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第10話 白い火で君を忘れる

火刑まで、あと十一日。


 白い聖火の請求は、敵にも味方にも伸びていた。


 砦の兵士。


 川向こうのナディール軍。


 壁の中で眠る八千百二十六人。


 黒い文字が全員の腕に浮かぶ。


 聖別代 残り寿命全量。


 支払期限 夜明けの鐘。


 白い炎が地下の天井を覆う。


 熱はない。


 けれど触れた石から、長い年月を一息に奪っていく。白かった壁が灰色になり、ひび割れ、砂になって落ちた。


 人間へ届けば、同じことが起きる。


「あと何分だ」


 ヴィクトルがノエルを背負い、炎から離れる。


「夜明けの鐘まで、七分」


 セシリアが答えた。


「全員を起こせるか」


「無理よ」


「分ければ」


 アルベリクは壁へ手を当てた。


 砦へ来た日、兵たちは百二十日を分けた。


 八千人でも、一人ずつが同意すれば――。


「眠っている人は同意できない」


 セシリアが先に言った。


「砦と敵陣だけでも」


「七分で何千人に聞くの」


「伝声管を使う」


「聞こえても、答えは集められない」


「ではどうしろと言う!」


 答えはなかった。


 白い炎だけが近づく。


 ヴィクトルの背で、ノエルが小さく咳をした。


「僕、払うよ」


「黙ってろ」


 ヴィクトルが即座に言った。


「でも、僕が――」


「子どもに払わせる話をしてない」


「九歳のリュカには言わないくせに、十一歳のお前へ頼むほど落ちぶれてない」


 ノエルは唇を結んだ。


 その会話の間にも、白い炎は彼の足首へ伸びている。


 階段の上から、金属靴の音が降りてきた。


 白銀の鎧を着た聖騎士たち。


 先頭の男は兜を脱いでいた。


 短く刈った灰色の髪。厳しい目。胸元には聖騎士団長の紋章。


「第七王子」


「ヨハネス団長」


「黒い聖痕を閉じ、炉から離れなさい」


「この火を止めろ」


「できません」


「あなたの命令だろう」


「命令は私が下した。決定は聖庁です」


「同じだ」


「同じではない」


 ヨハネスは剣を抜かなかった。


「私は責任を他者へ移すつもりはありません。命令に従い、ここにいる全員を聖別します」


「八千人を殺す責任も負うと?」


「八千人は、すでに国のため寿命を差し出した供物です」


 ノエルの指が、ヴィクトルの肩で縮こまる。


「聞いたか。あの子は眠るだけと聞かされた」


「個別の説明に不備があったことは認めます」


「不備?」


 アルベリクの声が低くなる。


「死ぬと教えなかったことが、書類の不備か」


「言葉を選んでいる時間はありません」


「人を選ぶ時間はあったのに?」


 ヨハネスの眉が動いた。


 それでも、彼は退かなかった。


「この炉が異端に奪われれば、結界が落ちる。戦が始まり、飢えと疫病が戻る。八千人で済まなくなる」


「だから八千人を焼く」


「そうです」


「本人に聞かずに」


「国を守る決断は、全員の返事を待てません」


 正しい声だった。


 迷いも、私欲もない。


 だからこそ、アルベリクは目の前の男を恐ろしいと思った。


 セシリアの複写も、ヴィクトルの妹も、ノエルの声も。


 ヨハネスの中では、すべて八千という数字へ戻されている。


「夜明けまで、五分」


 セシリアが言った。


 天井から白い炎が落ちる。


 白い炎が聖騎士の一人の腕へ触れた。


 男は声もなく倒れ、兜の下からこぼれた髪が一瞬で白くなった。


「団長!」


「陣形を崩すな!」


 ヨハネスの命令に、騎士たちは倒れた仲間を見ながら踏みとどまる。


 自分たちも請求先だと知らされていない。


「あなたの部下も死ぬぞ」


「覚悟の上です」


「今、本人へ聞いたか」


