第4話 生まれる前の署名
火刑まで、あと十七日。
姉は、深夜の大聖堂で供物名簿を盗んでいた。
アルベリクが見つけたとき、セシリアは祭壇裏の床へ膝をつき、白い簿冊を青いインクで写していた。
彼女の周りには、書き終えた紙が七枚。
人の名、年齢、出身地、搬入日。
それぞれの名の横に、細い線で道順まで書かれている。
「随分と手慣れている」
声をかけると、セシリアは振り向きもせずに答えた。
「扉を閉めて。夜警が戻るわ」
「私が叫べば、夜警より早い」
「叫ばないでしょう」
「なぜ分かる」
「あなたも知りたいから」
アルベリクは扉を閉めた。
姉の予想に従ったことが腹立たしい。
「ミラ村の四十一人」
机へ近づき、青い複写を一枚持ち上げる。
「姉上が選んだ」
「私の印が使われた」
「同じことだ」
「違うと言えば、信じる?」
「信じない」
「なら、言い訳はしない」
セシリアは筆を置いた。
「聖女見習いの仕事には、奇跡の申請へ承認印を押すことも含まれる。治癒一回につき、どの村から何日ずつ集めるか。私は数字だけを見せられた」
「人の名は見なかった?」
「最初は」
「最初は、か」
姉の指先には、青いインクが染みついている。
洗っても落ちなかったのだろう。
「ある日、運搬の補助を命じられた。馬車の中で、数字に名前と顔があると知った」
「それでも続けた」
「続けた」
「マグダレナを消せば、ノエルが選ばれると知っていたのか」
セシリアの呼吸が止まった。
沈黙が答えだった。
「知っていて焼いたんだな、あの頁を」
「マグダレナは、もう一日も残っていなかった」
「ノエルは十一歳だ」
「だから、二人とも助けるために六か月が要る」
「私の記憶を使って?」
「そうよ」
アルベリクは姉の胸倉をつかんだ。
白い服が乱れる。
「よく言えるな」
「言わなければ、私は聖女の儀当日に炉へ入る。そうなれば二人とも助けられない」
「自分が生きたいだけだろう」
「生きたいわ」
セシリアは、一度も目を逸らさなかった。
「あなたの記憶を奪っても。別の子の名が浮くと知っていても。私は生きたい」
そこまで言ってから、声を落とす。
「そして、生きて全員を出したい」
アルベリクは手を離した。
赦せない。
けれど、自分も似たことをした。
姉一人を救うために、何が起きるか分からないまま請求を動かした。
違うのは、知らなかった時間の長さだけだ。
「許さない」
「ええ」
「だが、その名簿は使う」
「ええ」
「私にも全部写させろ」
セシリアが、初めて少しだけ笑った。
「字が汚いから嫌」
「今それを言うのか」
「大事な名簿でしょう。読めないと困るわ」
思わず言い返しかけたとき、廊下で靴音がした。
二人は同時に燭台を消す。
扉の前で夜警が立ち止まった。
「誰かいるのか」
アルベリクは姉の肩を抱き、棚と壁の隙間へ身を滑り込ませた。
暗闇の中で、二人の身体が密着する。
セシリアの髪から、乾いた花の匂いがした。
幼いころ、雷を怖がった姉と同じ物置へ隠れたことがある。
そう思ったが、そのときの母の顔だけがない。
思い出の中央に、人の形をした空白がある。
夜警が扉を開けた。
灯りが棚の隙間を滑る。
セシリアが弟の口を手で塞ぐ。
長い数秒のあと、扉は閉じた。
靴音が遠ざかる。
「もういい」
アルベリクが姉の手をどける。
「まだよ」
セシリアは棚の奥へ手を伸ばした。
石壁の一点を押す。
低い音がして、壁が指一本ぶん沈んだ。
「何だ」
「運搬役だけが使う道」
棚ごと壁が横へ動いた。
冷たい空気が吹き出す。
下へ続く狭い階段が現れた。
「この先に、授印石の裏側がある」
「表は明日の儀式で使う石だな」
「表には祝福の名、裏には支払者の名が刻まれている」
二人は灯りをつけ直し、階段を下りた。
