第5話 奇跡の請求書
火刑まで、あと十六日。
授印の光は、アルベリクに触れた瞬間だけ黒く燃えた。
大聖堂に集まった数百人が、同時に息を呑む。
白い祭壇。
白い法衣。
白い花。
その中心で、第七王子の左手首からだけ、どろりとした黒い炎が立ち上がっていた。
「異端だ」
誰かが言った。
囁きは、乾いた草へ落ちた火のように広がる。
「黒い聖痕だ」
「王家に異端者が」
「神を欺いたのか」
アルベリクは跪いたまま、顔を上げた。
祭壇の向こうに、大司教アンブローズが立っている。
白髪。質素な法衣。慈父のような目。
前の人生で、火刑台から赦しを乞うよう勧めた声の主だ。
「静まりなさい」
大司教の一言で、ざわめきが止んだ。
彼は黒い炎を恐れなかった。
むしろ、長く待っていたものを見るようにアルベリクを見つめた。
「第七王子。あなたは、その聖痕を神より授かったものと認めますか」
「認めません」
再び空気が揺れる。
「では、悪魔から授かったと?」
「それも認めない」
「誰から授かったと考えますか」
「知りません」
アルベリクは立ち上がった。
衛兵が剣の柄へ手を置く。
大司教だけが動かない。
「だから、確かめます」
「何をです」
「この国が奇跡と呼んでいるものを」
アルベリクは群衆を見渡した。
貴族。聖職者。騎士。市民の代表。白い衣を着た聖女見習いたち。
その列に、セシリアがいる。
姉は何も言わない。
ただ袖口の青いインクを、隠さなかった。
それが合図だった。
アルベリクは左手首を祭壇へ押し当てた。
黒い聖痕が石へ広がる。
どうすれば数百人へ見せられるのかは知らない。
イルマ一人へ請求書を見せたときの感覚を思い出す。
閉じている扉を、少しだけ開く。
今度は、その扉を壊す。
「見ろ」
石の奥で何かが裂けた。
黒い線が祭壇から床へ走る。
一本が十本に、十本が百本に分かれ、人々の足元を通って手首へ駆け上がった。
最初に叫んだのは、前列の貴婦人だった。
「何、これ……!」
白い手袋の下から、黒い文字が透けている。
豊穣代 八か月。
隣の男が袖をまくる。
結界代 二年。
騎士の腕。
戦勝祈願代 十一か月。
老司祭の腕。
治癒代 五年。
大聖堂のあちこちで悲鳴が上がった。
自分の皮膚に浮かんだ寿命を、誰もが必死にこすっている。
「消えない!」
「私は奇跡など使っていない!」
「なぜ私が払うんだ!」
その言葉が、礼拝堂を貫いた。
なぜ自分が払うのか。
それを、アルベリクは聞かせたかった。
後列で、老女が隣の少女の腕を取った。
「この子はまだ十二です。どうして結界代が六年も」
騎士は自分の文字を見て笑った。
「戦場で死ぬより先に、祈りで死ぬのか」
貴族の男が手袋を引き裂く。
「私は毎年、教会へ寄進している。なぜその上、寿命まで払う!」
その隣で、下働きの女が呟いた。
「寄進できないから、私は十年なの?」
同じ奇跡の下で、請求は平等ですらなかった。
黒い文字は、人々が口にできなかった差まで露わにする。
「これは呪いだ!」
高位司祭の一人が叫ぶ。
「黒い王子が我々へ呪いを移した!」
「移していない」
アルベリクは答えた。
「今まで見えなかったものを、見えるようにしただけだ」
「証拠は!」
「あなたの腕にある」
「黙れ!」
司祭が聖杖を掲げた。
白い光が集まる。
その瞬間、司祭の背後にいた少女が崩れ落ちた。
十四歳ほど。白い聖女服が、身体には大きすぎる。
アルベリクは駆け寄り、少女を支えた。
驚くほど軽い。
手首には、一行だけ。
奇跡残高 零。
「名前は」
少女の唇が動く。
「マグ……ダレナ」
セシリアが息を呑んだ。
名簿から消した少女だ。
アルベリクは少女を抱えたまま、群衆へ手首を向けた。
「この子の奇跡は、もう残っていない」
「異端者の言葉を聞くな!」
