第17話 モチモチのほっぺ
「う~ん」
少年は悩んでいた。
「う~~~ん」
腕を組んで、気難しい顔をしているこの少年が、ミットリオ・ジュダレームである。
ジュダレーム家の次男で、今日の午後は特に予定もない。
そんな暇な午後に何をしているかというと、飛行魔法と格闘中だった。
地面から数センチ、体がふわりと浮いた。
その瞬間世界がぐらりと大きく傾むく。
足の裏に地面がない。それだけのことなのに、体の芯からじわりと妙な感覚がせり上がってくる。
どこに力を入れればいいのかわからないまま、魔力だけがじわじわと削られていく。
風もないのに体がふらつき、あわてて魔法を解除すると、どすんと地面に両足が戻った。
「……難しいな」
少年は魔法を発動させながら、難しい問題に頭を悩ませいてた。
「飛行魔法を使ってみたいんだけど、どうにもバランス感覚が難しくて安定して飛べないな」
ひとこと呟いて、ミットリオは額の汗を手の甲で拭う。
空を飛べたら便利だろうな、という気軽な動機で始めた実験だったが、実際にやってみると話が違った。
バランスが取れない。魔法が安定しない。地面から足が離れているというただそれだけのことに、体が妙なざわつきを覚えて言うことを聞かない。
何度か繰り返して、ミットリオはようやく腹を決めた。
「……これは、後数年じゃないと無理だね」
体の成長、魔力量の底上げ、バランス感覚の熟成、全部が足りていない。
悔しいとか悔しくないとか、そういう話ではなく、今の自分にはまだ早い。それだけだ。
と、頭では綺麗に納得したつもりだったが。
もう一度だけ、空を見上げてしまったのは——内緒にしておきたかった。
空は青かった。雲がゆっくり流れていて、どこかへ行くのか、それともただ漂っているだけなのか、そんなことを考えながらミットリオはしばらくぼんやり立っていた。
(……案外)
自分は空を見上げることが好きなのかもと思う。
前世の死ぬ瞬間も、空の紅さを見て綺麗だと感じていたことから、そう思ったのだった。
(……たまたまかな)
ミットリオは少し自嘲気味に笑う。
「緊張しちゃって喉が渇いちゃった」
額の汗を拭うと、収納魔法から冷えている果汁のジュースが入っている水瓶と、シュトラに貰った木製のコップを取り出す。
それを口に運ぶと一口でごくごくごくと一気に飲み干す。
「ぷはっ!」
あまりの気持ちよさに声が出た。
炎天下で飲む冷たいジュースは、それ自体が魔法みたいだと思う。
甘さが喉から胸の奥まで落ちていって、じんわりと体の熱を和らげてくれる。
もう一口飲もうかと思ったが、コップはすでに空だった。
コップを水魔法で軽くすすいで収納魔法にしまう。
さて、どうしよう。
午後の稽古はない。飛行魔法の実験は数十分で終わってしまった。日差しは強く、虫の声がどこかで鳴いていて、屋敷の木々が風に葉をこすり合わせている。
何もしない午後というのは、案外どうしたらいいのかわからない。
気づいたら、屋敷の裏庭に来ていた。
いつもそうだ。
なんとなく足が向いて、なんとなく切り株の上に腰を下ろしてしまう。
日当たりのいいこの場所は、何かをするわけでもなく座っているだけで、なんとなく悪くない気持ちになれる。
一つ気になるのは、筋トレに使う器具がそこら中に置いてあるのが気になるのだが。
そうして何の気なしに畑の方に目をやって、ミットリオは気づいた。
「……ニカラだ」
麦わら帽子。汚れてもいい服。
そして額から、滝みたいに流れる汗。
ニカラは畑にしゃがみ込んで、雑草を一本一本、丁寧に引き抜いていた。
暑さなどまるで気にしていないような真剣な顔で、でも首に掛けたタオルがもうすっかり色の変わるくらい濡れていて、それが切り株の上からでもはっきりと見えた。
土の匂いが風に乗って、ここまで漂ってくる。
ミットリオはすぐに立ち上がった。
「はいニカラ、これどうぞ」
「わっ! 坊ちゃん! 良いんですかっ! わざわざありがとうございますっ!」
「熱中症になったら一大事だからね」
差し出したコップを、ニカラは両手でしっかり受け取った。一口飲むより先に深く息を吸い込んで、それからごくごくと、止まらないみたいに飲んでいく。
「ぷはっ!」
飲み終えた声が、さっきのミットリオとまったく同じだった。
それがなんとなく可笑しくて、ミットリオは視線をそらした。
「……もう一杯飲む?」
「えっ! 良いんですかっ?」
やはり一杯では足りなかったのか、ニカラはミットリオの問いに食い気味に答える。
「うんいいよ。まだ沢山あるし無くなったら作れば良いからね。それにこのジュースの原料の果物を買ってきてるのは、ニカラとターブツさんでしょ? 全然いいよ」
「ありがとうございます! 坊ちゃん!」
二杯目も、同じように飲み干された。
ニカラはコップを返しながら、満足そうに息をついた。タオルで口元を拭って、また畑に向き直る。
その背中が、さっきより少し楽そうに見えた。
「草取りってニカラ一人でやっているの?」
ニカラがジュースを飲みきったタイミングで、ミットリオは気になった事を聞いてみる。
「いえいえ、ターブツさんも手伝ってくれてますよ。でも畑の管理は私の方が多いかもしれませんね。ターブツさんには庭師の仕事もありますし、ここはそんなに大きな畑じゃないですから。私一人でも全然大丈夫なくらいです」
「へえ。料理人なのに、そんなことまでするんだね」
言ったとたん、ニカラがこちらを向いた。真剣な顔で——人差し指がピシッとミットリオの鼻先に立てられる。