 ヨハネスは答えなかった。


 そのとき、地下水門が爆ぜた。


 濁流とともに、金色の鎧が飛び込んでくる。


「王子!」


 ザフィールだった。


 左腕に青い薔薇の帳面を縛り、右手に剣を持っている。


「なぜ来た」


「敵陣へ伸びた白い火を追った!」


 ザフィールは壁の名を見た。


 アミナ・ハディル。


 一瞬だけ目を閉じる。


 すぐにヨハネスへ剣を向けた。


「あれを殺せば止まるか」


「止まらない」


「では、炉を壊す」


「八千人も死ぬ」


「他に手は」


 アルベリクは答えなかった。


 ザフィールが、その沈黙を読んだ。


「あるのだな」


「ある」


「お前が一人で払う方法か」


 なぜ分かったのか。


 四日前、一度酒を飲んだだけの敵だ。


「その顔は、百人を切る俺を責めた顔と同じだ」


 ザフィールが近づく。


「今度は自分一人を切ればいいと思っている」


「私の記憶で済む」


「俺たちの命だ」


「だから救う」


「違う。俺たちの選択だ」


 白い炎が壁を覆う。


 妹の腕が燃えかけても、ザフィールはアルベリクから目を逸らさなかった。


「勝手に奪うな」


「死にたいのか」


「選びたいと言っている」


「時間がない!」


「時間がなければ、何をしてもいいのか!」


 その問いが地下へ響いた。


 アルベリクは答えられない。


 答える代わりに、中央炉へ走った。


「止めろ!」


 ヴィクトルが追いつき、後ろから腕をつかむ。


 今度は両腕で締め上げた。


「砦へ来た日と同じだ。一人で払うな」


「あのときは、待てた」


「今回も考えろ」


「四分で八千人の同意を取る方法を言え!」


「分からん!」


「なら離せ!」


「分からんから、全員で考えるんだろうが!」


 ヴィクトルの腕はびくともしない。


 アルベリクは親指を内側へ折った。


 鈍い音がした。


 関節を外し、手を引き抜く。


「馬鹿野郎!」


 中央炉へ黒い手を押し当てた。


 八千人の請求が流れ込む。


 頭の中へ、冷たい声が直接響いた。


 肩代わり対象 聖別債務全件。


 同意者 零。


 強制代位 可能。


 記憶代価 二倍。


「アルベリク、やめて!」


 セシリアの声。


 姉の声だと分かる。


 今は、まだ。


「名簿を完成させろ」


 アルベリクは振り返らずに言った。


「あなたなしで、どうやって」


「姉上が作った作戦だ」


「あなたが信じてくれたから作れたの!」


 信じる。


 今夜、剣を下ろしたときに選び直した感情。


 それが頭の奥で震えた。


 奪われるものが分かった。


「ザフィール」


「やめろ」


「帳面を守れ」


「自分で覚えていろ!」


「ヴィクトル」


「聞かんぞ」


「全員の名前を」


「自分で呼べ!」


「ノエル」


 少年は泣いていた。


「迎えに来る約束を、姉上にもさせた」


「兄ちゃんも来て」


「努力する」


「また、その返事だ」


 夜明けの鐘まで、三分。


 アルベリクは目を閉じた。


「同意はない」


 自分の声が、黒い炉へ落ちる。


「それでも、私が払う」


 白い世界へ、黒い炎が噴き上がった。


          ◇


 黒い炎は、地上へ向かって逆流した。


 八千人の腕から白い聖火を剥がし、天井を駆け上がる。


 砦を覆っていた白い光が、下から黒く染まっていく。


 白い炎を、黒い炎が飲む。


 敵陣へ伸びた請求が切れる。


 砦兵の腕から「全量」の文字が消える。


 聖騎士たちが倒れた仲間へ駆け寄る。


 壁の中の八千百二十六人が、一斉に息を吸った。


 生きている。


 全員。


 救えた。


 アルベリクの頭の中で、黒い砂が舞った。


 白い川。


 黒い杯。


