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第13話 信じる敵

火刑まで、あと八日。


 聖遺物簿を奪い返したヨハネスが、窓から飛び降りた。


 黒い革表紙を脇へ抱え、礼拝堂の硝子を割って中庭へ着地する。


「待て!」


 アルベリクも窓枠へ足をかけた。


「王子、ここは二階だ!」


 ヴィクトルの声を無視して飛ぶ。


 雨でぬかるんだ地面へ肩から転がった。


 外れた親指に痛みが走る。


 ヨハネスはもう十歩先にいる。


「聖騎士団長が盗みか」


「教会の物を教会へ戻すだけです」


「イルマが血を流して持ってきた」


「その罪も含め、私が引き取ります」


「便利な言葉だな」


 アルベリクは腰の剣を抜いた。


 ヨハネスが振り返る。


「返してください」


「返せと言って返す泥棒はいない」


「あなたと剣を交えるつもりはありません」


「三日前は砦ごと焼くつもりだった」


「命令でした」


「その命令が間違っていたと、まだ思わない?」


 ヨハネスは答えず、聖遺物簿を外套の内側へ入れた。


「考えるためにも、これは聖庁へ戻します」


「戻せば、都合の悪い頁は消える」


「あなたが持てば、都合よく使う」


「なら、どうする」


 ヨハネスはようやく剣を抜いた。


 刃に白い光はまとわせない。


「魔術なし。勝ったほうが簿冊を持つ」


「神判か」


「人間同士の決着です」


「それなら受ける」


 雨が強くなった。


 泥の中庭を、砦兵と聖騎士が囲む。


 どちらも剣へ手をかけている。


「全員、抜くな!」


 ヴィクトルが一喝した。


「二人で始めた馬鹿だ。二人で終わらせろ」


 アルベリクは剣を正面へ構えた。


 ヨハネスの構えには隙がない。


 十五歳と、四十五歳。


 授印前の稽古と、実戦を生きた聖騎士団長。


 勝てる要素が見つからない。


「今から謝ってもいいぞ」


 ヴィクトルが言った。


「どちらへ言っている」


「弱いほうだ」


「私か」


「分かってるなら話が早い」


 ヨハネスが踏み込んだ。


 一撃目で剣を弾かれた。


 腕が痺れる。


 二撃目は肩をかすめ、旅装が裂ける。


 三撃目を受けた瞬間、外れた親指から力が抜けた。


 剣が泥へ落ちる。


「終わりです」


 ヨハネスの切っ先が喉へ止まった。


「殿下!」


 砦兵が動きかける。


「来るな」


 アルベリクは両手を上げた。


「参ったと?」


「まさか」


 泥を蹴り上げた。


 ヨハネスは顔を背ける。


 その足首へ体当たりした。


 二人で泥へ倒れる。


「卑怯な!」


 聖騎士が叫ぶ。


「戦場の泥に礼儀を教えてこい!」


 ヴィクトルが怒鳴り返した。


 ヨハネスの肘がアルベリクの頬へ入る。


 視界が白く弾けた。


 剣を拾う暇はない。


 アルベリクはヨハネスの外套をつかみ、首へ巻きつけた。


 団長が身体を回す。


 外套だけが外れ、聖遺物簿が泥へ落ちた。


 二人が同時に手を伸ばす。


 アルベリクの指が、先に革表紙へ触れた。


 ヨハネスの拳が腹へ入る。


 息が止まった。


 それでも簿冊を離さない。


「なぜ、そこまで」


「過去の私が、二度間違えたからだ!」


「記憶もないのに!」


「ないから、結果を消させない!」


 アルベリクは頭突きをした。


 ヨハネスの鼻から血が出る。


 団長の握りが緩んだ。


 アルベリクは簿冊を奪い、泥の上を転がった。


 落ちていた剣を拾う。


 ヨハネスが起き上がるより先に、その胸へ切っ先を向けた。


「終わりだ」


 今度はアルベリクが言った。


 雨音の中で、誰も声を出さない。


「とどめを」


 ヨハネスが目を閉じる。


「敗者へ慈悲をかければ、次はあなたの仲間を殺します」


「脅しか」


「誓いです」


「なら殺さない」


 ヨハネスが目を開いた。


「なぜ」


「あなたが本気で国を守ろうとしているからだ」


「それを理由に、三日前あなたを焼こうとした」


「知っている」


「次も命令されれば、従う」


「だから、次の命令を疑わせる」


 アルベリクは剣を捨てた。


 代わりに、ヨハネスの手首をつかむ。


