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第6話 見捨てられた砦

 火刑まで、あと十五日。


「今日の朝ごはん、全部同じ味」


 少年が匙を置いた。

 欠けた皿には、豆の煮込みと黒パンと、色の薄い蕪が載っている。

 どれを食べても塩の味しかしないらしい。


「文句があるなら作れ」


 向かいの大男が言った。


「子どもに厨房を使わせるの?」


「口が利けるなら鍋も持てる」


「鍋より僕のほうが軽いよ」


「なら鍋に入れ。具が増える」


 国境聖塞ヴェルナへ追放された王子を迎えたのは、歓迎の列でも、牢でもなかった。

 煤けた食堂と、まずい朝食だった。

 アルベリクは冷えた豆を口へ運んだ。


「本当に全部同じ味だな」


「だろ?」


 少年が得意そうに胸を張る。


「殿下まで甘やかすな」


 大男はヴィクトルと名乗った。


 三十五歳。元傭兵隊長。今は砦の炊事、鍛錬、壁の修理から孤児の世話まで、金にならない仕事を一手に引き受けているらしい。

 鼻筋には古い傷。右腕は丸太のように太い。

 アルベリクの護送状を読んだあと、最初に言ったのは「王子を食わせる予算はない」だった。


「私は客ではない。囚人だ」


「囚人なら働け」


「王族に薪割りをさせる気か」


「薪はお前を王族扱いしない。ちょうどいい」


 少年が声を立てて笑った。


「お前は?」


「リュカ。九歳。たぶん」


「たぶん?」


「拾われた日を誕生日にしたから。昨日まで九歳で、今日も九歳」


 リュカは首から下げた革紐を持ち上げた。

 穴を開けた古い銅貨が、一枚通してある。


「朝ごはん代」


 銅貨を机へ置く。

 ヴィクトルは指で弾き返した。


「足りない」


「いつなら足りるの」


「お前が大人になったら考える」


「ずっと取らないつもりだ」


 リュカは不満そうに銅貨を首へ戻した。

 その手首を見て、アルベリクは目を止めた。

 何もない。

 薄い傷も、黒い文字も。


「奇跡を使ったことは」


「ないよ」


「砦の結界は。聖路は」


「僕、結界の外で拾われた。王都にも行ったことない」


 恩恵を受けなければ、請求もない。

 当然のことのはずなのに、初めて見る空白だった。

 大聖堂で見た数百人には、一人もいなかった。


「じろじろ見るな。穴は開かんぞ」


 ヴィクトルが立ち上がる。


「食ったら来い。お前に見せるものがある」


          ◇


 砦の中庭では、兵士たちが泥へ膝をついていた。

 昨夜の雨で、北側の塀が崩れたらしい。

 石を運ぶ兵士の鎧は継ぎはぎだらけだった。革紐で留めた肩当て。刃こぼれした剣。穴を別の鉄板で塞いだ胸甲。


「国境を守る聖塞には見えないな」


「聖の字は金を生まん」


 ヴィクトルが吐き捨てた。


「王都は白い塔へ金を使う。ここへ来るのは、古い武器と新しい命令だけだ」


 若い兵が石を持ち上げたとき、胸甲の留め金が外れた。

 鉄板が泥へ落ちる。

 その裏側に、黒い文字が見えた。


 聖装補修代 残り百二十日。


 返済者 城壁隊第四班 ロイド・ハン。


 アルベリクは若い兵の腕をつかんだ。


「その鎧はいつ直した」


「先月です。聖堂から補修の司祭が来て……軽くて丈夫になったと」


 ロイドの手首にも同じ文字がある。


 残り百二十日。


「代金を聞いたか」


「銀貨二枚です」


「違う」


 アルベリクが聖痕を開くと、兵たちの腕へ黒字が浮かんだ。


 剣の祝福代。


 防壁補修代。


 傷薬の治癒代。


 国を守るための装備が、守る兵の命を食べている。


「何だ、これは」


「王都で噂になった文字だ」


「殿下が見せた請求書……」


 ロイドは胸甲を落としたまま、自分の手首をこすった。


「俺はあと百二十日で死ぬんですか」


「今すぐではない。寿命から、それだけ引かれる」


「同じことだ」


 まだ二十歳にもなっていない声だった。

 アルベリクは左手を伸ばした。

 百二十日なら、姉の六か月より少ない。

 失う記憶も、小さいかもしれない。


「同意しろ。私が移す」


「殿下へ?」


「早くしろ」


 ロイドが頷きかけた。

 次の瞬間、アルベリクの手首をヴィクトルの大きな手がつかんだ。

 骨が軋むほど強い。


「離せ」


「嫌だ」


「これは命令だ」


「追放された王子の命令は、豆一粒より軽い」


「では頼む。離してくれ」


