第18話 慣れ始めた稽古
早朝の中庭に、乾いた打撃音が鳴り響く。
鳥がその音に驚いて、バタバタと屋根から飛んでいくが、チェルスもシュトラも目をくれなかった。
シュトラが踏み込みチェルスがそれを受ける。
またシュトラが踏み込む、そして受ける。
(どんどん上手くなるな)
チェルスは受けながら口の端が上がっていた。
五本に一本は取られる。妹の成長にチェルスは少し嬉しくなる。
そして中庭の隅では、ミットリオが地面に張り付いていた。
頬に当たる土が冷たい。
土と草の匂いが鼻に入ってくる。
胸の奥が痙攣するみたいに収縮していて、息を吸うたびに喉で引っかかった。
木剣はもう手から離れている。いつ離したのかも覚えていなかった。
「はいっ、休憩終わり! すぐに立つっ! ミットリオ!」
立とうとしている。ちゃんと立とうとしているのだが、足がその命令を完全に無視していた。
「……ぜっ、ひっ、……もうっ、少しだけっ……」
「敵は待ってくれないっ!」
普段と同じ声だった。屋敷で過ごしている普段と同じ声。
なのに、シトレアの声には一ミリも隙がなく、毅然とそれでいて良く通る声をしていた。
ミットリオは必死に歯を食いしばった。まだ碌に生え替わっていない歯がギリッと鳴る。
片肘を地面に突いた。ブルブルと腕が笑っている。
それでも踏ん張った。そしてゆっくりと地面から膝が離れていく。
立ち上がった瞬間、足の裏から地面の固さと強さが突き上げてきた。
それだけで少し、体の中に息が入ってくる気がした。
木剣を拾って正眼の構えを取る。
そしてシトレアを見る。
「やあーーーっっ!!」
「そうっ。窮地をどうにかするためには、常に前進するしか方法はないのです」
しかし何度振っても届かない。シトレアはミットリオの木剣が当たる寸前で、すっと軸をずらす。
涼しい顔でミットリオの打ち込みを全ていなしていく。
「そう、そうですっ。その調子でしっかりと打ち込みなさい!」
「くそっ……!」
それが少し悔しかった。だから一生懸命振り続けた。
膝が笑い始めたのは分かった。次の一歩が出なくなったのも分かった。そして木剣を握る握力すらもなくなってきて、ミットリオはその場に崩れた。
「今日はここまででいいでしょう。走り込みが残っているのでそれまでゆっくりと呼吸を整えて休んでいなさい」
「……はっ……い」
すぐそこにいるのに、何故かシトレアの声が遠くから聞こえた気がした。
仰向けのまま空を見上げると、青がだんだん薄くなってきて、太陽がこんにちはをしていた。
そんな事をぼんやりと考えながら、ミットリオは自分の手を見た。
小さい手だと思う。
木剣を握っていたおかげで手の平が赤くなっていた。
じんじんとして赤くなっている部分が熱を帯びている。
ミットリオは五本の指を開いたり閉じたりしてみた。
(……前世ではもっと体を動かすのが得意だったはずなんだけどな)
これでも一応三十年近くは、戦場に身を置いていたのだが、五歳の体では頭で分かっていても、まともに反応は出来ない。
それに力も体力も圧倒的に足りない。
まあ仕方ないか。
ミットリオはゆっくりと目を閉じた。
今の自分の手の大きさを思えば仕方ないと思う気になる。
自分はまだ五歳なのだから、と自分に言い聞かせるように疲労困憊の体を休めるのだった。
やがて、数分もすれば体も幾らかましになってくる。
ムクリと起き上がると背中やお尻についている、草や土を払って持っていた木剣を立て掛けに置きに行く。
そしてぼーっと、シトレアがチェルスとシュトラに稽古を付けている様子を眺めているのだった。
「それでは今日の稽古は終わりです。三人とも走り込みを終えたら、着替えて昼食を食べてね」
「「はい!」」
「……はい」
シトレアは今日の稽古が終わった事を告げると、屋敷の中に戻っていった。
三人の子供達は、いつも通り屋敷の周りをぐるぐると走り込みをするのだった。
「……お腹減った~」
稽古を終えたミットリオは自分のお腹に手を当てて、お腹が空いていると声に出しながら、食堂に足を運んでいた。
走り込みが終わって食堂の椅子に座るまで、ミットリオはすでに思考を放棄していた。
