第8話 聖火炉の底
火刑まで、あと十三日。
壁一面に並んでいたのは、薪ではなかった。
人間の腕だった。
白い石壁から、手首だけが突き出している。
細い腕。日に焼けた腕。皺の深い腕。まだ丸みを残した子どもの腕。
指先は動かない。
皮膚の下を青い光が脈打つたび、八千人ぶんの黒い文字が浮かび、消える。
「これが……炉?」
ヴィクトルの声が掠れた。
アルベリクは答えられなかった。
聖火炉と聞いて、巨大なかまどを想像していた。
炎へ薪のように人をくべるのだと。
実際は、もっと静かだった。
八千人は壁の向こうで眠らされ、少しずつ寿命を抜かれている。
悲鳴がないぶんだけ、残酷だった。
「灯りを下げて」
後ろからセシリアが囁いた。
聖女見習いの白い服は脱ぎ、灰色の旅装を着ている。袖口に染みた青いインクだけは隠せていない。
「遅かったな」
「王都から聖路を使ったの。追放された人より早く着いたら、不自然でしょう」
「マグダレナは」
「イルマに預けた。今のところは安全」
「今のところ、か」
「絶対と言えば信じる?」
「信じない」
「なら正直に言うわ」
セシリアは青い複写を広げた。
供物名簿と、地下水路の見取り図が重ねてある。
ザフィールが示した水門は、彼女の図にも描かれていた。
三人は夜明け前、排水が止まる短い時間に鉄格子を外し、泥水の中を這ってここまで来た。
「八千百二十四人」
セシリアが言った。
「昨日の記録よ」
「今は」
アルベリクが壁へ触れる。
黒い文字が視界を埋めた。
八千百二十六。
「二人、増えている」
「数えるな」
ヴィクトルが低く言った。
「今はまだ、数で見たほうが楽なんだ」
彼は壁へ近づいた。
突き出した手首を一つずつ確かめていく。
「アンナ」
妹の名を呼ぶ声だった。
返事はない。
「どこだ。兄貴が来たぞ」
腕だけを見て、人を捜す。
それがどれほど無理なことか、誰も口にしなかった。
アルベリクは請求書を開いた。
黒字が暗闇で輪郭を持つ。
ミラ村。
一人。
二人。
十人。
四十一人。
イルマの奇跡を支えていた名が、北壁にまとまっている。
老いた父母も、幼い弟も、皆同じ青い光へつながれていた。
「村ごと運んだのか」
「帳簿では、長期保護と書かれていた」
セシリアが唇を噛む。
「保護した人間を、壁へ埋めたのか」
「私は、その言葉へ印を押した」
先へ進むと、空気が熱くなった。
白い床の下を、青い光が川のように流れている。
八千人から抜かれた寿命が、王都へ伸びる聖路、国境の結界、各地の礼拝堂へ分かれていく。
流れの一つへ、アルベリクの手首から黒い糸が引かれた。
姉の請求も、ここにつながっている。
「全部、開けられるか」
ヴィクトルが聞いた。
「扉なら壊せる」
「違う。この人間どもを起こせるか」
アルベリクは壁へ手を当てた。
一人ひとりの請求が、互いに絡み合っている。
一本を強く引けば、別の一本が締まる。
誰かを外せば、空いた場所へ新しい名が入る。
「今は無理だ」
言葉にした瞬間、ヴィクトルの拳が壁へ当たった。
「八千人を見て、無理で終わりか」
「できると言って全員を殺すよりはいい」
「なら一人だ。一人くらい起こせ」
「誰を選ぶ」
「妹だ」
返事は即座だった。
「当然だろうが」
アルベリクは彼を見た。
「ここにいる全員に、そう言う誰かがいる」
「俺にはアンナしかいない」
「アンナだけを起こせば、別の誰かが代わりに眠る」
「知るか!」
怒声が地下へ響いた。
壁の青い光が、一斉に強くなる。
三人は息を止めた。
しばらくして、光は元へ戻った。
ヴィクトルは額を壁へつけた。
「……知るかと言えるなら、三年前に言ってる」
拳から血が落ちた。
「俺は供物の馬車を護衛した。中身を荷だと思うことにした。金を受け取って、妹を食わせた」
「アンナも、その馬車に?」
「報酬を持って帰ったら、妹が消えていた」
ヴィクトルは自分の手を見た。
「俺が運んだ誰かの兄も、同じ顔をしたんだろうな」
アルベリクは慰めなかった。
