ。

 

 今度は少しだけ、目も笑っていた。

 

 (ずるい……)


 シュトラのずるさと、チェルスのずるさは種類が違う。

 シュトラは全力でぶつかってくるから避けられない。チェルスは隙間からそっと入ってくるから気付いた時にはもう中にいる。

 

 どちらの方が性質が悪いか、床に転がりながら本気で考えた。

 

 答えはとっくに出ている。

 どっちも悪い。

 

「ミトっ! 五分後ね!」

 

 ミットリオは、姉の一方的な会話に再び天井を見た。

 

 そこには魚が泳いでいた。

 

 呑気に、楽しそうに、綺麗に、どこまでも自由に。

 

 お前たちが綺麗じゃなければこんなことにはならなかった、とミットリオはもう一度思った。

 

 (……これは魚が完全に悪いという事にしよう)


 発案した自分を棚に上げて、全てを魚のせいにする。

 

 そういう結論に達した頃、夕食の呼び声が聞こえた。

 

 救われたと思ったのも束の間。


 「夕食の後も続きをやりましょうよ!」


 というシュトラの声が廊下の向こうから飛んできて、ミットリオはまた静かに死んだ。

 

 それを聞いてチェルスは静かな相槌を打っていた。


 ミットリオは一連の流れを見て、静かに眠った。









 



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