第11話 今日のあなたの名前
火刑まで、あと十日。
「王子様、これ食べる?」
少年がパンを二つに割った。
大きいほうを、アルベリクへ差し出す。
指には粉がつき、首には穴の開いた銅貨が揺れていた。
「君の名前を知らない」
「昨日も知らなかったよ」
少年は気にせず、パンを押しつけてくる。
「リュカ。九歳。たぶん。今日の僕の名前」
「名前は毎日変わるものではない」
「王子様が毎朝忘れるなら、毎朝言うものになる」
国境聖塞の食堂には、昨夜の焦げた臭いが残っていた。
白い聖火は消えた。
砦兵も、敵兵も、地下の八千人も生きている。
勝ったのだと誰かが言った。
アルベリクには、何に勝ったのか分からなかった。
目の前の少年を知らない。
食堂の端で鍋をかき回す大男も、顔と名が結びつかない。
銀髪の姉を見ても、背を向けてよい相手だと思えない。
金の鎧の敵将は、青い花弁を見せながら友のように話しかけてきた。
自分の中だけが、昨日の続きではない。
「食べないの?」
リュカが聞く。
「毒見を待っている」
「僕が先に食べたよ」
「なら君が毒で倒れるか待っている」
「性格悪いね」
「それは忘れていないらしい」
鍋の前から、ヴィクトルが鼻で笑った。
「俺の名は」
「……ヴィクトル」
「正解」
「帳面に書いてあった」
「何と?」
アルベリクは懐から小さな帳面を出した。
自分の筆跡が頁を埋めている。
『ヴィクトル。口が悪い。腕力で止めてくる。信用してよい』
「最後は間違いだな」
「自分で書いている」
「昔のお前は人を見る目がない」
「四日前の私だ」
「十分、昔だ」
リュカがアルベリクの帳面を覗き込む。
「僕は?」
頁をめくる。
『リュカ。毎朝、名を返してくれる。銅貨は受け取るな』
「どうして銅貨を受け取ってはいけない」
「僕の朝ごはん代だから」
説明になっていない。
それでも、アルベリクはパンを受け取った。
湯気の立つスープへ浸し、ひと口食べる。
塩が多い。
焦げた豆の味がする。
「まずい」
「昨日も同じことを言った」
リュカが笑う。
記憶はない。
だが、同じものをまずいと思う舌は残っていた。
アルベリクは、もうひと口食べた。
胸の空白へ、わずかな湯気が入った気がした。
◇
南門から、一台の荷馬車が入ってきた。
薬箱の間に座っていたのは、治癒師イルマだった。
王都で会ったと、帳面には書いてある。
彼女の奇跡は故郷ミラ村の四十一人へ請求されていた。
知識はある。
顔を見ても、再会した感情はない。
「殿下」
イルマは荷台から飛び降りた。
「ご無事で」
「私を知っているのか」
その一言で、彼女の足が止まる。
「そうでした。記憶を」
「気にするな。今日のあなたを教えてくれ」
イルマは少し迷い、背筋を伸ばした。
「治癒師イルマ。知らずに故郷の家族から寿命を奪いました。今は、奇跡を使わず人を治す方法を持ってきました」
荷台には薬草、包帯、煮沸用の鍋が積まれている。
白い光は一つもない。
「遅いぞ」
ヴィクトルが言った。
「聖火で髪が白くなった騎士が三十人、火傷が十二人、毒舌の王子が一人だ」
「最後の人は治りません」
「初対面で意見が一致したな」
イルマは初めて笑った。
そのとき、食堂から陶器の割れる音がした。
「リュカ!」
アルベリクが振り返る。
少年が床へ膝をついていた。
片手で喉を押さえ、激しく咳き込んでいる。
「水が……変」
零れた杯から、甘い臭いがした。
イルマが駆け寄り、指先で水へ触れる。
匂いを嗅いだ瞬間、顔色を変えた。
「飲ませないで! 井戸に毒が入っています!」
ヴィクトルが食堂の杯を叩き落とす。
「鐘を鳴らせ! 水を使うな!」
砦中へ警鐘が走った。
イルマはリュカの口へ布を入れ、吐かせる。
