第6話:黄金の試作、銀世界の決闘
「この街の体温」を探すため、三日三晩の試作に没頭する蓮とアマネ。そこにナイン・グループの黒服(佐伯)が現れ、ポラリスの存亡を懸けたコンペティションが宣告されます。
ナイン側の内部抗争も描かれ、物語は一気に加速します!
ポラリスの厨房は、三日三晩、もうもうと立ち込める湯気に包まれていた。
調理台の上には、半分に割られたジャガイモ、焦げたソースの小皿、そして何度も書き直されたレシピノートが散乱している。
「……アマネ。次は」
蓮の声は掠れていた。目の下には隈が浮かんでいるが、その瞳にはかつて恵比寿で見せていたような、獲物を追い詰める猟犬のような鋭さが戻っていた。
アマネは、小皿に取られた『黄金のソース』を一口含む。
「……うーん。**『秋の夕暮れ、誰もいない道で鳴いてるバイオリン』**かな」
「……寂しすぎる、ということか。旨みの土台が足りないな」
蓮は、精肉店から仕入れた「桜色の豚肉」の脂身を細かく刻み、ソースのベースに投入した。
(恵比寿の計算式なら、ここでフォンドボーを足すのが正解だ。だが、それではリョウの『クリスタルの城』と同じになる。俺が拾わなきゃならないのは、この街の『忘れ物』だ……)
「もう一度だ」
「……ん! 今度は、『焚き火の周りに、近所の子供たちが集まってきた感じ』! 賑やかで、ちょっと鼻の奥がツンとするけど……すごく温かい!」
休憩中、蓮はトメのレシピノートを読み返していた。
アマネの言う通り、ソースの最後の工程だけが空白のまま。だが、その余白の横に、師匠の筆跡で殴り書きされたメモを見つける。
『——数字を捨てろ。土を噛め。答えは鍋の中にはない』
「……数字を捨てろ、か」
蓮は、師匠がかつて自分に言った言葉を思い出す。
『蓮。お前の包丁は鋭すぎる。そのままでは、いつか自分自身の指を切り落とすぞ』
完璧主義という名の「鋭すぎる包丁」で、蓮は自分の周りにある「温度」をすべて切り捨ててきた。九条に捨てられ、味が分からなくなったのは、心が「孤独」という極北に達してしまったからだ。
午後三時。ランチタイムを過ぎ、外はみぞれが混じり始めた。
重い扉が開き、源さんがいつもの指定席にどっこいしょと腰を下ろす。
蓮は、何も言わずに厨房から出てくると、手に持っていた一本の濡れ雑巾で、源さんの目の前にある「油と埃で汚れた窓」を、一心不乱に拭き始めた。
「……何をしてやがる。坊主」
「あんたの言う通りだった。……俺は、この窓が映している『外の色』を見ていなかった」
蓮の言葉に、源さんがピタリと動きを止める。
「今、外がどれほど寒くて、ここに来る客がどれほど肩を震わせているか。……それを知らない俺には、鍋を振る資格はなかった」
窓の曇りが取れ、みぞれ降る商店街の街灯が、にじむように光っているのが見えた。
「源さん。……一皿、作らせてくれ。あんたが少しだけ暖まれるための一皿だ」
ジュウウウウウッ!