石段は濡れていた。
下りるほど、かすかな音が大きくなる。
風ではない。
誰かの呼吸だ。
一人や二人ではない。
何百、何千という寝息が、石壁の向こうから響いている。
「これが、名簿の人たちか」
「一部は」
「一部?」
「王都の下だけではない。国境砦にも、同じ場所がある」
説明を求める前に、階段が終わった。
巨大な石板の裏側へ出る。
表からは聖なる授印石に見えるものだ。
裏には、人の名がびっしり刻まれていた。
王族、聖女、兵士、農民。
名の横に、年月と数字。
アルベリクは自分の名を探した。
探すまでもなかった。
石板の中央で、その一行だけが黒く濡れていた。
第七の器 アルベリク・ルーセル・オーレリア。
その下に、第一王子エドマンドの署名。
「兄上が」
署名は間違えようがなかった。
王太子として出す命令書の、端正すぎる筆跡。幼いころから、兄は一画も乱さなかった。
アルベリクが七歳の冬、熱を出した夜にも同じ字の見舞い状が届いた。
『王族は弱さを見せるな。早く治せ』
果物も花もなかったが、毎日一枚ずつ届いた。
兄なりの心配だと、セシリアは笑っていた。
その兄の名が、弟を「器」にする文の下へある。
「兄上は、これが何か知って署名したのか」
「分からない」
「また分からない、か」
「でも、この署名が入った年、エドマンド兄上は七歳よ」
「七歳の子どもに、弟の生まれる前から署名させた?」
「誰かが、そうさせた」
アルベリクは指で兄の名をなぞった。
彫り跡は浅い。第七の器という文字だけが、何度も上から掘り直したように深かった。
「第七とは、私が七番目の王子だからか」
「それも分からない」
「役に立たない案内人だな」
「私が全部知っていたら、あなたに記憶を払わせていないわ」
きつい言葉だった。
けれど、その通りだった。
指で刻印をなぞる。
古い傷の中へ、黒い液がたまっている。
「待って」
セシリアが一段下の文字を照らした。
登録日がある。
アルベリクは二度読み、三度目にようやく意味を理解した。
「これは、私が生まれた年ではない」
「ええ」
「一年前だ」
アルベリクは腰の短剣を抜いた。
「何をするの」
「消す」
「待って」
刃先を自分の名へ差し込む。
石は異様に柔らかかった。
一文字を削った瞬間、壁の向こうの寝息が止まった。
完全な静寂。
次いで、石板の隙間から黒い液があふれた。
血ではない。
無数の細い文字が溶けて液体になり、刃を伝ってアルベリクの手へ這い上がる。
「離して!」
セシリアが短剣を叩き落とした。
二人が床へ倒れる。
刃が石を滑り、暗闇へ消えた。
壁の向こうで、数千人が一斉に息を吸った。
巨大な獣が目を覚ましたような音だった。
アルベリクの左手首が焼ける。
第三回の文字が、黒く盛り上がっている。
セシリアがそれを見た。
「その文字、いつから?」
「今朝からだ」
「第三回……何の三回目?」
「知らない」
「あなたは二十日前へ戻ったと言った」
「一度死んだ記憶しかない」
「でも、文字は三回と」
「分からないものを増やすな」
アルベリクは乱暴に袖を下ろした。
一度目と二度目。
考えれば、足元の石段がさらに深い場所へ続いている気がした。
今は聖女の儀までの十七日だけでいい。
そう思わなければ、立っていられなかった。
セシリアは床の短剣を拾い、刃についた黒い文字を布で拭った。
「消せないのね」
「名簿と同じだ」
「一人を消せば、別の名が入る」
「私の名を削れば、壁の向こうの誰かが止まる」
二人は石板を見上げた。
名は、ただの記録ではない。
誰かの命と誰かの奇跡をつなぐ鎖そのものだった。
石壁の向こうで、数千人の呼吸が一斉に深くなった。
まるで、生まれる前から登録されていた王子の名を呼ぶように。




