第8話 放下著ーー離してるつもりで、一番握ってるのはアンタよ
日曜の夜は、少しだけ空気が遅い。
週末の終わりってね、みんな手に余ったものを持ち込んでくる。
平日に押し込めていた疲れ、土曜に誤魔化した寂しさ、片づけるつもりで片づかなかった感情。
日曜の夜は、そういう“処理しきれなかったもの”がよく似合う。
ドアが開いて、女が入ってきた。
化粧は整ってる。髪も乱れてない。服もちゃんとしてる。
でも目元だけ、疲れてる。
泣いた顔を隠すのが上手くなった人の目。
「いらっしゃい」
「……こんばんは」
席に着くまでが、少し長い。
決めきれない人の動き。
座る場所ひとつでも、“ここでいいのかな”を挟む。
こういう人はね、恋愛でもだいたい同じ。
終わったあとまで、まだ相手の気配に許可を取ってる。
私は水を出した。
彼女はそれを、両手で包むみたいに持つ。
冷たいものに触れてるのに、手つきだけは縋るみたい。
ああ、まだ何かを掴んでいたいのね、と思う。
「何飲む?」
「軽いの、お願いします」
声が少しだけ掠れてる。
泣いた後の声。
泣き疲れた人って、喉から先に諦めるのよ。
「どうしたの?」
しばらく黙ってから、ぽつりと出てきた。
「別れたんです」
はい、来たわね。
⸻
「最近?」
「一ヶ月くらい前です」
「じゃあ、まだ握ってるわね」
彼女は少し驚いた顔をする。
「……もう終わったつもりです」
「つもりね」
私は氷をひとつ落とす。
カラン、と乾いた音。
「連絡、取ってるでしょ」
少しの沈黙。
「……はい」
「見てる?」
「……SNS、たまに」
「それ、握ってるのよ」
彼女は目を伏せた。
分かってる顔。
こういう人は、本当は最初から分かってるの。
ただ、“まだ好きだから”って言えば綺麗に聞こえるから、執着を恋の続きみたいに扱ってるだけ。
⸻
「でも、嫌いになったわけじゃなくて……」
「なら、なおさらよ」
私は静かに言う。
「中途半端が一番離れないの」
嫌いなら切れるの。
腹が立てばブロックもできる。
でも、嫌いじゃない、でも戻れない、でも忘れたくない、でも苦しい。
ああいう半端な感情って、本人は繊細ぶるけど、実際はただ往生際が悪いだけだったりする。
⸻
体操のときね、よく言われたの。
“手を離すタイミングを間違えるな”って。
バーを掴んだままじゃ、次の技にいけない。
でも怖いのよ、離すの。
その一瞬、何も掴んでない状態になるから。
身体が宙に出る。
支えが消える。
自分の感覚しか残らない。
「恋愛も同じ」
彼女はグラスを見つめてる。
指に力が入ってる。
「アンタ、離してないわよ」
「でも……」
「“でも”があるうちは、全部繋がってる」
⸻
少しだけ間を置く。
店の奥で、笑い声が遠くに聞こえる。
こういうとき、他人の楽しそうな声って少し残酷でいい。
自分だけまだ終われてないのが、よく分かるから。
禅にね、「放下著」ってあるの。
手放せ、って意味。
彼女が顔を上げる。
「……手放してます」
「嘘」
きっぱり言う。
「本当に手放した人はね、“手放したかどうか”なんて考えないの」
彼女の呼吸が、少し乱れる。
「アンタ、ずっと考えてるでしょ」
「……はい」
「それが握ってる証拠」
⸻
私はグラスを軽く押し出す。
「いい? 手放すってね、“なくすこと”じゃないの」
ゆっくり言う。
「触らないこと」
彼女は黙って聞いてる。
「思い出すのはいいの。
思い出は勝手に出てくるから。
匂いとか、音楽とか、帰り道とか。
そういうので急に戻るのは仕方ない」
少し間を置く。
「でも、自分から触りに行くのは別」
「……見ない、ってことですか」
「そう」
「連絡も?」
「そう」
「写真も?」
「そう」
「共通の友達に探り入れるのも?」
彼女は少しだけ顔をしかめた。
図星ね。
「……してないです」
「してそうな顔してるわよ」
彼女は思わず笑った。
いいのよ、そのくらい。
泣いてる人に少し笑わせながら刺すと、よく入るから。
⸻
彼女は目を閉じた。
しばらく、何も言わない。
「怖いです」
やっと出た、本音。
「当たり前でしょ」
私は少しだけ笑う。
「何も掴んでない状態、怖いに決まってる」
体操の空中。
あの一瞬。
どこにも触れてない。
落ちるかもしれない。
でもね、あそこ通らないと、次にいけないの。
「アンタ、今そこ避けてる」
彼女はゆっくり頷いた。
「……どうしたらいいですか」
「一回、完全に離しなさい」
短く言う。
「完全に……」
「中途半端が一番長引く」
⸻
店の空気が、少しだけ静まる。
こういう沈黙はいい。
言葉が慰めじゃなくて、処置になる瞬間。
「いい? 離すってね、優しさなのよ」
彼女が顔を上げる。
「相手のためでもあるし、自分のためでもある」
間を置く。
「ずっと握られてるの、相手も重いのよ」
彼女は苦く笑った。
「……確かに」
「でしょ」
私は頷く。
「“まだ好きだから”って顔してるけど、
相手からしたら“まだこっち見てるのか”ってだけのこともあるの。
恋って、終わったあとまで美しく扱われすぎなのよ。
実際は、しつこい未練なんてだいたい重い」
⸻
彼女は黙った。
でも、さっきみたいな沈み方じゃない。
ちゃんと刺さって、ちゃんと考えてる顔。
「だから、離しなさい」
静かに。
「ちゃんと」
彼女はグラスを持ち上げた。
さっきより、力が抜けてる。
「……やってみます」
「やるのよ」
少しだけ笑う。
「“みる”じゃなくて」
彼女も、少しだけ笑った。
「厳しいですね」
「優しく言うと、みんな先延ばしするから」
私は肩をすくめる。
「失恋した人ってね、悲しいんじゃなくて、
“まだ触れていたい自分”に酔ってることもあるの。
そこ、見逃すと長引くのよ」
⸻
帰る頃には、目元の重さが少し取れていた。
完全じゃない。
でもね、手の力が緩んでる。
来たときみたいに、水のグラスにまで縋ってない。
ドアの前で振り返る。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
ドアが閉まる。
夜が、そのまま続く。
誰かが別れようが、未練を抱えようが、夜は夜のまま進む。
そういうところ、世界って冷たくて助かるのよね。
⸻
私はグラスを拭きながら、ひとり呟く。
「離してるつもりで、一番握ってるのはアンタよ」
少しだけ間を置く。
「未練ってね、綺麗に見せると余計に腐るの」
⸻
カラン、と氷が鳴る。
今夜は、少し長く響いた。