蓮とアマネの連携は、もはや一つの生命体のようだった。
「アマネ、色を!」
「『雪原の下で、今まさに太陽が爆発したプラチナゴールド』!」
「よし、今だ!」
運ばれてきたのは、以前の「鏡」のようなハンバーグではない。不揃いな野菜の甘みが溶け出し、ソースはどろりと濃厚で、湯気と共に立ち上がる香りは暴力的なまでに食欲を刺激した。
源さんは、無言で箸を取った。
一口。二口。老人はふぅ、と長い溜息をつき、空になった皿をじっと見つめた。
「……美味くなったな」
「――え?」
「昨日までは『絵』を食わされてる気分だったが……今日のは、ようやく『飯』になった。……だがな坊主、トメの味にはまだ届かねぇ」
源さんは、コップの水を飲んで蓮を見上げた。
「お前さん、俺が冷え切ってるのを見て、ソースのスパイスを強くしただろ。……確かに体は温まったが、『どうだ、俺の技術なら温められるだろう』っていう、お前さんの【意地】が舌に刺さるんだよ。」
「……っ」
「トメの料理は、もっと間抜けで、お節介だった。食い終わった後に『明日も生きてやるか』って気にさせてくれた。……お前さんの飯はまだ、作り手の顔が前に出すぎてる」
源さんは小銭を置くと、足早に店を出た。
合格ではない。けれど、拒絶でもない。蓮の喉を通り抜けたのは、砂ではない、確かな「肉と泥の重み」だった。
源さんと入れ違うようにして、カラン、と冷たいベルが鳴った。
入ってきたのは、油の染み付いた定食屋には致命的なまでに似合わない、漆黒の高級スーツを着た男――佐伯 真司だった。
「……何の用だ、佐伯」
蓮が鋭い視線を向ける。
「お久しぶりです、久我さん。……相変わらず、底辺の泥遊びがお好きなようだ」
佐伯はパイプ椅子に座ることすら拒絶するように立ったまま、一枚の封筒を置いた。
「来月、この商店街の広場にて『再開発記念・フードコンペティション』が開催されます。ナイン側が勝てば、この『ポラリス』の土地も完全解体されます」
「……なっ! 勝手に決めないでよ!」
アマネが激昂するが、佐伯は無視してタブレットを再生した。
画面の中には、純白のキッチンスタジオで微笑むリョウの姿があった。
『——古い店、非効率な労働、ブレのある味。……そういった【悲しいノイズ】は、九条さんのシステムがすべて排除します。誰が食べても美味しい、魔法のキッチンをプレゼントさせてください』
悪意ゼロの、圧倒的な正論。
佐伯は薄く笑った。
「せいぜい、無駄な足掻きを楽しむことですね」
「……佐伯」
佐伯が背を向けた時、蓮の声が、静かに、だが地鳴りのように響いた。
「百パーセントの美味しい? ふざけるな」
蓮は無言で歩み寄り、ソースと泥で汚れた自分の両手を、真っ白なエプロンで無造作に拭った。その双眸に宿る狂気じみた熱に、佐伯は思わず後ずさる。
「外の寒さも、客がどんな泥靴を履いて帰ってきたかも計算に入っていないシステムに、何の意味がある。そんなものはただの『餌』だ」
「……負け犬の遠吠えですね」
「九条さんとリョウに伝えておけ。……お前たちの氷の城は、俺が溶かす」
蓮の瞳の奥で燃える炎に、佐伯は一瞬だけ表情を強張らせ、無言で店を出て行った。
その数時間後。再開発ビルの最上階。
そこには、ポラリスの油臭さとは無縁の、酸素さえも濾過されたような無菌の厨房があった。中央には、ナイン・グループの支配者、九条彰彦が座っている。
その前で、二人の男が鍋を下ろした。
西園寺リョウと、佐伯真司。
一ヶ月後のコンペに出品する「ナイン代表」の座を賭けた、内部選考の最終審査だ。
佐伯は、ポラリスで蓮に見せた焦りを隠し、冷淡な笑みを浮かべた。
「九条さん。私の『計算されたフォアグラのテリーヌ』です。あなたのアルゴリズムに基づき、客が最も快感を覚える塩分濃度と脂質の黄金比を完璧に再現しました。利益率、提供スピード、すべてが最適解です」
一方のリョウは、どこか迷いを帯びた瞳で、一皿のスープを置いた。
「……僕の『氷晶のコンソメ』です。……九条さんの理論を芸術にまで高めたつもりですが……少しだけ、レシピにない温度を加えました」
九条は無言で、二人の料理を口に運んだ。
一分、二分。銀世界の厨房を、重苦しい沈黙が支配する。
やがて、九条はナプキンで口元を拭い、冷徹な声を放った。
「佐伯。お前の皿は、私のアルゴリズムに対する忠誠心の塊だ。……一切の無駄がなく、恐ろしいほどに冷徹だ。……だが、美しさに欠ける」
「……ッ。ですが、客への中毒性はリョウさんを凌駕します!」
「リョウ。お前の皿は、私の理想を具現化した芸術品だ。……だが、お前の中に『毒』が混じり始めている。……あの男……の影響か」
「……九条さん、僕は……」
九条は立ち上がり、窓の外の夜景を見下ろした。
「一ヶ月後のコンペ。ポラリスという『ゴミ』を掃除し、ナイン・グループの札幌支配を盤石にするための代表を……今、決める」
九条が冷たく指差したのは――。




