第12話 三回目の搬入
火刑まで、あと九日。
白髪になったイルマが、盗んだ聖遺物簿を抱えて戻ってきた。
夜明け前の南門。
馬から下りるのではなく、落ちた。
「イルマ!」
アルベリクが駆け寄る。
昨日まで栗色だった髪が、根元まで白い。
右の手のひらには深い傷があり、黒い革表紙を血で濡らしている。
「触らないで」
意識を失いかけながら、イルマは簿冊を胸へ抱いた。
「それは後だ。傷を」
「私の請求を、開かないで」
「もう見えている」
彼女の腕には、昨日までなかった文字が浮かんでいた。
返済済 十二年。
返済先 ミラ村四十一名。
「十二年……」
「私が使った治癒のぶんです」
「誰が許した」
「私が」
イルマは笑おうとして、咳き込んだ。
「自分の寿命です。私が許しました」
アルベリクは彼女の手首をつかんだ。
黒い文字へ触れれば、移せる。
自分の記憶と引き換えに、彼女の十二年を買い戻せるかもしれない。
「同意しろ」
「嫌です」
「死にたいのか」
「十二年短くなっただけです」
「だけ?」
「あなたが失ったものと比べないで」
「今なら戻せるかもしれない」
「誰のために?」
問いに、アルベリクの指が止まった。
「私のためですか。それとも、自分だけが払う人でいたいから?」
「目の前で寿命を捨てた人間を放っておけない」
「私も、家族が支払っているのを放っておけなかった」
「同じではない」
「同じです」
イルマはアルベリクの手を外した。
力など残っていないはずなのに、その指は強かった。
「あなたは、皆を救うためなら同意を無視した。私は、自分で選んで十二年を払った」
「その選択が間違いなら」
「間違う権利も私にあります」
「死ねば権利も何もない」
「だから、死なない量を計算しました」
イルマは血のついた帳面を示す。
「家族全員の残りを調べ、私が払える十二年だけ移した。足りないぶんは、これから別の方法を探します」
全部を一人で背負ったのではない。
自分が生き残る線を、自分で決めた。
アルベリクより、よほど冷静だった。
「それでも、私は怒っている」
「怒ってください」
「今すぐ買い戻したい」
「私の同意まで、あなたが肩代わりしないで」
昨日、床に残された血文字と同じ言葉だった。
アルベリクは拳を握った。
自分には、彼女を救う力がある。
力があることと、使う権利があることは同じではない。
「……分かった」
喉へ刃を通すような返事だった。
「買い戻さない」
イルマの肩から力が抜けた。
「ありがとうございます、とは言いません」
「言うな。許してもいない」
「はい」
「だが、あなたの選択として覚える」
「忘れたら?」
「リュカに毎朝言わせる」
イルマが、今度こそ少し笑った。
アルベリクは自分の帳面を開いた。
新しい頁へ、ゆっくり書く。
『イルマは十二年を、自分の意思で払った。本人の同意なく買い戻すな』
「それだけですか」
「何が」
「あなたが怒っていたことも書いてください」
「必要か」
「明日のあなたが、物分かりのいい顔で私を褒めたら腹が立ちます」
アルベリクは一行を足した。
『私はこの選択に怒っている』
「これでいいか」
「はい」
「面倒な治癒師だ」
「今日の私として覚えてください」
記録は感情を戻さない。
だが、相手が何を選び、自分がどう向き合ったかは残せる。
イルマの白髪を正しい犠牲の印にしないためにも、怒りまで書く必要があるのかもしれなかった。
◇
聖遺物簿は、ヨハネスの指揮馬車から盗んだものだった。
白い聖火を運ぶため、聖騎士団が王都から持ち込んだという。
黒い革表紙に題はない。
留め金には王家と聖庁、二つの印章が重なっていた。
「どうやって開けた」
アルベリクが聞く。
「開いていません」
イルマは包帯を巻いた手を上げた。
「鍵穴がなかったから、血を吸わせました」
「治癒師のやることか」
「昨日、奇跡を使わないと名乗ったばかりです」
砦の小礼拝堂で、セシリアが簿冊を調べている。
アルベリクは姉から机一つぶん距離を取った。
