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第10話:泥と太陽の凱歌、五感の覚醒

いよいよ運命のコンペティション。計算され尽くした佐伯の完璧なフォアグラに対し、蓮たちの泥臭いハンバーグが審査員の「本能」を暴走させます。

そしてついに、蓮の味覚に「奇跡」が……。物語の最高潮、ハンカチをご用意してお読みください!

再開発ビルの特設会場。そこは酸素さえも濾過されたような、無菌の静寂に包まれていた。

 中央の審査員席には、ナイン・グループ代表である九条彰彦と、美食家として知られる地元の有力者たちが鎮座している。


佐伯真司は、純白のシェフコートのボタンを一つ一つ、儀式のように留め直した。彼の調理台の上には、最新鋭の遠心分離機やレーザー加熱計が並び、まるで行き過ぎた科学者の実験室のようだった。


「……一ミリの誤差も、一秒の遅延も許されない」

 佐伯は呟きながら、真空パックされた最高級フォアグラを手に取った。

 彼はこの日のために、札幌市民一万人の嗜好データをアルゴリズムに叩き込んできた。どの程度の塩分で脳が快楽を感じ、どの程度の温度で脂が「中毒性」を持つか。そのすべてを数値化し、最適解を導き出したのだ。


「久我さん。天才の『閃き』などという不確かなものに頼るから、あなたは壊れたのです」

 佐伯の包丁が、迷いなく食材を裁断していく。

「……私は、あなたというノイズを排除し、この街を完璧な管理下システムに置く。それが、凡人である私の、唯一の復讐だ」


その流れるような動きには、もはや料理を楽しむ情熱などは微塵もなく、ただ「目的を完遂する」ための冷徹な殺意だけが宿っていた。



一方、ポラリスのキッチンは、命が爆発するような熱気に満ちていた。

「リョウ、氷室肉の温度は!」

「……芯まで四度。今だ、蓮!」


蓮の包丁が、肉の繊維を叩く。その速さは、もはや視認できないほどの「閃光」だった。

「アマネ、色を言え! 俺の脳に叩き込め!」


アマネは、目を閉じた。

 会場の眩しい照明を忘れ、彼女の脳裏に浮かんだのは、シャッターの閉まった商店街の景色、フェンスの隙間から弁当を頬張った工事現場の人々の笑顔。そして、冷たい雨の中で自分を連れ戻してくれた蓮の、不器用な手の熱だった。


「……今は、『凍った大地の下で、何万粒の種が春を待ちわびている、静かな黄金色』……!」

 アマネが目を見開いて叫ぶ。

「でも、蓮さんが肉を叩くたびに、そこに**『真っ赤な心臓の鼓動』**が混じり始めてる! マグマが、太陽を突き破ろうとしてるわ!!」


蓮の脳内で、バラバラだった感覚が一つに収束していく。

(……そうだ。俺が作るのはデータじゃない。この街の孤独を温める『火』だ……!)

 三つの異なる風が、フライパンの上で激しく、美しく交わっていく。




審査が始まった。

 まずは佐伯の皿。『アルゴリズムによるフォアグラのロッシーニ・札幌Style』。

 一口食べた審査員たちが、一瞬で瞳孔を散開させた。


「……素晴らしい。……いや、恐ろしい。塩味、脂質、香りのピークが、計算され尽くしている。脳が直接、美味いと叫ばされているようだ」

 九条もまた、無言で頷いた。

「……佐伯。お前は私のシステムを百二十パーセント体現した。一点の曇りもない。……まさに『正解』だ」


佐伯は、審査員たちの反応を見て、完全な勝利を確信した。彼は蓮に向き直り、冷淡に言い放つ。

「終わりましたね、久我さん。『正解』を超える解は、この世に存在しません」


しかし、蓮が静かに差し出したのは、どこにでもある、けれど立ち上がる湯気が確かな「重み」を持ったハンバーグだった。

 『ポラリス特製・氷室熟成の黄金ハンバーグ 〜泥と太陽のソース〜』。


「……なんだ、この匂いは」

 審査員の一人が、困惑しながらナイフを入れた。

 その瞬間、閉じ込められていた肉汁が溢れ出し、暴力的なまでの香りが鼻腔を突いた。


審査員が、ハンバーグを一口食べる。

 ――次の瞬間、異様な光景が広がった。

 つい先程まで上品にフォアグラを絶賛していた地元の名士たちが、突然ナイフとフォークを放り出したのだ。彼らはネクタイを緩め、添えられたパンで皿のソースを無心で拭い、まるで部活帰りの高校生のようにガツガツと貪り食い始めた。


