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第9話 姉は人を運んだ

火刑まで、あと十二日。


 アルベリクは剣を抜いた。


 切っ先を、姉の喉へ向ける。


 セシリアは逃げなかった。


 白い首へ刃が触れても、目を閉じない。


「いつから知っていた」


「マグダレナの頁を焼いた夜から」


「嘘だ」


「何が?」


「代わりの名が出たのは、私も見た。聞いているのは、その子が連れてこられると知っていながら、いつ承認したかだ」


「三日前」


「私に隠していた」


「あなたは王都中へ請求書を開いた。授印式の前に言えば、ノエル一人を助けるために儀式を捨てたでしょう」


「当然だ」


「そして別の子が選ばれた」


「だから何もしなかったと?」


「違う」


 剣先が皮膚を切った。


 細い血が、セシリアの首を伝う。


「私は、名簿から外されないために承認した」


「十一歳の子どもを売って、居場所を守った」


「そうよ」


 セシリアは一度も否定しなかった。


「拒めば、教会は別の聖女見習いに印を押させる。私は運搬記録へ触れられなくなる。だからノエルの書類へ印を押し、次の名簿を写した」


「それを正しいと思っているのか」


「思っていない」


「なら、なぜそんな顔で立っていられる」


「座れば、何か戻る?」


 アルベリクの手に力が入った。


 今、刃を引けば姉は死ぬ。


 前の人生で救えなかった姉を、自分の手で殺せる。


 ノエルの代わりに。


 マグダレナの代わりに。


 名簿の八千人の代わりに。


「殿下」


 ヴィクトルが低く呼んだ。


「止めるな」


「止めてない。殺すなら、自分で理由を決めろ」


「十分にある」


「そいつを殺せば、地下の人間が出られるのか」


 答えられなかった。


「兄ちゃん」


 寝台の上から、ノエルが言った。


「その人を殺したら、僕は家に帰れる?」


「……帰す」


「僕の代わりに、誰かが来る?」


 アルベリクは黙った。


「じゃあ、その人を殺す前に、そっちを何とかして」


 十一歳の声に叱られ、剣を握る指が震えた。


 セシリアは刃から逃げない。


 逃げないことまで、腹立たしかった。


「死にたいのか」


「死にたくない」


「なら避けろ」


「避けたら、あなたは私が反省していないと思うでしょう」


「今も思っている」


「そう」


 姉の声が、ほんの少しだけ掠れた。


「死んで償えば、私は善人で終われる。脅されて印を押した可哀想な聖女。最後は弟に裁かれた悲劇の姉。きっと、きれいな物語になる」


「何が言いたい」


「そんなものに逃げたくない」


 青い瞳が、刃の向こうから弟を見る。


「私は生きたい。あなたの記憶を使っても、ノエルへ印を押しても、生きたい」


「最低だな」


「ええ」


「死ねば楽になるぞ」


「ええ」


 セシリアは頷いた。


「だから生きる。生きて、自分が入れた人を全員ここから出す」


 アルベリクは剣を下ろした。


 赦したのではない。


 姉の言葉に納得したのでもない。


 今ここで死なれることが、あまりにも姉に都合よく思えただけだ。


「傷を押さえろ」


 布を投げる。


 セシリアは受け取り、首へ当てた。


「私を許す?」


「許さない」


「いつかは?」


「それを今、私に約束させるな」


「分かった」


「だが、作戦は任せる」


 セシリアの目が見開かれた。


「信じるの?」


「違う。責任を取らせる」


「同じことよ」


「まったく違う」


「あなたにとってはね」


 姉は血のついた布を結んだ。


 ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をした。


 けれど涙は落とさなかった。


          ◇


 セシリアは白い名簿を床へ広げた。


 青い複写をつなぎ合わせると、砦地下の全景が現れた。


「供物は三つの道から入る。王都の聖路、国境の水路、礼拝堂の昇降路」


 青い線を、入ってきた方向と逆へなぞる。


「運び込めるなら、運び出せる」


「八千人を?」


 ヴィクトルが聞く。


「一人ずつでは無理。聖女の儀で、全員の寿命が中央炉へ集まる瞬間を使う」


「あと十二日しかない」


