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第7話 敵将は青い薔薇を持つ

 火刑まで、あと十四日。


 国境の中州へ、二人は護衛なしで入った。

 川霧の向こうから、金色が近づいてくる。


 朝日を弾く鎧。褐色の肌。左目を横切る古い傷。


 前の人生で、火刑台へ青い薔薇を投げた男だった。


「第七王子アルベリク」


「敵将ザフィール」


「十五歳と聞いた」


「二十八歳と聞いた」


「年長者へ剣を預ける礼儀はないのか」


「敵国の王子へ鎧を脱ぐ礼儀は?」


 二人は互いの腰の剣を見た。

 ザフィールが先に笑った。


「よし。どちらも礼儀知らずということで、酒にしよう」


 中州の中央には、古い境界石が一本立っている。

 ザフィールはその上へ黒い杯を二つ置いた。


「毒見は」


「俺が先に飲む」


「毒へ慣れているかもしれない」


「ではお前が先に飲め」


「私が毒を入れたかもしれない」


「面倒な王子だな」


「初対面の敵と酒を飲む人間よりは慎重だ」


 ザフィールは腹を抱えて笑った。

 笑い声が白い川面を渡る。

 アルベリクは、なぜかその声を知っている気がした。

 けれど、記憶のどこにもない。


「それで」


 ザフィールが酒を注ぐ。


「俺はいつ、お前の火刑台へ花を置く?」


「十四日後だ」


「ずいぶん近い未来だ」


「私は一度、そこで死んだ」


 ザフィールの手が止まった。


「姉と一緒に焼かれた。群衆の向こうに、あなたがいた」


「俺は何と言った」


「炎で聞こえなかった」


「顔は」


「今より疲れていた」


「花は青い薔薇だった」


「ああ」


 ザフィールは鎧の胸元へ手を入れた。

 一輪の青い薔薇を取り出す。

 国境の乾いた風には似合わない、深い青だった。


「我が国では、名を知らぬ死者へ青い花を供える」


「名を知っていた」


「未来の俺は、知らなかったのかもしれん」


 ザフィールは花弁を一枚ちぎった。

 小さな革の帳面を開く。

 日付を書き、青い花弁を頁へ挟んだ。


「何をしている」


「今日の記録だ。第七王子は一度死んだと言い、俺はそれをまだ信じていない」


「信じない話を残すのか」


「忘れたあとでは、信じるかどうかも選べん」


 帳面には、乾いた花や紙片が何枚も挟まっている。

 人の名、場所、日付。

 どれも太い字で、簡潔に書かれていた。


「お前は記憶を失うそうだな」


 王都での告発は、もう国境を越えていた。


「噂は早い」


「妹を捜すには、両国の噂を拾う必要がある」


「アミナ」


 ザフィールの右手が剣の柄へ動いた。


「なぜ名を知っている」


「ヴィクトルから聞いた」


「あの傭兵か」


「妹が消えた者同士、酒でも飲めばいい」


「三年前なら、先に互いの喉を切っていた」


 ザフィールは剣から手を離した。


「王子。お前が忘れるなら、俺が覚えておく」


「敵のために?」


「忘れられた側は、敵であることまで奪われる。俺はそれが気に入らん」


 黒い杯が差し出される。

 アルベリクは受け取った。

 強い酒が喉を焼く。


 火刑の炎とは違う。

 自分で選んで飲んだ熱だった。

 ザフィールも杯を空ける。


「今日、お前と酒を飲んだ。お前は毒を三度疑った。俺の笑い方を知っている気がすると言った」


「それまで書くのか」


「忘れたときに返してやる」


「親切な敵だな」


「忘れたお前が、礼を言うかもしれん」


「それは絶対にない」


 二人はもう一杯ずつ飲んだ。

 ザフィールが革袋から固い焼き菓子を出した。


「酒だけでは十五歳を酔いつぶしたと部下に叱られる」


「敵国の将を叱れる部下がいるのか」


「三人いる。妹を入れれば四人だった」


 焼き菓子には、乾燥させた青い花が練り込まれている。


「アミナが作った。料理は壊滅的だが、これだけは食える」


「褒めているのか」


「兄の愛情とは、半分が悪口だ」


「なら私は姉上を深く愛しているらしい」


 口にしてから、アルベリクは少し驚いた。

 姉への怒りは消えていない。

