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新宿二丁目は小さな寺  作者: はまゆう


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8/9

第8話 放下著ーー離してるつもりで、一番握ってるのはアンタよ


 日曜の夜は、少しだけ空気が遅い。

 週末の終わりってね、みんな手に余ったものを持ち込んでくる。

 平日に押し込めていた疲れ、土曜に誤魔化した寂しさ、片づけるつもりで片づかなかった感情。

 日曜の夜は、そういう“処理しきれなかったもの”がよく似合う。

 ドアが開いて、女が入ってきた。

 化粧は整ってる。髪も乱れてない。服もちゃんとしてる。

 でも目元だけ、疲れてる。

 泣いた顔を隠すのが上手くなった人の目。

「いらっしゃい」

「……こんばんは」

 席に着くまでが、少し長い。

 決めきれない人の動き。

 座る場所ひとつでも、“ここでいいのかな”を挟む。

 こういう人はね、恋愛でもだいたい同じ。

 終わったあとまで、まだ相手の気配に許可を取ってる。

 私は水を出した。

 彼女はそれを、両手で包むみたいに持つ。

 冷たいものに触れてるのに、手つきだけは縋るみたい。

 ああ、まだ何かを掴んでいたいのね、と思う。

「何飲む?」

「軽いの、お願いします」

 声が少しだけ掠れてる。

 泣いた後の声。

 泣き疲れた人って、喉から先に諦めるのよ。

「どうしたの?」

 しばらく黙ってから、ぽつりと出てきた。

「別れたんです」

 はい、来たわね。

「最近?」

「一ヶ月くらい前です」

「じゃあ、まだ握ってるわね」

 彼女は少し驚いた顔をする。

「……もう終わったつもりです」

「つもりね」

 私は氷をひとつ落とす。

 カラン、と乾いた音。

「連絡、取ってるでしょ」

 少しの沈黙。

「……はい」

「見てる?」

「……SNS、たまに」

「それ、握ってるのよ」

 彼女は目を伏せた。

 分かってる顔。

 こういう人は、本当は最初から分かってるの。

 ただ、“まだ好きだから”って言えば綺麗に聞こえるから、執着を恋の続きみたいに扱ってるだけ。

「でも、嫌いになったわけじゃなくて……」

「なら、なおさらよ」

 私は静かに言う。

「中途半端が一番離れないの」

 嫌いなら切れるの。

 腹が立てばブロックもできる。

 でも、嫌いじゃない、でも戻れない、でも忘れたくない、でも苦しい。

 ああいう半端な感情って、本人は繊細ぶるけど、実際はただ往生際が悪いだけだったりする。

 体操のときね、よく言われたの。

 “手を離すタイミングを間違えるな”って。

 バーを掴んだままじゃ、次の技にいけない。

 でも怖いのよ、離すの。

 その一瞬、何も掴んでない状態になるから。

 身体が宙に出る。

 支えが消える。

 自分の感覚しか残らない。

「恋愛も同じ」

 彼女はグラスを見つめてる。

 指に力が入ってる。

「アンタ、離してないわよ」

「でも……」

「“でも”があるうちは、全部繋がってる」

 少しだけ間を置く。

 店の奥で、笑い声が遠くに聞こえる。

 こういうとき、他人の楽しそうな声って少し残酷でいい。

 自分だけまだ終われてないのが、よく分かるから。

 禅にね、「放下著」ってあるの。

 手放せ、って意味。

 彼女が顔を上げる。

「……手放してます」

「嘘」

 きっぱり言う。

「本当に手放した人はね、“手放したかどうか”なんて考えないの」

 彼女の呼吸が、少し乱れる。

「アンタ、ずっと考えてるでしょ」

「……はい」

「それが握ってる証拠」

 私はグラスを軽く押し出す。

「いい? 手放すってね、“なくすこと”じゃないの」

 ゆっくり言う。

「触らないこと」

 彼女は黙って聞いてる。

「思い出すのはいいの。

 思い出は勝手に出てくるから。

 匂いとか、音楽とか、帰り道とか。

 そういうので急に戻るのは仕方ない」

 少し間を置く。

「でも、自分から触りに行くのは別」

「……見ない、ってことですか」

「そう」

「連絡も?」

「そう」

「写真も?」

「そう」

「共通の友達に探り入れるのも?」

 彼女は少しだけ顔をしかめた。

 図星ね。

「……してないです」

「してそうな顔してるわよ」

 彼女は思わず笑った。

 いいのよ、そのくらい。

 泣いてる人に少し笑わせながら刺すと、よく入るから。

 彼女は目を閉じた。

 しばらく、何も言わない。

「怖いです」

 やっと出た、本音。

「当たり前でしょ」

 私は少しだけ笑う。

「何も掴んでない状態、怖いに決まってる」

 体操の空中。

 あの一瞬。

 どこにも触れてない。

 落ちるかもしれない。

 でもね、あそこ通らないと、次にいけないの。

「アンタ、今そこ避けてる」

 彼女はゆっくり頷いた。

「……どうしたらいいですか」

「一回、完全に離しなさい」

 短く言う。

「完全に……」

「中途半端が一番長引く」

 店の空気が、少しだけ静まる。

 こういう沈黙はいい。

 言葉が慰めじゃなくて、処置になる瞬間。

「いい? 離すってね、優しさなのよ」

 彼女が顔を上げる。

「相手のためでもあるし、自分のためでもある」

 間を置く。

「ずっと握られてるの、相手も重いのよ」

 彼女は苦く笑った。

「……確かに」

「でしょ」

 私は頷く。

「“まだ好きだから”って顔してるけど、

 相手からしたら“まだこっち見てるのか”ってだけのこともあるの。

 恋って、終わったあとまで美しく扱われすぎなのよ。

 実際は、しつこい未練なんてだいたい重い」

 彼女は黙った。

 でも、さっきみたいな沈み方じゃない。

 ちゃんと刺さって、ちゃんと考えてる顔。

「だから、離しなさい」

 静かに。

「ちゃんと」

 彼女はグラスを持ち上げた。

 さっきより、力が抜けてる。

「……やってみます」

「やるのよ」

 少しだけ笑う。

「“みる”じゃなくて」

 彼女も、少しだけ笑った。

「厳しいですね」

「優しく言うと、みんな先延ばしするから」

 私は肩をすくめる。

「失恋した人ってね、悲しいんじゃなくて、

 “まだ触れていたい自分”に酔ってることもあるの。

 そこ、見逃すと長引くのよ」

 帰る頃には、目元の重さが少し取れていた。

 完全じゃない。

 でもね、手の力が緩んでる。

 来たときみたいに、水のグラスにまで縋ってない。

 ドアの前で振り返る。

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

 ドアが閉まる。

 夜が、そのまま続く。

 誰かが別れようが、未練を抱えようが、夜は夜のまま進む。

 そういうところ、世界って冷たくて助かるのよね。

 私はグラスを拭きながら、ひとり呟く。

「離してるつもりで、一番握ってるのはアンタよ」

 少しだけ間を置く。

「未練ってね、綺麗に見せると余計に腐るの」

 カラン、と氷が鳴る。

 今夜は、少し長く響いた。


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