第7話 日々是好日ーーうまくいかない日も、ちゃんといい日よ
土曜の夜は、店が少しだけ明るくなる。
人の数じゃないの。気分の問題。
みんな、どこかで「楽しもう」としてる顔をしてる。
平日の疲れも、面倒も、寂しさも、とりあえず今夜だけは脇に置いて、少し機嫌よくいたい。
そういう顔が増えると、店の灯りまで軽く見える。
でもね、そういう日に限って、逆の人も来るのよ。
周りが楽しそうなぶん、自分の不機嫌だけがやけに目立つ夜ってあるでしょう。
本人は世界に置いていかれた気分なんだろうけど、こっちから見れば、勝手に一人で拗ねてるだけだったりする。
ドアが勢いよく開いた。
スーツの男。ネクタイが少し曲がってる。
靴はちゃんとしてるのに、結び目だけがずれてる。
ああ、今日はもう細部まで面倒見きれなかったのね、って分かる。
ちゃんとしていたい人ほど、崩れたときに中途半端でみっともない。
「いらっしゃい」
「……どうも」
席に着くなり、深いため息。
重心が前に落ちてる。
踏ん張ってる人の姿勢。
怒ってるというより、“こんなはずじゃなかった”にしがみついてる身体。
こういう人はね、現実に腹を立ててるんじゃないの。
現実が自分の期待を裏切ったことに腹を立ててるの。
「何飲む?」
「強いの」
いいわね、分かりやすい。
こういう日は、変に洒落た注文よりずっとまし。
自分が今、雑に酔って誤魔化したいってことくらいは分かってるらしい。
私はウイスキーをそのまま出した。
氷なし。
こういう日は、逃げ場を減らす。
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「最悪でした、今日」
来たわね。
「何が?」
「全部です。仕事も、予定も、全部狂って」
“全部”の人。
でもね、こういう人の“全部”って、大体“自分の思い通りにならなかった部分”のことなのよ。
世界が滅んだわけでもないのに、本人の中では終末みたいな顔をする。
「コントロールできなかったのね」
彼は顔を上げた。
「……そうです」
私はグラスを軽く指で弾く。
乾いた音。
「アンタね、世界を自分の思い通りにしようとしすぎ」
「いや、そんな……」
「してるわよ」
間を置く。
店の奥で笑い声が弾ける。
こういうとき、他人の楽しそうな声って腹立つでしょうね。
自分だけ損してる気がするから。
でも残念、誰もアンタの不機嫌に付き合う義理ないのよ。
「だって、“狂った”って言ったでしょ」
彼は黙る。
いいわね、ちゃんと止まる人。
「予定が変わった、なら分かるの。
でも“狂った”って言うのは、
“本来こうあるべきだった”に執着してる人の言い方よ」
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体操のときね、よくあったの。
完璧に準備して、本番に入る。
でも、マットの感触が違うとか、照明が眩しいとか、
ほんの少しのズレが出る。
そこでね、
“予定通りにやろう”とすると失敗するの。
なぜか。
もうその時点で、予定通りの世界じゃないから。
「じゃあ、どうするんですか」
「合わせるのよ」
短く言う。
「その場に?」
「そう」
私は少しだけ笑う。
「世界はね、アンタに合わせないの」
彼は苦笑した。
分かってきてる顔。
でもこういう人って、“分かる”のは早いのよ。
問題は、納得するまでに無駄に時間がかかること。
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「でも、ちゃんと準備してたんです」
「でしょうね」
「なのに、全部ずれて……」
「準備したことと、報われることは別よ」
私は静かに言う。
「そこ混ぜるの、子どもっぽいわよ」
彼は少しだけ顔をしかめた。
いいわね。そこよ。
「頑張ったんだから、予定通りに進むはず。
ちゃんとやったんだから、嫌なことは起きないはず。
そういう発想って、ずいぶん世界を親切だと思ってるのね」
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禅にね、「日々是好日」ってあるでしょ。
よく“毎日いい日”って訳されるやつ。
あれね、勘違いされがちなのよ。
「いい日なんて思えない日もありますよ」
「当たり前でしょ」
私は即答する。
「“いい日”ってね、楽しい日って意味じゃないの」
グラスを少し押し出す。
「その日を、そのまま受け取れた日」
彼はじっと聞いてる。
「雨の日は、雨の日でいいのよ」
「……はい」
「予定が狂った日も、そのままでいい。
イライラした日も、みっともなかった日も、うまくいかなかった日も。
“そういう日だった”で終われるなら、それで十分なの」
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少しだけ間を置く。
「アンタはね、“違う日にしよう”としてるの」
彼は息を吐いた。
長い、深い呼吸。
「……確かに」
「無理なのよ、それ」
私は静かに言う。
「今日を、昨日にも明日にもできないでしょ」
少しだけ身を乗り出す。
「なのに人って、自分の機嫌が悪いとすぐ“今日は失敗”って判定したがるの。
何様なのかしらね。
ただ一日を通っただけなのに」
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店の空気が、少し落ち着く。
音が遠くなる感じ。
「でも、イライラするのはどうしたら……」
「していいのよ」
彼は驚いた顔をした。
「イライラしてる日も、“その日”だから」
少しだけ笑う。
「それも含めて、好日」
「そんなふうに思えないです」
「思わなくていいの」
私は肩をすくめる。
「“いい日だなあ”って感動しろなんて言ってない。
ただ、抵抗をやめなさいって言ってるの」
「抵抗……」
「そう。
起きたことに腹を立てるのは勝手。
でも、“起きなかったことにしたい”まで行くと、ただの駄々よ」
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彼は黙った。
図星ね。
「アンタ、今日ずっと“こんなはずじゃなかった”って思ってたでしょ」
「……はい」
「そういう日もあるのよ。
で、あるものはある。
そこにいつまでも文句つけてるの、現実に負けてるっていうより、現実を認めるのが遅いだけ」
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彼はグラスを持ち上げた。
一口飲む。
さっきより、喉に落とす速度が遅い。
「なんか……許された感じがします」
「誰に?」
「自分に」
いいわね。そこ。
「それでいいの」
私は頷く。
「全部コントロールしようとする人ってね、自分にも厳しすぎるの」
少し間を置く。
「ちゃんとしなきゃ。
崩れちゃだめ。
予定通りに進めなきゃ。
そうやって自分を締め上げて、うまくいかなかったら勝手に失望する。
忙しいわよね、ほんと」
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「ちょっとくらい崩れても、死なないわよ」
彼は笑った。
さっきより、ずっと軽い。
「じゃあ、今日はこのままでいいんですね」
「いいのよ」
私はグラスを軽く叩く。
「むしろ、そのままにしなさい」
「整えなくていい?」
「今夜はね」
少しだけ笑う。
「無理に整えた顔って、だいたい朝にはまた崩れるから」
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帰る頃には、ネクタイが少し整っていた。
でもね、さっきより力が抜けてる。
無理に正した感じじゃない。
自分で少し戻った人の手つき。
いい変化。
ドアの前で、彼は振り返る。
「……ありがとうございました」
「どういたしまして」
ドアが閉まる。
外の夜が、そのまま続いていく。
誰の都合とも関係なく、ちゃんと夜。
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私はグラスを拭きながら、ひとり呟く。
「世界は、アンタの機嫌なんか取らないのよ」
少しだけ間を置く。
「だから、自分で折り合いをつけなさい」
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カラン、と氷が鳴る。
今夜は、やわらかい音だった。




