第4話:聖人の来訪、眩しすぎる救済
泥臭く歩み始めた二人の前に、蓮のかつての仲間であり、純度100%の善意を持つ男・リョウが現れます。彼が持ってきた「完璧なスイーツ」と「残酷な提案」が、蓮の心を完全にへし折ります。
絶望の底に突き落とされる、ヒリヒリする展開をお見逃しなく!
ポラリスの厨房で、蓮は昨日買い付けた「泥だらけのジャガイモ」の山と対峙していた。
ピンセットでハーブを置いていた細い指先は、今や冷たい水で赤くかじかみ、爪の間には土が入り込んでいる。彼は源さんに言われた「意味」を探し出すかのように、一心不乱に土を洗い落としていた。
「……蓮さん、朝から根詰めすぎだって。はい、賄いのトースト」
アマネが、適当にマーガリンを塗った食パンを差し出す。
「……味がしないものを腹に入れるのは、燃料を補給する作業と同じだ。……それよりアマネ。この芋の『色』を言え。昨日より濃くなったか?」
「ええー……。昨日よりは、**『お昼寝から覚めたばかりの元気なひよこ色』**って感じかな。でも……」
その時。店の前に、泥だらけの商店街にはおよそ不釣り合いな、白く輝く高級外車が静かに止まった。
カランカラン、と軽やかなベルの音が鳴る。
扉を開けて入ってきたのは、まるでスタジオの照明を背負っているかのように発光して見える青年だった。
整いすぎた目鼻立ち、風になびく柔らかな茶髪。高級ブランドのカジュアルなジャケットを見事に着こなしたその姿は、油の匂いが染み付いたポラリスの中で、そこだけ空間が切り抜かれたような「非現実」を放っている。
「――蓮! やっとみつけたよ!」
アマネは手に持っていた食パンを床に落としそうになった。
(……えっ、何!? 何このイケメン!? 雑誌の撮影!? それとも神様かなんか降りてきた!?)
アマネの脳内センサーは「極彩色のプラチナ色」でパンク寸前だ。
「蓮、心配したんだよ! 突然いなくなるなんて。……あぁ、見てごらん、その手。あんなに綺麗だった君の指先が、こんなに……泥だらけじゃないか!」
青年は蓮の元へ駆け寄ると、さも悲劇でも起きたかのように蓮の両手を優しく包み込んだ。
「リョウ……。なぜ、ここが分かった」
蓮の声は、地を這うように低い。
「九条さんから聞いたんだ。君の師匠が昔ここに居たって、だからもしかしたらって。……それにしても蓮、ここ……凄いね。……えっと、歴史を感じるというか、なんというか。……あはは、ごめん! 正直に言うね、あまりのボロさに、一瞬廃墟かと思っちゃったよ!」
その言葉に、アマネの「イケメンへの見惚れ」が瞬時に霧散した。
「……ちょっと、お兄さん。今なんて言った? 廃墟?」
「あ、ごめんなさい! 初めまして。僕は西園寺 リョウと言います」
リョウはアマネに向かって、まばゆいばかりの「聖母の微笑み」を向けた。
「蓮を……僕の大事な親友を、今まで雨風から守ってくれてありがとう。……でも、もう大丈夫。これからは僕が、彼を『人間らしい生活』に戻してあげるから」
「……人間らしい生活?」
アマネの眉間にぴきりと青筋が浮かぶ。
「ちょっと、失礼ね! うち、お掃除は毎日してるし、ご飯だって温かいのを……」
「もちろん、分かってるよ。君の善意は素晴らしい。……でも、君も辛いだろう? こんな……調理台がガタついて、衛生管理もアルゴリズム化されていない場所で、彼のような天才を腐らせておくのは、君にとっても罪悪感があるはずだ」
リョウの言葉には、一ミリの悪意もなかった。
彼は本気で、アマネも蓮も被害者だと思い込み、全員を救済しようとしているのだ。
リョウはカウンターに、宝石箱のような美しい小箱を置いた。
「蓮、これ。ナイン・キャッスルズの新作のプティフール(焼き菓子)だ。君が昔好きだった味を、僕がさらに改良したんだ。食べてみてよ」
蓮は無言でその美しいマカロンを見つめたが、手を出さなかった。どうせ、砂の味しかしないからだ。
「……アマネ。お前が食え」
「えっ? 私が?」
アマネはリョウの視線に少し戸惑いながらも、マカロンを一つ口に含んだ。
サクッ、と羽のように軽い食感のあと、濃厚なピスタチオの香りが鼻を抜ける。
「……どうだ。何が見える」
蓮の問いに、アマネはゆっくりと目を開けた。
「……すっごく美味しい。一ミリの狂いもなく美味しいわ。でも……」
「でも、なんだ」
「……これ、**『冷たい霧に包まれた、誰もいないクリスタルの城』**みたい。……完璧で、綺麗なんだけど……凍ってるわ。誰も中で笑ってないの」
それを聞いたリョウは、ふふっと優しく微笑んだ。