「な……っ!? なにをしているんです、あなた方は!」

 佐伯が狼狽して叫ぶが、誰も聞いていない。

「……止まらん。理性が、吹き飛びそうだ……」

「ビッグデータには載っていなかった。……冬を乗り越えた後の、この『泥臭い土の匂い』と、太陽みたいな温かさだけは……!」

 それは、計算された脳の快楽アルゴリズムを、人間の「本能」が凌駕した瞬間だった。



九条彰彦が、最後にその皿を口に運んだ。

 蓮は、じっと九条を見つめていた。一切のノイズを許さない男の目が、ハンバーグを咀嚼した瞬間、わずかに――本当にわずかに、驚きに見開かれる。


(……届いた。あの男の氷の城を、溶かした)

 確かな手応えを感じた蓮は、ふと視線を横に向けた。

 そこには、両手をぎゅっと組み合わせ、祈るような瞳で自分を真っ直ぐに見つめるアマネの顔があった。


(ああ……)

 蓮の胸の奥で、熱いものが弾けた。

 自分はもう孤独ではない。自分の料理は、独りよがりな芸術ではない。誰かのために火を熾し、共に正解を探してくれる仲間がいる。

 その「感情の繋がり」を確信した瞬間。


――カチリ。

 蓮の脳内で、何重にも掛けられていた錠前が外れる音がした。

 喉の奥にずっと居座っていた不快な「砂」が、一瞬で溶けて消える。


「……っ!」

 自分の鼻を抜けていく、スパイスの心地よい苦味。肉の脂が持つ、圧倒的な甘み。そして、アマネが叫び続けていた、あの「色彩」という名の、愛おしい雑味。

 蓮は人生で初めて、自分の作った料理を心から「美味い」と感じていた。


「……佐伯。……お前の負けだ」

 九条の冷徹な声が、会場に響いた。


「な……!? なぜですか九条さん! アルゴリズムは私の皿を選んでいるはずだ!」

 佐伯が絶叫する。九条は空になった蓮の皿を指差した。


「……数値では測れない『毒』を、私は今、食わされたのだ。……この皿には、私のシステムが『非効率なノイズ』として切り捨ててきた、泥臭い人間の『記憶』が詰まっている。……計算できる正解など、この強烈な祈りの前では無価値だ」


九条は立ち上がり、一度も佐伯を見ることなく会場を去ろうとした。すれ違いざま、蓮にだけ聞こえる声で囁く。

「……久我蓮。……次は、私が自らお前を解析してやる」



優勝のコールと共に、歓喜に沸くポラリスのメンバー。

「やった、やったよ蓮さんっ!」

「君の勝ちだ、蓮!」

 アマネが泣きながら抱きつき、リョウが肩を叩く。蓮もまた、泥に汚れた手で、二人を力強く抱き返した。


――しかし、その眩しい光のステージの裏側。

 真っ暗な控室で、佐伯真司は一人、壁に手をついて吐くような呼吸を繰り返していた。


「……嘘だ。……全部、嘘だ。……私の積み上げた数値が……私の人生のすべてが……あんな泥だらけの残飯に……っ!」


九条に見捨てられ、自らのアイデンティティであった「システム」が崩壊した佐伯の瞳から、ついに人としての理性の光が消え失せた。濁った、真っ黒な情念だけが溢れ出していく。


佐伯は、自分のカバンから一本の包丁を取り出した。それはかつて、九条から『期待の証』として贈られた、刃に名が刻まれた美しい特注の包丁だった。


「……システムなんて、もうどうでもいい」

 佐伯は、その美しい包丁をシンクの角に叩きつけ、力任せに――バキィッ! と真っ二つにへし折った。

 折れた刃先が、鋭い音を立てて冷たい床に転がる。


「……壊してやる。……久我蓮。お前の守ったポラリスごと、全部……物理的に、消してやる……!!」


佐伯の顔に、かつての理知的な影はもうなかった。

 歓喜に酔いしれる三人の背後に、「純粋な殺意」という名の、かつてないほど暴力的で恐ろしい狂気が忍び寄っていた。

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