第5話:泥の重さと、未完成の「太陽」
打ちのめされて雨に飛び出した蓮を、アマネが強引に連れ戻します。そして開かれた古いノートから、かつて蓮の師匠がこの店に求めた「本当の正解」が明らかに……。
いよいよ、巨大企業への反撃の狼煙が上がります!
札幌の初春に降る雨は、雪の冷たさをそのまま溶かしたような、刺すような重みがある。
商店街の入り口。街灯の鈍い光の下で、蓮は彫像のように立ち尽くしていた。
(……セカンドに戻れ、か。あいつの『舌』として生きるのが、今の俺にふさわしい救済だと……)
西園寺リョウの屈託のない笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。あいつは悪くない。ただ、自分が圧倒的に惨めなだけだ。恵比寿での栄光も、指先の繊細な感覚も、すべてが雨に打たれて泥の中に沈んでいく。
「――いつまでそこで、捨てられた子犬のマネしてんのよ!」
バシャバシャと激しく水音を立てて、アマネが一本のビニール傘を突き出してきた。彼女のボサボサの髪も、エプロンの肩も、雨でぐっしょりと濡れている。
「……放っておけ。俺はもう、お前のセンサーになる資格さえない。味が分からない男に、キッチンに立つ価値などないんだ」
「うるっさいわね! 味がわかんないなら、私が教えてあげるって何度も言わせないでよ! ほら、帰るわよ!」
アマネは、冷たくなった蓮の手を強引に掴み、凍える商店街をポラリスへと引きずり戻した。蓮が振り払おうとする力を、アマネは全体重をかけてねじ伏せ、彼を店へと引きずっていく。
その手は乱暴だったが、凍りついていた蓮の指先に、じんわりとした確かな「熱」を伝えていた。
ポラリスの店内。
アマネから渡されたタオルで頭を拭きながら、蓮は暖房の効いたカウンター席で黙り込んでいた。
アマネは、リョウが残していった宝石のようなマカロンの箱を開け、もう一つ、口に放り込んだ。
「……んぐっ。……ふーん、なるほどねぇ」
「……何がなるほどだ」
「これね、さっき『誰もいないクリスタルの城』って言ったけど」
アマネは不満げに鼻を鳴らした。
「一ミリの狂いもなく美味しいし、すっごく綺麗。……でもね、私、あのお城には住みたくないな」
「……なぜだ」
「だって、ストーブがないもん。……誰が食べても同じ、どこで食べても同じ。それってつまり、食べてる『私』のことなんか、ちっとも見てくれてないってことじゃない」
蓮は言葉を失った。
(……自分自身の『完璧』っていう鏡に恋してるだけだ)
源さんの言葉と、アマネの言葉が、蓮の中でピタリと重なる。
リョウの料理も、かつての自分の料理も、客を温めるためではなく、自分たちが「正しい」ことを証明するための、冷たい光だったのだ。
「……ほら、これ見て」
アマネは厨房の棚の奥から、一冊の古い大学ノートを取り出した。表紙は油で汚れ、ページは何度もめくられたせいで波打っている。
「おばあちゃん……トメのレシピノート。その最後の方を見て」
蓮はタオルを置き、恐る恐るそのノートを開いた。
素人の丸っこい字で書かれた、ポラリスの定食のレシピ。しかし、ページをめくるうちに、蓮の指がピタリと止まった。
「……嘘だろ」
後半のページから、突然、鋭く几帳面な文字が入り混じっていたのだ。蓮が恵比寿で何度も見返し、暗記するまで叩き込まれた、あの師匠の筆跡だった。
「おばあちゃんが、昔一緒に働いてたシェフと作ろうとしてたスペシャリテ。『太陽のハンバーグ』。……でもね、ソースの最後の工程だけ、空欄なの」
そこには、かつてこの店で並んで鍋を振っていた、トメと師匠の筆跡が入り混じっていた。
ノートの最後のページには、走り書きでこう記されていた。
『——肉の熱に負けない、けれど大地を包み込むような“色彩”が足りない。最後のピースが見つからない』
蓮はその空欄をじっと見つめる。すると、意識の奥底で、かつて師匠が酔った拍子にこぼした言葉が、鮮やかに蘇ってきた。
『最高のレシピとは計算式じゃない。その土地の“忘れ物”を拾い集める作業なんだ』
かつて師匠が酔った拍子にこぼした言葉が、今になって胸に突き刺さる。
師匠は、技術の限界を感じてこの店に来たんじゃない。
完璧な計算式の先にある「泥臭い体温」を学ぶために、ここで鍋を振っていたのだ。そして、いつか蓮がそれに気づき、共にこのレシピを完成させてくれる日を待っていた。
「……アマネ」
蓮は立ち上がり、さっきアマネに掴まれた自分の手のひらを見つめた。
雨に濡れ、土がこびりついた手のひら。そこには、恵比寿の銀世界では決して感じることのなかった、札幌の冷たい「泥」の感覚と、それを必死に温めようとしたアマネの「体温」が残っていた。
「俺に、この街の『体温』を教えろ。……このノートの空欄を、お前の『色彩』で埋めてやる」
「蓮さん……!」
蓮の瞳に、かつての冷たい傲慢さとは違う、確かな「炎」が宿っていた。
「リョウの作った氷の城を、内側から溶かし尽くす熱量。……源さんに『お粗末』とは二度と言わせない、本当の『飯』を作るぞ」
ポラリスの厨房に小さな熱が灯ったのと同じ頃。
札幌にそびえ立つ、建設中の巨大複合ビル。その最上階にある『ナイン・キャッスルズ札幌店』のオープニング準備室では、一切のノイズがない静寂が保たれていた。
「……九条代表。西園寺シェフが、先ほど商店街のポラリスに接触したようです。やはり、久我の引き抜きに動いたと見て間違いありません」
漆黒のスーツを着た佐伯が、タブレットの画面を見せながら報告する。
しかし、巨大な窓から雨の札幌市街を見下ろしていた九条 彰彦は、振り返りもせずに鼻で笑った。
「放っておけ。……今の久我に、最新のシステム(リョウ)の価値は理解できんよ。あいつは自ら『ノイズ』にまみれる道を選んだ、ただの壊れた部品だ」
「よろしいので? あの古びた商店街……特にポラリスの土地は、我々の『札幌一極集中・再開発プロジェクト』の最終区画に引っかかっています。久我が立ち退きに抵抗するとなれば、少々厄介です」
「問題ない」
九条は、大理石のテーブルに置かれていた、リョウがポラリスに持っていったものと全く同じ『新作のマカロン』を指先で摘み、口に運んだ。
「……完璧だ。糖度、食感、香りの揮発率。私の計算式に一ミリの狂いもない」
アマネが「誰もいない凍った城」と評したその味を、九条は至上の快楽として咀嚼していた。
「佐伯。来月のコンペティションの準備を進めろ。……我々の『圧倒的な正解』の前に、あの泥臭い商店街は自ら価値を失い、消え去る。久我蓮のちっぽけなプライドごと、な」
無菌のオフィスから見下ろす雨の街は、九条の目にはただの「書き換え可能なデータ」にしか見えていなかった。
圧倒的な資本と、狂気じみた完璧主義。
巨大な氷河が、小さな北極星を呑み込もうと、すぐそこまで迫っていた。




