第7話:選ばれた正解、封じられた泥
敵の卑劣な買収により、食材が一切手に入らなくなってしまったポラリス。諦めかける蓮の前に、最高級の「氷室熟成肉」を抱えた”あの男”が、泥だらけのスニーカーで現れます。
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再開発ビルの最上階。ナイン・グループの仮設オフィスは、足音すら吸い込まれるほどの無機質な静寂に包まれていた。
九条彰彦は、手元のタブレットに表示された膨大なテイスティング・データからゆっくりと顔を上げ、氷のように冷徹な一言を放った。
「……今回のコンペ、代表は佐伯。お前だ」
その場に、目に見えない衝撃が走った。
勝利を完全に確信していたはずの西園寺リョウは、息を呑み、目を見開いたまま凍りついている。一方で、佐伯真司は口元に浮かぶ歓喜の歪みを隠すように、深々と頭を下げた。
「九条さん……! なぜですか。僕の料理は、利益率から塩分濃度、客の脳内ドーパミン分泌量に至るまで、すべての数値で佐伯くんを圧倒していたはずだ!」
リョウの悲痛な叫びを、九条は一瞥すらせずに切り捨てた。
「リョウ。お前の皿には『迷い』という不純物が混じっている。……久我蓮に当てられたか。ポラリスの泥臭さに触れ、お前の完璧な数式にわずかな『揺らぎ』が生じた」
「それは……違います! 僕はただ、料理にもっと……!」
「私のシステムに必要なのは、魂を震わせる芸術家ではない」
九条は、リョウの存在そのものを否定するように背を向けた。
「完璧に統制され、計算通りに敵を排除する『部品』だ。……お前はもう、私にとっての『正解』ではない」
リョウの顔から、すべての血の気が引いていく。
九条は、傅く佐伯を見下ろして言った。
「佐伯。次のコンペで、あの『ポラリス』というゴミを跡形もなく消し去れ。……成功すれば、札幌拠点の全権をお前に与える。総料理長の座もだ」
「――御意に」
佐伯の瞳の奥で、長年抑え込んできた昏い野心が、どす黒い炎となって燃え上がった。
一方、商店街の定食屋『ポラリス』には、かつてないほどの行列ができていた。
源さんがこぼした「美味くなった」という噂が、常連客の口コミやSNSを通じて、瞬く間に商店街の外へと広がっていたのだ。
「アマネ、次のハンバーグだ。脂の弾ける音の色を言え!」
厨房は、熱気と活気に満ち溢れていた。蓮の包丁の音が小気味よく響き、フライパンからは暴力的なまでに食欲をそそる香りが立ち上る。
「『雪解けの川が、一気に春を連れて走ってくるみたいなエメラルド』!」
「よし、最高の温度だ。今、出す!」
二人の連携は、もはや「味覚」という壁を完全に超え、一つの生命体のようになっていた。訪れる客たちは、三ツ星の技術とアマネの「色彩」が紡ぎ出す、泥臭くも温かい『物語のある味』に酔いしれ、笑顔で店を後にする。
蓮は確かな手応えを感じていた。このままいけば、コンペでナインを打ち破れる。
――だが、その「春」は、一瞬にして踏みにじられた。
翌朝。仕入れのために商店街を訪れた蓮とアマネは、その異様な光景に足を止めた。
いつも威勢よく声をかけてくれる八百屋も、蓮の目利きを認めて「泥だらけのジャガイモ」を売ってくれた佐藤さんも、二人の姿を見た瞬間にサッと顔を伏せ、店のシャッターを半分下ろしてしまったのだ。
「……おい肉屋。昨日の『桜色の肩ロース』を頼む。……おい、聞いてるのか」
蓮の声が、静まり返った商店街の冷たい空気に響く。
肉屋さんはシャッターの奥で背を向けたまま、震える声で、絞り出すように答えた。
「……すまねぇ、坊主。……もう、あんたの店には一欠片の肉も出せねぇ」
「何だと? 理由は」
「……今朝、黒服の連中がやってきてな。商店街の組合長に分厚い札束と、『逆らえば問屋との取引を全て停止する』っていう脅しの書類を置いていきやがったんだ」
アマネが息を呑む。佐藤さんは、悔しさに声を詰まらせた。
「……あっちの契約書にハンコを押さなきゃ、俺たちは明日からこの街で仕入れができなくなる。商店街全体の流通経路を、丸ごと首根っこ押さえられちまったんだ。……俺にも、食わせなきゃならねぇ子供がいる。……トメさんを裏切るような真似をして……本当に、すまねぇ……!」
野菜も、魚も、米も。
佐伯の「最適化」という名の暴力は、ポラリスの命綱である商店街の「信頼」さえも、巨大な資本の力で強引に封じ込めたのだ。