「あはは。詩的な感想だね。でも、それでいいんだよ。九条さんのシステムが目指すのは『誰がいつ食べても全く同じ快感を得られる、完璧な氷の城』だからね。……さすが蓮だ、この店でも『正確な検算機能』を見つけたんだね」
リョウの言葉に、アマネは背筋がゾッとするのを感じた。
この男は、自分の料理が「冷たい」と言われたことを、最高の褒め言葉として受け取っているのだ。
リョウはカウンターに座ると、懐から一枚の真っ白な契約書を取り出した。
「蓮。来月プレオープンする『ナイン・キャッスルズ札幌店』。僕が総料理長を任されることになった。……そこで、君に僕の『セカンド(副料理長)』として戻ってきてほしいんだ」
蓮の身体が、一瞬強張った。
「……セカンドだと? お前の下につけというのか」
「そうだよ! 完璧な解決策だろう? 味覚のことも聞いた。でも、君の技術があれば、僕の指示通りに動くだけで世界一の料理が作れる。君は何も考えなくていい。僕が君の『舌』になる。……また、あの銀の壁に囲まれた、完璧なキッチンに戻ろう」
リョウは、蓮を救える喜びに瞳を輝かせている。
「蓮、君はもう味見なんてしなくていい。レシピを作るのは僕だ。君はただ、その『神業のような包丁と火入れ』だけをしてくれればいい。君の圧倒的な技術と、僕の味覚。僕が君の脳になるから、君は僕の手になってよ。最高の分業だろ?」
それはつまり、蓮から「料理人としての心」を奪い、単なる「調理マシーン」になれという死刑宣告だった。
蓮の顔から、スッと血の気が引く。
「……ちょっと待ちなさいよ!」
たまらず、アマネがカウンターから身を乗り出した。
「蓮さんは機械じゃないわ! 味が分からなくたって、二人でちゃんと正解を探してる! 蓮さんをただの道具みたいに言わないで!」
アマネの怒りに対し、リョウは一切表情を崩さず、ただ深く、悲しそうにため息をついた。
「……君は、アマネさんと言ったね。優しい人だ。でもね」
リョウの真っ直ぐな瞳が、アマネを射抜く。
「君のその曖昧なポエムで、彼の『世界一の才能』を腐らせる気かい?」
「……っ!」
「君は素人だ。君の言う『色』は主観でしかない。そんな不安定なものを頼りに料理を作らせるなんて、彼に対する冒涜だよ。……君のエゴで、久我蓮という天才を、こんな泥だらけの廃墟に閉じ込めないでくれ」
反論の余地のない、100パーセントの正論。
アマネは呼吸を止められ、言葉を失った。自分は蓮を助けているつもりで、実は彼の才能を濁らせているだけなのではないか――その恐怖が、アマネの胸を締め付ける。
「……断る。帰れ、リョウ」
蓮が、地を這うような声で絞り出した。
「蓮……。泥の中で芋を洗うのが、君の仕事じゃない」
「帰れと言っている!!」
蓮の怒声が、狭い店内に響き渡る。
リョウは驚いたように目を見開き、やがて静かに立ち上がった。
「……分かった。気が変わったら、いつでも僕のところへ来て。僕はずっと待ってるから」
真っ白な外車が去り、店内には重苦しい静寂が落ちた。
アマネが、震える声でぽつりと呟く。
「……あの人。……本心から言ってたんだね」
「……あ?」
「嫌味で『ボロい』とか『人間らしい生活』とか言ってるんじゃないんだ。……あの人、本気で、この店をゴミ溜めだと思ってて、本気で蓮さんを可哀想だと思ってて……100%の善意で、蓮さんを助けてあげようとしてたんだわ。……それが、なんか……」
アマネは、リョウが置いていったお菓子の箱をじっと見つめた。
「……一番、タチが悪いよね」
「――ああ、そうだ! あいつは『正解』なんだよ!」
蓮が、唐突に激昂した。
「あいつはダイヤモンドだ! 才能も、性格も、育ちも、すべてが磨き抜かれた完璧な宝石だ! それに比べて俺はどうだ? 味が分からず、女の言葉に縋り、泥だらけのジャガイモを洗っている……! まったくもって、あいつの言う通りだよ。俺は今、世界で一番惨めなゴミだ!」
「……蓮さん。私……」
「……言うな!!」
蓮はアマネの伸ばした手を振り払うようにして、エプロンをむしり取り、厨房を飛び出した。
札幌の冷たい春の雨が、激しく降り始めている。
土を掴んだ手のひらが、凍えるように冷たかった。
リョウの眩しすぎる光に当てられた後では、ポラリスの鈍い「生活の匂い」さえも、自分を嘲笑っているかのように感じられた。
けれど。
逃げ出したはずの蓮の足は、なぜか商店街の入り口で止まった。
彼の脳裏には、泥だらけのジャガイモの中にアマネが見出した**「太陽を閉じ込めた色」**が、リョウのどんな宝石よりも熱く、焼き付いて離れなかったのだ。