「寧ろ料理人だからこそです。自分が使いたい食材を、新鮮な状態で美味しく手に入れたいから、自分で管理するんですよ」
「おおっ~、ニカラは料理人の鏡だね」
「そんなこと無いですよ。似たようなことをしてる料理人は沢山いますし、私よりずっとすごい人もいます。私だけが特別じゃないですよ」
言い切ったニカラは、すぐにまた雑草に手を伸ばした。
その横顔は誇らしくもなく、怒ってもいない。当たり前のことを言っただけという、静かな顔だった。
風が吹いて、麦わら帽子の縁がふわりと揺れた。
「……ねえ、少し聞いても良い?」
「はい、何ですか?」
「ニカラって、宮廷で料理人をしてたって本当?」
「ああ、はい。そうですよ」
あっさりとした答えだった。ニカラは手を止めないまま続ける。
話したくないという感じではない。ただ、少し遠い話をするときの間があった。
「……言いたくなかったら言わなくていいんだけど、何で辞めたの?」
「ん~…………」
ニカラの手が一瞬だけ止まった。引き抜いた雑草を脇に積んで、また次の一本に指をかける。しばらく黙ったまま手を動かして、やがてぽつりと言った。
「……つまらなかったからですかね」
「つまらなかったの? 宮廷の料理人が?」
「はい」
ニカラは顔を上げなかった。
「仕事は激務でしたよ。周りもよく働いてましたし、上司も出来る人でした。でも……食べてくれる人の反応が、いつもないんですよね」
反応がない。
ミットリオはその言葉を頭の中でゆっくり転がした。
「宮廷の人たちって、皆さんもう飽食を極めてるんです。贅沢すぎて、何を出されても当たり前みたいな顔をしてる。それに食べ物をよく残すんですよ。彼等はきっと、飢えを知らない人たちなんだろうなって……。それが毎日続いて、ある日、もういいやって思ったんです」
淡々とした声だった。怒りでも悲しみでもなく、ただ事実を並べているだけみたいな。でもその平坦さが、ミットリオにはなぜかずっしりと届いた。
料理を作る人間が、食べてもらえない。
美味しいと言ってもらえない。
それが毎日続くというのがどういうことか、ミットリオには正確にはわからなかった。
ただ、ミットリオは飢えを知っている。
料理を作る事も知っている。
前世では食べ物が足りないときもあった。
工夫して調理したときもあった。
食べるという行為がどれだけ大切な事かを、ミットリオは身に染みて知っている。
その事を思い出すと、ニカラのつまらないという言葉の重さだけはじわじわと伝わってきた。
「……そうなんだ」
それしか言えなかった。それ以上言葉が見つからなくて、ミットリオは膝の上に視線を落とした。
「まあその後、当主様と奥様に拾って貰ってここで働かせて貰ってるんですけどね」
そう言ってニカラは、ようやく顔を上げた。さっきまでとは少し違う明るい顔で。
「……ここはつまらなくないの?」
「全然っ!」
さっきまでの静けさが、跡形もなく消えた。
「皆、私の料理を美味しそうに食べてくれるんですよ! いつも『美味しかった、ご馳走様』って言ってくれて! それだけで私はもう報われた気持ちになります。それに——」
ニカラは少し、声のトーンを落とした。
「坊ちゃんとチェルス様、それとシュトラ様の美味しい笑顔を見るだけで、それだけでもう満足なんです」
満足、という言葉を、本当に満足そうな顔で言った。
どんな顔か、うまく説明できない。晴れているとか、明るいとか、そういう言葉では何か足りない気がする。ただその顔を見ていたら、ミットリオは自分の頬がじわりとゆるむのを止められなかった。
なんか、いいな。
言葉にしたら安っぽくなりそうで、ミットリオは黙ったまま笑った。
「それに、かっこ可愛い子供を見ると、胸がキュンキュンしてくるんですよねっ」
「…………ん?」
「チェルス様って、まだ子供なのに格好いいじゃないですか。シュトラ様は麗しくて。そういうの見るとこう、グワッと気持ちが上がってくるんですよね!」
「……そ、そうなの」
「勿論っ! ミットリオ坊ちゃんも素晴らしいですよ! もちもちのほっぺに沢山食べ物を詰めてる姿なんか、愛くるしくて思わず抱き締めたくなる程です!」
「…………えっ」
あれ、なんか急に話が変な方向に。
「……坊ちゃん……。少しでいいので、ほっぺを触らせて貰えませんか……?」
さっきまでと打って変わった、しっとりとした声音だった。
目がじんわりと光っている。じり、とニカラが一歩踏み出してきた。
ミットリオは反射的に両手で自分の頬を守った。
「……はは、触っても何もないと思うけどね」
「そんなことありません。昔はよく触らせて貰って気持ちを落ち着かせて貰いました。最近触っていないので……少しだけ……」
じり。じり。
ニカラが徐々に距離を詰めてくる。
「ごめんっ!! 用事を思い出したから中に戻るね!!」
ミットリオはその場から全力で走り出した。
背中に笑い声が追いかけてくる。
「あははっ、面白いなぁ坊ちゃんって」
笑い声が遠くなってから、ミットリオはようやく足を緩めた。
屋敷の壁に背中をつけて、はあ、と息を吐く。
なんとなく頬が熱い。
「くそっ、走ったせいだ……」
熱さなのか照れなのか妙に体が熱くなってくる。
「……次からはジュースを持っていくときは、三メートルくらい離れて渡そう」
ミットリオは額の汗を拭いながらポツリと呟いた。
裏庭ではニカラがまた草取りに戻っていた。
麦わら帽子が、風にあおられて夏の光の中でゆれていた。
虫の声と、草を抜く音だけが穏やかに続いていた。
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