素材を絶たれ、呆然と立ち尽くす二人の前に、黒いセダンが音もなく滑り込んできた。
後部座席から降りてきたのは、完璧な勝者の顔をした佐伯真司だった。高級な革靴が、商店街の泥水を無情に踏みつける。
「……言ったでしょう、久我さん。思い出なんて、システムにおいてはノイズでしかない。……この商店街も、ようやく我々のアルゴリズムの一部として『整理』されました」
佐伯は、シャッターの閉まった店々を見渡して薄く笑った。
「あなたの料理に使う、あの不潔な泥だらけの食材は、もうこの街のどこにも存在しません」
「……佐伯、てめぇ……!」
蓮が睨みつけるが、佐伯は全く怯むことなく蓮に歩み寄り、その耳元で、長年溜め込んだ愛憎を吐き出すように囁いた。
「私はね、蓮さん。あなたのような『天才』が大嫌いなんですよ」
「……何?」
「私はあなたの影として、何年も裏で数値を管理してきた。原価計算も、スタッフの配置も、すべて私が泥を被って完璧にこなした。……だが、九条さんが最後に評価するのは、いつもあなたのその理不尽な腕だった!」
佐伯の瞳が、血走ったように見開かれる。
「どんなに努力しても、天才の才能一つにひっくり返される。……そんな不条理は、私が終わらせる。今度は違う。……ここであなたを完全に叩き潰せば、私はこの札幌の『王』になれる」
佐伯は身を離し、蓮のコックコートを汚物でも見るような目で見下ろした。
「……せいぜい、泥の中でもがいて、そのまま窒息してください。元・帝王」
佐伯は冷たい嘲笑を残し、セダンへと乗り込んで去っていった。
ポラリスに戻った店内は、まるで墓場のように冷たく、静かだった。
蓮は火の落ちた厨房の隅で、泥を洗って赤く荒れた自分の拳を、ただじっと見つめていた。
「……終わりだ。素材がなければ、計算式もクソもない。……俺は、ただの味のわからない欠陥品だ」
その言葉は、初めて蓮が見せた、完全な「白旗」だった。
「――ふざけないでよ!」
バンッ! と、アマネがカウンターを激しく叩いた。
顔を上げた蓮の目に映ったのは、大粒の涙をいっぱいに溜めながらも、決して折れない強い光を宿したアマネの瞳だった。
「肉屋さんも、八百屋のおじちゃんも、みんな泣いてた! あんたを裏切って、あんな奴らに心まで売って、平気な顔してるわけじゃないわ!」
「……だからどうした。現実として、俺たちには肉一つない」
「みんなが本当に守りたかったのは、お金でもナインのシステムでもない! みんなが作ってきた、この『温かい場所』なのよ!」
アマネは、蓮の胸倉を掴まんばかりに身を乗り出した。
「蓮さん、あんたがここで諦めたら、おじちゃんたちの苦渋の決断も、全部ただの『裏切り』になって終わっちゃうじゃない! 私は絶対に諦めない! 泥のついたイモがないなら、私が隣の町まで走って買ってくる!」
アマネの不器用で、けれど真っ直ぐな叫び。
それは、蓮の喉の奥にこびりついていた「砂」を、一瞬だけ熱く、激しく揺らした。
その時だった。
ポラリスの重い木扉が、ギィ……と音を立てて開いた。
入ってきたのは、いつも身にまとっていたナインの高級な制服を脱ぎ捨て、くしゃくしゃのパーカーを着て、疲れ果てた表情をした――西園寺リョウだった。
彼が「廃墟」と呼んで嫌悪していた店内に、泥で汚れたスニーカーのまま足を踏み入れる。
「……リョウ? 何をしに来た。惨めな俺たちを嘲笑いに来たなら……」
「……違うんだ、蓮」
リョウはフラフラとした足取りでカウンターに近づき、持っていた大きな銀色の保冷バッグをドン、と置いた。
そして、ひどく怯えた子供のような瞳で、蓮を見つめた。
「……蓮。僕、さっき自分で作った完璧なコンソメの味が……わからなかったんだ」
「……!」
「……九条さんの言う『正解』の無菌室にずっといたら、僕の心も……いつか、蓮のように『砂』になってしまう。……それが、恐ろしかった」
リョウは震える手でバッグのジッパーを開けた。
中から現れたのは、美しい霜降りが雪のように輝く、ナイン・グループが独占契約している最高機密の『氷室熟成肉』の巨大なブロックだった。
リョウは、泥だらけになった自分のスニーカーを見下ろし、それから蓮とアマネを真っ直ぐに見つめた。
「……蓮。君たちが作ろうとしている、その『泥だらけの太陽』を……僕にも、教えてくれないか」
ナイン・グループの「最高傑作」と呼ばれた男の、すべてを投げ打った裏切り。
すべてを奪われた砂漠のポラリスに今、最強の三人が揃った。