食堂の中には焼きたてのパンの香りが満ちていた。
小麦の甘い匂い。溶けたバターの香り。
焼けたソーセージの肉の匂い。
朝から容赦なく胃袋を刺激してくる。
ミットリオは椅子に座りながらテーブルを見つめていた。
目の前にはこんがりと焼けたパン。その横には半熟の目玉焼き。そして湯気を立てる煮豆のスープ。
食べたい。今すぐ食べたい。
むしろ食べなければ死ぬ。
そんな気すらしてくる。
「まだよ」
しかしシトレアが放った一言で希望が砕け散った。
「えぇ~……」
ミットリオは机上半身を預けるように突っ伏した。
余計にパンの香りが近くなる。
それが余計につらい。
「皆揃うまで待ちなさい」
「パンが冷めちゃうよ。勿体ないよ」
「それでも待ちなさい」
「パンが可哀想だよ」
「何を言っているの。パンは可哀想じゃありません」
ミットリオが馬鹿な事を言ったというのに、シトレアは即座に返してくる。
流石、伊達にミットリオの母親をやってはいない。
しかしミットリオは気付いていた。
母も食に関しては執着が強いので、さっきからチラチラと焼きたてのパンを見ている。
その事にミットリオが気付いて、少し笑うとシトレアの鋭い眼差しが飛んできて慌てて元に戻る。
そんなやり取りをしていると、食堂の扉が開く。
「ごめんなさい、遅くなりました」
チェルスが食堂に現れる。
髪をしっかりと整え、服には少しの乱れもない。
稽古終わりとは思えない程しっかりとしている。
「チェルス遅かったわね、シュトラはどうしたの?」
「シュトラは木剣と防具の手入れをしているみたいだよ。僕は部屋の片付けをしていたら少し遅くなっちゃったんだ。ごめんなさい」
「そうなの。ならシュトラが来るまでもう少し待ちましょうか」
「えっ! 姉さんが……手入れをしている……?」
あの姉が、乱雑でいい加減なあの姉が、朝食の前に木剣の手入れをちゃんとしているだと……?
「……明日は、夏なのに雪が降るかもしれないね」
ぽそりと、ミットリオは呟く。
「聞こえているわよ、失礼ね」
「うえっ!」
背後から声が飛んできたので、慌てて振り返る。
すると後ろにシュトラがいた。
ミットリオの言葉に怒っているのか、片頬を膨らませている。
「私だって手入れくらいするわよ!」
「いや、だって姉さんだし」
「どういう意味!?」
流石に怒ったシュトラは、後ろからミットリオを羽交い締めにしてくる。
ミットリオは後ろに立たれている事もあり、避けきれずそれを喰らってしまう。
稽古を終えたばかりだと言うのに、二人は相変わらず朝から元気である。
「はいはい、座りなさい」
そんな二人を見てシトレアが呆れながら言う。
その直後食堂の扉が再び開いた。
「待たせたね」
アウドールが食堂に入ってくる。
部屋の空気が少し落ち着く。
「父さん!」
「おはようございます」
「おはよう」
子供達が口々に挨拶する。
アウドールはそれに軽く頷いた。
「おはようアウドール」
「おはようシトレア」
「では、皆揃ったようだし食べましょうかしら」
「「いただきます」」
「いただきま~す」
夫婦が挨拶をし終えると、ようやく朝食が始まる。
その瞬間ミットリオは目の前のパンに飛びついた。
「美味し~いっ!」
思わず声が漏れる。
(……生き返る)
稽古で削られた体に栄養が染み込んでいく。
ミットリオはそんな感覚を味わっていた。
「そんなに慌てなくても誰も取らないわよ」
シトレアが苦笑する。
その横でシトレアは既にパンを三つ食べ終わっていた。
「……えっ?」
ミットリオは朝食を食べ進めていた動きを止めた。
自分の見間違いだろうか。
ミットリオはまだ一つ目の途中で、皿の上には取り分けたパンがまだ残っている。
なのに母親の皿を見るともう空になっている。
そしてテーブルの中央に置かれている四つ目のパンに手が伸びる。
早い。
あまりにも早過ぎる。
「母さん……」
「なに?」
恐ろしく早い手際、俺でなきゃ見逃しちゃうね。
「……いや、何でもない」
「……?」
ミットリオは下らない事を考えながら、二個目のパンに食らいつく。
隣ではシュトラがソーセージを頬張り、チェルスが静かにスープを飲み、アウドールが穏やかな目で家族を見ている。