ヴィクトルも求めていなかった。
「名前を捜そう」
代わりにそう言った。
「アンナだけではない。全員の」
三人は壁沿いに進んだ。
アルベリクが黒字を読み、セシリアが青い名簿と照らし、ヴィクトルが場所を覚える。
北壁、ミラ村四十一人。
西壁、アンナ・ロウ。
その三列下に、アミナ・ハディル。
敵国の名も、王国の名と同じ白い石に並んでいた。
「見つけたぞ、ザフィール」
ヴィクトルが呟く。
「まだ見つけただけだ」
「分かってる」
「出すまでは、救っていない」
「分かってる!」
怒鳴ったあと、ヴィクトルは小さく笑った。
「本当に嫌な王子だな」
「よく言われる」
壁をたどり、名を読み続けるうち、地上の昼は終わった。
地下には窓も鐘もない。セシリアの懐中時計だけが、間もなく日付が変わると告げていた。
炉の最深部には、壁から外れた小さな寝台が一つあった。
子どもが横たわっている。
頬は痩せ、栗色の前髪が汗で張りついていた。
左手首に新しい文字がある。
ノエル・ベルク。
十一歳。
代替供物。
「搬入は聖女の儀当日のはずだ」
アルベリクが振り向く。
セシリアの顔色が変わっていた。
「予定を早めたのね」
「なぜ、この子だけ外に」
「炉へつなぐ前の順応期間よ。三日眠らせて、身体から抵抗する力を奪う」
「詳しいな」
「運んだから」
アルベリクは寝台の横へ膝をついた。
ノエルの請求だけは、まだ他の名と完全につながっていない。
今なら起こせる。
だが連れ出せば、名簿は次の子を選ぶ。
マグダレナを消したときと同じだ。
「一人だけなら、流れから外せる」
「外したあと、どうなる」
ヴィクトルが問う。
「目を覚ますだけだ。ここから出せば代わりが入る」
「起こして」
セシリアが言った。
「本人に聞くの」
「十一歳の子どもへ、壁に戻るか選ばせるのか」
「私たちだけで決めるよりはいい」
アルベリクはノエルの手を取った。
黒い聖痕を、眠りの文字へ重ねる。
青い光の一本が切れた。
少年の身体が跳ねる。
大きく息を吸い、咳き込んだ。
「水を」
ヴィクトルが水筒を差し出す。
ノエルは少しだけ飲んだ。
焦点の合わない目が、三人を順に見る。
「ここ、天国?」
「違う」
アルベリクが答えた。
「では、僕はまだ役に立ってない?」
「何を聞かされた」
「僕が炉に入れば、病気の女の子が一人、家へ帰れるって」
ノエルは自分の細い腕を見た。
「マグダレナって子。僕より三つ上で、もう命が残ってないって」
誰も答えなかった。
「あの子、帰れた?」
「生きている」
セシリアの声だった。
ノエルは安心したように笑った。
「よかった」
アルベリクの胸へ、怒りが込み上げた。
子どもへ自分の死を善意だと思わせた者に。
それを聞いて安堵してしまう自分に。
「よくない」
アルベリクは言った。
「君が代わりに入っていい理由にはならない」
「でも、僕が入れば、あの子は出られたんだよね?」
「君を選んだのは君じゃない」
「僕、いいって言ったよ」
「何が起きるか、全部聞いたか」
「眠るだけって」
壁の向こうで、八千人の寿命が青く燃えた。
「起きないかもしれないとは?」
ノエルは答えなかった。
聞かされていなかった。
アルベリクが立ち上がる。
最深部の壁に、古い絵が残っていた。
聖人の壁画だと思った。
けれど半分は焼け落ち、赤黒く煤けている。
燃える都市の中央に、黒髪の王が立っていた。
王の周りには誰もいない。
白い炎だけが、空まで届いている。
アルベリクと同じ黒髪。
左手首だけが、黒く塗られていた。
「これは誰だ」
セシリアは壁画を見なかった。
ノエルを見ていた。
「姉上」
「その子の搬入許可書には、私の印がある」
「代替だと知っていたな」
「ええ」
セシリアは膝をついた。
ノエルと目の高さを合わせる。
「マグダレナの代わりに、この子が入った」
そして、逃げ道を塞ぐように付け加えた。
「名簿が勝手に選んだんじゃない。最後に承認したのは、私よ」