「違う。命が残っていないんだ」
大司教が、初めて目を細めた。
アルベリクはその表情を見逃さなかった。
知らなかった顔ではない。
知っていて、見届ける者の顔だ。
「豊作も、治癒も、聖なる結界も、無償じゃない」
黒い文字の浮かぶ手が、何百とこちらを向いている。
「異端は私じゃない」
アルベリクは、母の声を思い出した。
幼い夜に聞いた子守歌。
顔はもうない。
それでも声は残っていた。
少し音を外す癖。歌い終わる前にセシリアが眠ると、くすりと笑う声。
その声が、今、頭の中で遠ざかる。
大量の請求書を開いた代価だと理解した。
待ってくれ。
顔を奪ったばかりではないか。
せめて声だけは。
母が歌う。
歌詞が消える。
旋律が消える。
最後に笑い声が、砂を払うような小さな音を立てた。
そして、なくなった。
アルベリクは唇を噛んだ。
立っていなければならない。
ここで膝をつけば、母の声を失った意味まで誰かに決められる。
「異端は、この請求書だ」
静かな声だった。
大聖堂の奥まで届いた。
「誰かの寿命を、本人に黙って使う仕組みだ」
群衆は黙った。
納得したのではない。
自分の腕から、目を離せなくなったのだ。
「大司教」
アルベリクは祭壇の男へ向き直った。
「あなたの腕にもあるはずだ」
アンブローズは袖をまくらなかった。
「あります」
否定しない返答に、群衆がざわつく。
「何年だ」
「それを今、私が答えれば、皆は数字の多寡で善悪を決めるでしょう」
「見せられないのか」
「見せません。ですが、あなたの言葉も止めません」
衛兵たちが戸惑って足を止めた。
大司教が合図を出せば、すぐにでもアルベリクを取り押さえられる。
なぜ命じない。
「何を待っている」
アルベリクが問うと、大司教はほんのわずかに笑った。
「あなたの次の選択を」
◇
裁定は、その日のうちに下った。
第七王子アルベリクを、授印式妨害および異端魔術使用の疑いで王都から追放する。
今より十六日後、聖女の儀当日に公開審理を行う。
それまでの身柄は、国境聖塞ヴェルナに預ける。
「ずいぶん早い追放ね」
大聖堂の裏門で、セシリアが言った。
アルベリクは簡素な旅装へ着替え、護送馬車を待っていた。マグダレナは姉が別室へ隠している。
「姉上にとっては好都合だろう。国境砦にも供物がいる」
「怒っている?」
「何に対して」
「私に。奇跡に。母上の声を取られたことに」
アルベリクは答えようとした。
母の声を思い出そうとする。
何も聞こえない。
どんな声を失ったのかさえ、もう説明できない。
「覚えていないことに、どう怒ればいい」
セシリアは俯いた。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「謝られると、私があなたを救ったことまで間違いになる」
姉は何も言えなくなった。
馬車が石畳を鳴らして近づく。
その前に、白い法衣が二人の行く手へ現れた。
大司教アンブローズだった。
護衛も連れていない。
「お見送りですか」
アルベリクが問う。
「確認に参りました」
「何を」
「あなたが、どこまであなたであるかを」
意味の分からない言葉だった。
大司教の両手には、古い火傷痕がある。
彼はその手を胸に当てた。
そして、まだ王でもない十五歳の少年へ、臣下が王に捧げる深い礼を取った。
「お帰りなさいませ、陛――」
言葉が途切れる。
大司教は顔を上げた。
慈父の笑みは消えていた。
「……いえ。まだ、早いようです」
馬車の扉が開く。
アルベリクは乗り込みながら、左手首を押さえた。
袖の下で、「第三回」の文字だけが熱を持っている。
母の声は聞こえない。
それでも大司教の「お帰りなさい」だけが、昔から知っていた言葉のように胸へ残った。