 ミラ村の承認印も、マグダレナの代わりにノエルが選ばれたことも忘れていない。

 それでも、愛しているという言葉は嘘にならなかった。


「姉はどんな女だ」


「生きるためなら弟の記憶を使う。自分が別の子を犠牲にしたことも隠す」


「嫌いなのか」


「怒っている」


「同じではないか」


「嫌いなら、怒り続ける必要がない」


 ザフィールは焼き菓子を噛み、しばらく白い川を見た。


「アミナは口笛が下手だ」


「急に何の話だ」


「三年も会っていないと、顔より先に欠点を思い出す。見つけたとき、俺を兄と呼ばないかもしれん」


「それでも捜す?」


「呼ばれるまで名乗る」


「迷惑がられたら」


「距離を置いて名乗る」


「しつこいな」


「忘れられるよりはいい」


 ザフィールは青い花弁の頁を指で叩いた。


「記憶が消えても、記録を読めば感情は戻るのか」


「戻らない。母の顔を失った。肖像を見ても、美しい女性だと思うだけだ」


「なら、この帳面も役には立たんか」


「事実は分かる」


「事実から始めればいい」


「何を」


「もう一度、同じ相手を知ることを」


 アルベリクは笑いかけ、やめた。


「敵へ言う言葉ではない」


「敵だから言える。友なら、忘れるなと泣いて縋る」


 風が頁をめくった。

 ザフィールは花弁が飛ばないよう、指で押さえた。

 束の間、白い川は国境ではなく、ただの川に見えた。


          ◇


「見せたいものがある」


 ザフィールが自分の籠手を外した。

 手首には黒い文字が浮かんでいる。

 国境結界代 残り二年。


「敵国の結界を、あなたが払っているのか」


「俺だけではない」


 彼は上流を指した。

 霧の向こうに、ナディールの村がある。


「この川沿いで、働き盛りの者ばかりが急に老いる。教会の治癒を受けたこともない者がだ」


「王国の奇跡は、国境を越えて請求している」


「敵の寿命なら、民は怒らないと思ったのだろう」


 アルベリクが聖痕を開く。

 川の向こうにいる兵士たちから、黒い糸が伸びた。

 糸は白い川の下へ沈み、アルベリクの背後――聖塞ヴェルナの地下へ集まっている。

 敵も味方もない。

 奇跡にとっては、どちらも燃料だ。


「結界を止める」


 アルベリクが言った。


「どうやって」


「砦の地下へ入る」


「入口には聖騎士が百人いる」


「殺す気か」


「必要なら」


 ザフィールの返事は迷わなかった。


「百人を切れば、両国の一万人が助かる」


「百人は数字ではない」


「一万人も数字ではない」


「だから別の道を探す」


「探している間に、妹たちは燃える」


「あなたの妹を救うために、誰かの兄を殺すのか」


「そうだ」


 ザフィールは静かに答えた。


「俺は善人ではない。守ると決めた数を守るためなら、少ないほうを切る」


「私は認めない」


「認めなくていい。だが、お前が別の道を見つけられなければ、俺は切る」


 先ほどまでの温もりが、杯から消えた。

 敵なのだと、アルベリクは思い直す。

 話が通じる。

 約束を守る。

 それでも、選ばれなかった命を切れる男だ。


「次に会うときは、剣を抜くかもしれない」


「そのときも記録してやる」


 ザフィールは青い花弁の帳面を閉じた。


「お前が、何を守ろうとして俺と戦ったか」


 背を向けかけて、アルベリクは足を止めた。


「妹が地下にいると、なぜ分かる」


 ザフィールは川下を指した。


 砦の基礎へ吸い込まれる、細い水路がある。


「四十三日前、教会の白い馬車を追った。荷台から、アミナの青い髪飾りが落ちた」


「中まで入ったのか」


「水門で止められた。だが、夜ごと聞こえる」


「何が」


「八千人の寝息だ」


 風が止まった。

 ザフィールの片目に、先ほどまでの笑いはない。

 八千という数を口にしたときだけ、妹を捜す兄ではなく、救えなかった民を数える将の顔になった。


「アルベリク。妹は、お前の砦の下で眠っている」




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