「開帳」


 黒い文字が雨の下へ浮かんだ。


 ヨハネスだけでなく、周囲の聖騎士にも見える。


 志願 供物四十年。


 用途 ヴェルナ会戦治癒。


 受益者 傭兵二十三名。


 残債 二十八年。


 再利用先 国境聖火。


 ヨハネスの顔が変わった。


「四十年を……志願したのか」


「十年前です」


「ヴェルナ会戦」


 ヴィクトルが人垣を割って出てきた。


 黒い文字に並ぶ二十三人の名を、一人ずつ読む。


「グスタフ。ペイル。ロッタ……俺の隊だ」


 声が掠れる。


「疫病と矢傷で全滅するはずだった。白い治癒が来て、二十三人が帰った」


 ヨハネスが泥の中で身を起こした。


「私が願いました。私の四十年で彼らを救えと」


「なぜ言わなかった」


「礼を求めるためではない」


「馬鹿野郎」


 ヴィクトルの拳が震える。


「半分は今も生きてる。自分たちを誰が救ったかも知らずに」


「それでいい」


「よくない」


 ヴィクトルは怒鳴らなかった。


 その静かな声のほうが、痛かった。


「だが、俺にはあんたの選択を否定する資格もない」


 ヴィクトルは黒い文字に並ぶ名を、もう一度見た。


「グスタフは砦の北で宿屋をやってる。ロッタには子どもが二人いる。ペイルは去年、酒の飲みすぎで死んだ」


「そうですか」


 ヨハネスの声が初めて揺れた。


「お前が差し出した四十年で、二十三人にその先ができた」


「なら、私は間違っていなかった」


「そこまではな」


 ヴィクトルが再利用先の文字を指でなぞる。


「残りを勝手に使わせたことまで正しくはならん。助けた命を、今度は焼く側へ回ったこともだ」


「私は、何人救えば許されますか」


「数える相手を間違えるな」


 ヴィクトルはヨハネスの胸を拳で押した。


「救った人数で、殺す許可は買えない」


 アルベリクは黒い文字の下を指した。


「問題は、ここだ」


 再利用先 国境聖火。


「あなたが同意したのは、二十三人の治癒だけだ」


「残った年数は教会へ捧げました」


「三日前、自分の部下を焼く火へ使うことにも?」


 ヨハネスの唇が止まる。


「同意したのか」


「……いいえ」


「教会は、あなたの信仰を一度の署名で買い取った。その後、何へ使うかを聞かなかった」


「大司教は、国を守るために」


「信仰を捨てろとは言わない」


 アルベリクは手を離した。


「あなたが信じて救った二十三人は、本当に生きている。その選択まで偽物にはしない」


 ヨハネスはヴィクトルを見る。


 ヴィクトルは頷いた。


「なら、私は何を」


「疑え」


「聖職者を?」


「自分の正しさも、命令も、私の言葉も」


 アルベリクは泥の中の聖遺物簿を拾った。


「疑うことも、信じる仕事だ」


 ヨハネスは長いあいだ、泥へ膝をついていた。


 やがて立ち上がり、アルベリクへ手を差し出す。


「簿冊を」


「まだ奪う気か」


「泥を拭きます」


 アルベリクは警戒したまま渡した。


 ヨハネスは自分の白い外套で表紙を拭う。


 そして、両手で返した。


「あなたを信じたわけではありません」


「私もだ」


「王都の公開審理へは、予定どおり移送します」


「また処刑台へ運ぶ?」


「今度は、証拠と一緒に」


 ヨハネスは周囲の聖騎士へ向き直った。


「命令を変更する。聖遺物簿、青い複写、供物名簿を保全。大司教の印があっても、私の確認なしに触れさせるな」


 部下たちは戸惑った。


「団長は、大司教猊下を疑うのですか」


「まだ疑っていない」


 ヨハネスは自分の腕の文字を見た。


「これから疑う」


「私の強制肩代わりは、どう裁く」


 アルベリクが聞く。


「罪です」


 返事は即座だった。


「大勢を救ったとしても?」


「救った人数で、選択を奪う許可は買えません」


 ヴィクトルの言葉を、そのまま返した。


「王都へ戻り、それも民の前で問います」


「望むところだ」


 雨が黒い文字を通り抜ける。


 請求書は消えない。


 最後の一行だけが、ヨハネスの腕に残った。


 志願 供物四十年。


 承認者 アンブローズ。




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