「十二日ある」


 セシリアは弟と同じ言い方をした。


「流れを逆にすれば、三つの道が同時に出口になる。王都へ二千、川へ三千、砦内へ三千。目覚めた人を運ぶ馬車と船が要る」


「敵国にも協力させる気か」


「ザフィールは妹のためなら来る」


「聖騎士は」


「説得する」


「聞かなければ」


「あなたが剣を向ける相手は、私ではなくなるわね」


 セシリアは青い筆を取った。


 名簿の余白へ、大きく文字を書く。


『全員、生存』


「命令か」


「目標よ」


「一人でも死ねば失敗?」


「ええ」


「無茶だ」


「一人を切れば八千人が助かる、ではザフィールと同じでしょう」


 アルベリクは言い返せなかった。


 自分で百人を切らないと言った。


 ならば、切らずに済む道を作る責任がある。


「兄ちゃんたち」


 ノエルが寝台から足を下ろした。


 まだ立てず、ヴィクトルが肩を支える。


「僕はどうするの」


「ここから連れ出す」


 アルベリクが答えた。


「今?」


 問い返され、言葉に詰まる。


 今出せば、次の代替供物が選ばれる。


 十二日後までここへ置けば、ノエルはまた炉につながれるかもしれない。


「選べと言うつもりはない」


「どうして?」


「どちらを選んでも、十一歳の君が責任を負うことになる」


「僕のことなのに」


「だからだ」


 ノエルは考え込んだ。


「じゃあ、お願いがある」


「言ってみろ」


「眠らせないで」


 少年は壁の腕を見た。


「起きていれば、次の子が来たときに教えられる。ここは危ないって」


「次の子は来させない」


「でも来たら?」


「来ても、君の責任ではない」


「知ってる。でも、教えたい」


 大人三人が黙った。


 ノエルは、自分の命で誰かを救うという選択を取り上げられた。


 その代わりに、自分の声で誰かへ知らせる道を選んだ。


「分かった」


 アルベリクは頷いた。


「眠らせない。必ず迎えに来る」


「忘れない?」


 何げない問いだった。


 アルベリクはすぐに答えられなかった。


 ノエルは彼の力を知らない。


 それでも、最も痛い場所へ言葉が届いた。


「書いておく」


「覚えててほしい」


「努力する」


「それ、忘れる人の返事だよ」


 ノエルが少し笑った。


 セシリアが自分の青い帳面を開く。


「私も覚える」


「お姉さんは、僕をここへ入れた人でしょう」


「ええ」


「じゃあ、絶対に忘れないね」


「ええ。忘れさせてもらえないわ」


 セシリアはノエルの名の横へ書いた。


『起きて待つ。迎えが必要』


 その下へ、逆向きの輸送路を青い線で引く。


 入口から出口へ。


 供物から、生きて帰る人へ。


 それから一日、三人は出口ごとの人数と必要な馬車を数え続けた。


 ノエルは眠らず、青い名簿に見つけた名を読み上げた。自分の名以外を呼ぶたび、壁の寝息がわずかに人間のものへ戻った。


 地上で夜が明ける直前、最後の経路を書き終えた。


          ◇


 低い鐘が鳴った。


 地下の青い光が一斉に消える。


 闇の中で、ノエルが息を呑んだ。


「何の鐘だ」


 ヴィクトルが剣を抜く。


「夜明けには早い」


 セシリアが名簿を抱えた。


 次の瞬間、白い光が天井の隙間から落ちてきた。


 一本。


 二本。


 雨のように増え、壁の腕へ突き刺さる。


 青く脈打っていた皮膚が、白い炎に包まれた。


 熱くない。


 それなのに、黒い請求書だけが焼ける臭いを立てる。


「聖火……」


 セシリアの顔から血の気が引いた。


 砦全体が震えた。


 遠くで兵士たちの叫びが上がる。


 壁の伝声管から、男の声が響いた。


「聖騎士団長ヨハネスの名において告げる」


 厳格で、迷いのない声だった。


「国境聖塞に異端汚染を確認」


 白い炎が、ノエルの寝台へ這い寄る。


 眠る腕の青い脈が、端から白へ塗り替えられていく。


 八千人の寝息が、ひとつずつ浅くなった。


「王国軍、ナディール軍、地下供物を区別せず――」


 声は、最後まで正しかった。


「敵味方とも、すべて聖別せよ」




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