心地良い。ミットリオはパンをかじりながら思う。
前世ではこんな朝はなかったな、と。ミットリオは朝食を食べながら感じる。
窓から差し込む朝日がテーブルを照らす。
そこに時折笑い声が混じる。
前世では手に入らなかった、そんな当たり前の朝の光景が、ミットリオはとても好きだった。
「ちょっと食べ過ぎたかも……」
ソファに横になりながら、ミットリオはお腹の上に手を置いてため息をついた。
稽古でとてもお腹が空いていたからと言って、調子にのって食べたせいで、満腹の重さがそのまま襲ってきており、もう何もしたくなかった。
「……あの細い体にどこに入って行くのだろうか」
ミットリオもこの年齢にしては、食べる方だ。
しかし、それよりもシトレアがかなり食べるのでインパクトは薄れてしまう。
一杯食べるし、食べる速度も早い。
自分の母親を改めて凄いと思った。
因みにアウドールやチェルス、シュトラは食べるには食べるがそこまで食べる程では無い。
しっかりと食べると言った感じだ。
「ふぁ~」
瞼がだんだんと重くなる。
やがてミットリオは満腹になった事と、早朝の稽古の疲れでウトウトし始め、心地良い昼寝に沈んでいく。
目が覚めるというより、体が何か反応して起きた感じだ。
意識がはっきりする前に、すでに体は起き上がっていて、まぶたが開いていた。
何かが来るっ! という感覚だけが襲ってきて、ミットリオはソファの上で座った姿勢になっていた。
その数秒後、扉が勢いよく開いた
「ミトッ! 何かして遊びましょうっ!」
「…………」
「……? どうしたの?」
(……やっぱりそうか)
とミットリオは思った。常に姉に対してはっているセンサーのようなものが、稽古で叩き込まれているおかげで過敏になっている。
シュトラの足音を扉越しに拾っていたのかもしれない。
(……地震みたいだな)
前世では地震が起きる前何故かに目が覚めることがあった。
今の感覚はそれによく似ていた。
つまり俺の中で姉さんは自然災害枠らしい。
ミットリオはそんなことを考えながら少し苦い顔をする。
シュトラは気にした様子もなく、ズカズカと部屋へ入ってくる。
遠慮という言葉は姉の辞書には存在しない。
隣に来るとそのまま勢いよく腰を下ろした。
ドスンッ。
ソファが大きく揺れる。
その影響でミットリオも少し揺れた。
何なら人生も少し揺れた気がした。
「それで何して遊ぶの?」
「……そういうのは先に決まってるものじゃないの?」
「決まってない!」
シュトラは胸を張った。
なぜ誇らしげなのか分からない。
ミットリオはため息を吐く。
「姉さん、食べたばかりなのに元気だね」
「そう?」
「そうだよ」
ミットリオは自分のお腹を見た。
そこには朝食を食べすぎて、ポンポコリンになっているお腹が見える。
間違いなく食べ過ぎた。
仮に今、シトレアに屋敷の周りを走れと言われたら泣く自信がある。
「私は平気よ」
「……分かっているよ」
涼しい顔をしてそう言った姉の姿に、ミットリオは少し困った顔をする。
「ま、まあ、姉さんがそうでも俺はまだお腹が苦しいから、楽な遊びをしようよっ」
「別にいいけど、結局何するの?」
「それなんだよね~」
ミットリオは穏やかな顔で呟いた。
何か遊びの種がないかと、ヒントを得ようと周りをキョロキョロと見渡した。
本棚。机。棚。そして壁。
「あ」
視線が止まった。
大きな口を開けて、何年もそこにいる魚。
壁に掛かっていた魚の剥製を見て、頭の中にナイスなアイディアが浮かんだ。
「姉さん、面白い遊びを思い付いたかも」
ミットリオの口元が少し上がる。
「何っ! 聞かせて!」
そしてミットリオの言葉にシュトラは目を輝かせて乗り出してくる。
「部屋の中で釣りをしよう」
数秒の沈黙。
「…………はあっ?」
しかし続くミットリオの言葉に、シュトラは意味が分からずに困った顔をする。
対してミットリオは、この世界でしか出来ない遊びを思い付いて、ワクワクとした顔を見せるのだった。
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