「もっと嫌だ」


 ヴィクトルはアルベリクの手を背中へねじ上げた。


「痛いぞ」


「痛くしてる」


 兵たちが見ている前で、十五歳の王子は泥へ片膝をついた。


「お前が払えば、この若造は楽になる。周りの連中も、いい王子だと泣くだろう」


「なら何が悪い」


「一人で払えば、痛みまでお前の所有物になる」


 ヴィクトルの声から、からかいが消えた。


「助けられた側は、自分の命の話なのに口を挟めなくなる。礼を言うか、罪悪感を抱くか、どちらかだ」


「払わせておけばいいと?」


「誰がそんなことを言った」


 ヴィクトルは兵たちを振り返った。


「第四班。こいつの鎧を使ったのは誰だ」


 一人が手を挙げた。


「夜番で借りました」


「俺も巡回で」


「矢を防いでもらった」


 泥だらけの手が、次々と上がる。


「ロイド一人の装備じゃないのか」


「班で一番身体が小さいんです。あいつの胸甲なら、皆が重ねて着られた」


 ヴィクトルがアルベリクの腕を離した。


「王子。その文字は移せるんだな」


「本人が同意すれば」


「分けられるか」


「試したことはない」


「なら試せ。一人へ全部押しつけるよりはましだ」


 アルベリクは立ち上がった。

 ロイドの請求へ指を触れる。


「百二十日を、十二人へ十日ずつ」


「待ってください」


 ロイドが首を振った。


「俺の名前で直した鎧です」


「だから何だ。俺も使った」


「俺もだ」


「十日なら払う」


「私は七日にして。子どもが生まれるんだから」


 唯一の女性兵が言うと、隣の男が「では俺が十三日」と答えた。

 アルベリクは口を挟みかけた。

 ヴィクトルが睨む。


「決めるのはお前じゃない」


 一人ずつ、日数を口にした。

 払わないと言った者もいた。

 誰も責めなかった。

 最後にロイドが二十日を残し、十一人へ百日が分かれた。


「全員、本当にいいんだな」


 アルベリクが確かめる。

 十一人が、自分の言葉で同意した。

 泥のついた手が、ロイドの手の甲へ重なる。

 

 黒い文字がほどけた。

 百二十という数字から、一文字ずつ墨が抜ける。

 細い黒糸が十一に分かれ、それぞれの手首へ小さな日数を結んだ。


 アルベリクの頭の奥に、扉が閉まる感覚はない。

 誰かの記憶も消えていない。


「できた」


 ロイドが呟く。

 その声には安堵だけでなく、自分で選び直した者の震えがあった。

 アルベリクは十一人の顔を見た。


「名前を教えろ」


「今さらですか」


「今まで知らなかった」


 一人ずつ名乗った。

 アルベリクは帳面を出さず、声にして繰り返した。

 記憶を支払う代わりに、覚える。

 それが救いになるかは分からない。

 だが、少なくとも彼らの痛みを自分一人のものにはしない。


「殿下」


 ロイドが呼んだ。


「ありがとう、は言いません」


「ああ」


「俺たちで払います」


「そうしろ」


 ヴィクトルが鼻で笑った。


「少しは王子らしくなくなったな」


          ◇


 昼過ぎ、アルベリクは砦の西塔から国境を見ていた。

 白い川の向こうに、敵国ナディールの軍旗が並んでいる。

 前の人生の火刑台で、金の鎧の男はあの旗を背負っていた。


「手紙を出したい」


 隣で壁を直していたヴィクトルが眉を上げる。


「追放初日に敵国へ内通か。働き者だな」


「宛名は分からない」


「では届かん」


「金の鎧、左目に傷、青い薔薇を持つ男」


 ヴィクトルの手が止まった。


「敵将ザフィールだ」


「知っているのか」


「妹を捜して、三年もこの砦を睨んでいる男だ」


「妹?」


「アミナ。国境の村から消えた。教会は敵国人の失踪など調べない」


 ヴィクトルは崩れた石を積み直した。


「俺の妹も消えた。名はアンナだ」


 それ以上は話さなかった。

 アルベリクは短い手紙を書いた。


『聖女の儀当日、私の火刑台へ青い薔薇を置く男へ。なぜ来たのか聞きたい』


「気味の悪い文だ」


「私もそう思う」


 国境の慣習に従い、矢へ手紙を結んで川向こうへ射た。

 返事が来たのは、日が傾くころだった。

 敵陣から放たれた一本の矢が、西塔の白壁へ突き刺さる。


 黒い紙と、青い薔薇が結ばれていた。

 紙には、大きな文字で一行だけ。


『薔薇を置く前に、一度酒を飲もう』




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