 豪快な笑い声。


『お前が忘れるなら、俺が覚えておく』


 青い花弁が、日付を書いた頁へ挟まれる。


 誰の手だった。


 顔が消える。


 声が消える。


 杯を交わしたときに生まれた、奇妙な親しさが消える。


 次に、青いインクが見えた。


 姉の首へ剣を向けた。


 死なずに償うと言った。


 赦さないまま、背中を預けた。


 あの夜、自分は何を選んだ。


 青い線が逆向きに走る。


 信じる理由が、線の端から焼け落ちる。


 セシリアという名は残った。


 姉だという事実も残った。


 ただ、彼女へ背中を向けても大丈夫だと思えた感情だけが、きれいになくなった。


「アルベリク!」


 誰かが身体を支える。


 金色の鎧。


 左目に傷のある男。


 敵国の剣を持っている。


 なぜ、この男が自分の名を呼ぶ。


 アルベリクは胸を押し、離れた。


「触るな」


 男の手が止まる。


 青い薔薇の帳面を腕へ縛っている。


 見覚えはない。


 それなのに、失った場所だけが痛んだ。


「アルベリク。俺が分かるか」


「敵将ザフィール」


 知識としては知っている。


 ヴィクトルから聞いた名。火刑台にいたはずの男。妹が炉にいる敵。


 それ以上がない。


「私たちは、話したのか」


 ザフィールの口元から笑みが消えた。


「四日前、酒を飲んだ」


「覚えていない」


「お前は毒を三度疑った」


「覚えていない」


「百人を切る俺を否定した」


「それは今でも否定する」


 答えると、ザフィールは苦しそうに笑った。


「そこは残ったか」


 セシリアが近づいてくる。


 首に自分がつけたらしい傷がある。


 なぜ剣を向け、なぜ下ろしたのか。


 事実は並ぶ。


 感情だけが戻らない。


「私を見て」


「見ている」


「私を信じられる?」


 アルベリクは答えようとした。


 答えがなかった。


「姉上だとは分かる」


「それだけ?」


「今は」


 セシリアは唇を噛んだ。


 その顔を見ても、抱きしめたいとは思わない。


 責めたいとも思わない。


 空白だった。


「成功したのか」


 ヨハネスが呟いた。


 聖騎士団長は、消えた白い炎を見上げている。


「全員、生きている」


 セシリアが答えた。


「命令に背いて」


「あなたの命令から、あなたの部下も救った」


 ヨハネスは何も言えなかった。


 地上で夜明けの鐘が鳴った。


 一度。


 その音が終わる前に、同じ一打がもう一度重なった。


 世界が、指一本ぶん横へずれた。


 壁の亀裂が二重に見え、白い川が一瞬だけ上流へ流れる。


 誰も動けなかった。


 次に瞬きをしたとき、すべて元へ戻っていた。


「今のは」


 ヴィクトルが呟く。


 答えられる者はいない。


 アルベリクの左手首で、「第三回」の文字だけが熱を持った。


 ザフィールが青い帳面を開く。


 挟んだ花弁を、アルベリクへ見せた。


「お前が忘れるなら、俺が覚えておく。四日前、そう約束した」


「私は頼んでいない」


「そう言うことも分かっていた」


「なぜ、そこまでする」


「お前の墓で、名を聞いたからだ」


「誰の墓で?」


「お前の墓だ」


 炎の消えた地下で、青い花弁だけが鮮やかだった。


 アルベリクは、目の前の男を見た。


 自分はこの男を救った。


 だが、救おうと思った熱がどこにもない。


「あなたを救った理由を、今、失いました」


 ザフィールは帳面を閉じなかった。


 忘れた少年へ何度でも返すために、頁を開いたまま答えを待つ。


 アルベリクは青い花弁と、知らない男の傷を見比べた。


「……あなたは、誰ですか」



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