姉だとは分かる。
だが、無防備に近づけない。
セシリアも、その距離を埋めようとはしなかった。
「聖女の血と、王家の血。両方が必要なのかもしれない」
「イルマは聖女ではない」
「治癒師は、聖女候補から外れた者がなるの」
セシリアは自分の指先を切った。
青いインクの染みた指から、赤い血が落ちる。
「待て」
「止める?」
姉が顔を上げる。
アルベリクは答えられなかった。
止めたい。
だが、その感情が姉を心配しているからなのか、計画に必要だからなのか分からない。
「自分で決めろ」
ようやく言った。
「そうするわ」
セシリアの血が留め金へ落ちる。
アルベリクも左手首の古傷を開き、一滴垂らした。
セシリアとアルベリクの血が、乾いていたイルマの血へ触れた。
白髪の治癒師が流した血だけが、黒い表紙の上で動き出す。
三つに分かれ、輪となって広がった。
一つ目と二つ目は重なり、三つ目だけが外側で震える。
留め金が外れた。
頁がひとりでにめくれていく。
聖剣。
聖杯。
歴代聖女。
奇跡を運び、保管し、使い切った記録。
最後に、頁が止まった。
第七の器。
アルベリク・ルーセル・オーレリア。
登録日 出生の一年前。
「授印石と同じ」
セシリアが呟く。
「下を見て」
イルマが指す。
搬入回数 三。
アルベリクは自分の左手首を見た。
第三回。
「三度、炉へ運ばれたという意味か」
「あなたは一度も供物になっていない」
「前の人生では、火刑台へ運ばれた」
「それで二回よ。今を数えても、まだ三回にはならない」
セシリアが頁の端をなぞる。
黒い文字が浮かび上がった。
第一回。
第二回。
第三回。
三つとも、同じ年月日から始まっている。
「日付の誤記ではない」
イルマが言う。
「記録が三冊分、重なっています」
「では私は」
言葉にすると、床が揺れた気がした。
「二十日前へ戻ったのは、一度ではない」
左手首が熱い。
白い聖火を消した直後、川が一瞬だけ逆流した光景を思い出す。
世界が指一本ぶんずれ、同じ鐘が二度鳴った。
あれは魔法の反動ではない。
重なった世界の継ぎ目だったのかもしれない。
アルベリクは自分の帳面を床へ広げた。
母の顔を失った記録。
母の声を失った記録。
ザフィールと杯を交わした記録。
どの頁も、この二十日間のことしか書かれていない。
一回目と二回目の自分が何を愛し、誰を傷つけたかは、一行も残っていなかった。
「私が三人いるのか」
「同じ人が、三度選んでいるのだと思います」
イルマが答えた。
「一度目の私と、今の私は同じか」
「昨日の私と、今日の私は同じですか」
白髪を指でつまむ。
「昨日の私は十二年を持っていました。今日の私は持っていません。でも、私は私です」
「あなたは記憶を失っていない」
「失えば別人になるのですか」
アルベリクは答えられなかった。
セシリアが、机一つぶん離れた場所から言う。
「過去のあなたが正しいとは限らない。でも、悪人だったとも限らないわ」
「二度とも失敗した」
「失敗するまで、誰かを救おうとしていたのかもしれない」
「結果が同じなら、理由に価値はあるのか」
「理由を失ったあなたが、それを言う?」
姉の言葉が刺さった。
救った理由を失っても、救った事実は消えない。
なら、失敗した過去にも、結果だけでは決められない何かがあったのかもしれない。
「第三回の結果欄は、まだ空白よ」
「今すぐ答えを書けば、また過去に命令される」
アルベリクは帳面を閉じた。
「一回目と二回目の答えだけ読む。従うかは、今の私が決める」
「一回目の私は、何をした」
頁をめくる。
詳細は黒く塗り潰されている。
記憶はない。
帳面にも、結果だけしか残っていない。
「二回目は」
次の行も同じだった。
セシリアが青い灯りを近づける。
黒塗りの下から、二行だけが白く浮かび上がった。
第一回 全額単独。
第二回 共同名簿封印。
三つの血の輪が、頁の上でゆっくり閉じた。
第三回の結果欄だけが、空白のまま残った。