「奇跡は使わないのか」
「使えば、また誰かへ請求が行く」
「今は子どもの命が先だ」
「間に合います。炭と塩水を」
彼女の手は震えていない。
アルベリクは命じられたものを運んだ。
リュカは苦しみながらも、意識を失わなかった。
「毒はどこから」
ヴィクトルが聞く。
「王都の聖堂で使う眠り蔓です。量が多ければ、呼吸が止まる」
「敵国ではない?」
「ナディールには生えません」
王都側の人間が入れた。
白い聖火で殺し損ねた者を、今度は毒で消すつもりだ。
「貯水槽へ入れば、全員が飲む」
ヴィクトルが壁の水路図を広げる。
「井戸は二本だ。毒が本槽へ落ちる前に、北の取水門を閉める」
「鍵は」
「井戸の内側だ」
「誰がそんな構造にした」
「敵に閉められないようにだ。味方に毒を入れられるとは思ってなかった」
◇
井戸の底は、朝でも暗かった。
アルベリクは腰へ縄を結び、石壁を下りた。
「王子が行く必要はない」
上からヴィクトルが言う。
「一番軽い」
「リュカの次にな」
「その子を下ろす気か」
「お前が嫌だと言うか試した」
井戸水の表面に、白い粉が浮いている。
王都の紋が入った小瓶が、横穴から流れ込む水へ吊られていた。
細い縄は水門の歯車へ絡み、毒瓶を引き上げれば門が開ききる仕掛けになっている。
「切れば毒が全部落ちる」
アルベリクが見上げる。
「歯車を手で戻せ!」
「錆びて動かん!」
足場へ上がり、両手で歯車を押す。
昨夜外した親指が痛んだ。
鉄はびくともしない。
懐の帳面が石へ当たった。
開いた頁に、自分の字がある。
『アンブローズへ復讐しろ。姉と私を焼いた』
覚えていない自分からの命令。
大司教を追えば、真実へ近づくのかもしれない。
今、井戸で泥まみれになるより、価値があるのかもしれない。
「殿下!」
上でイルマが呼んだ。
「リュカの呼吸が弱い!」
アルベリクは頁を破った。
細く折り、歯車の隙間へ噛ませる。
紙へ水が染み、インクが指へ移る。
復讐しろ、という文字が崩れた。
「ヴィクトル、縄を引け!」
上から引く力と、下から押す力が重なる。
錆びた歯車が一つ動いた。
取水門が下り始める。
毒瓶の縄が張る。
アルベリクは短剣を抜き、瓶ごと横穴の奥へ突き刺した。
白い粉が流れへ溶ける直前、石門が閉じた。
本槽へ向かう水が止まる。
「閉まったぞ!」
ヴィクトルの声が井戸へ反響した。
アルベリクは濡れた帳面を見た。
命令を書いた頁は半分なくなっている。
過去の自分が何を望んだかは、もう読めない。
だが、後悔はなかった。
◇
食堂へ戻ると、リュカは毛布に包まれていた。
顔色は悪いが、息は整っている。
「王子様」
「アルベリクだ」
「知ってる」
「今日の私の名前だ」
リュカが笑った。
「毒を入れた人、憎い?」
「覚えていない相手を憎むのは難しい」
「僕を助けたのは、前に僕を知ってたから?」
アルベリクは少年の首にある銅貨を見た。
思い出はない。
助けたかった理由も、過去からは受け取れない。
「覚えていない」
正直に答えた。
「でも、痛がる人を放っておくのは嫌だ」
「じゃあ、明日も助けてくれる?」
「明日の私に聞け」
「分かった。名前と一緒に聞く」
リュカは目を閉じた。
湯気の立つ朝食のそばで、ようやく眠る。
記憶がなくても、同じ人を選べるかもしれない。
失ったものは戻らない。
それでも、今日の自分まで空白ではなかった。
「イルマに礼を――」
振り返る。
薬箱だけが残されていた。
イルマの外套も、馬もない。
机には、ミラ村四十一人の名を書いた帳面が開かれている。
最後の頁から、細い血の跡が床へ続いていた。
血文字が、扉の前で一文を作っている。
『私の同意まで奪わないで』




