第3話 善意の受取人
◆ この物語の世界
聖王国オーレリア――白い奇跡によって飢饉と疫病を退けた宗教国家。
治癒、豊穣、結界、聖路。国中で讃えられる奇跡は、無償ではない。その使用量に応じて、教会の管理下にある「返済者」から寿命が引かれている。
けれど、その事実を知る者はほとんどいない。
奇跡の債務は人の手首に黒い文字で記録されるが、通常は見えない。黒い聖痕を持つ者だけが、それを読むことができる。
◆ 主な登場人物
-アルベリク・ルーセル・オーレリア(15歳)
第七王子。黒髪、灰色の瞳。左手首に黒い聖痕と「第三回」の文字を持つ。
異端者として姉と共に火刑に処されたが、処刑の二十日前へ回帰した。
奇跡の請求書が見える唯一の人間。救うたび、愛した記憶を失う。
皮肉屋だが、誰かが痛むと自分が代わればいいと考えてしまう。
-セシリア・ルーセル・オーレリア(19歳)
第三王女、聖女見習い。銀髪、青い瞳。白い礼服の袖口に青いインクの染み。
聡明で実務的。罪悪感を言葉で浄化せず、行動に変える。
供物名簿の運搬役であり、密かな反逆者でもある。
弟に許されることではなく、生きて償うことを望む。
-イルマ(22歳)
修道会の治癒師。栗色の髪を束ねた、善良で頑固な女性。
自分の治癒が誰かの寿命を奪っていたと知らずに使っていた。
目の前の患者を見捨てられない。「救わない正しさを選べない」と語る。
-ヴィクトル(35歳)
元傭兵隊長。片耳が欠け、古い革鎧を着る。
口が悪く生活能力が高い。孤児や兵の面倒を黙って見る。
供物輸送の護衛を請け負った過去を持ち、妹アンナを捜している。
火刑まで、あと十八日。
朝、セシリアは何も説明せず、弟を王都の下町へ連れ出した。
聖女見習いの白い外套は人目を引く。第七王子の顔も隠せない。それでも姉は馬車を使わず、市場を歩いた。
「名簿の続きを見せるんじゃなかったのか」
「その前に、あなたが見ておくべき人がいる」
「誰だ」
「奇跡を使う側」
答えた直後、路地の奥から助けを求める声が上がった。
母親が、ぐったりした少年を抱いて走ってくる。セシリアは迷わず施療院の扉を開けた。
まるで、この時刻に少年が運ばれると知っていたように。
アルベリクが問いただすより早く、治癒師が寝台を空けた。
「その子を治すな」
アルベリクが言った瞬間、施療院から音が消えた。
寝台の上で、五つか六つほどの少年が浅い息を繰り返している。
頬は熱で赤いのに、唇は紫だった。
少年の母親が、すがるように治癒師の裾をつかんでいる。
「お願いします。昨夜から目を開けないんです。この子しか、もう……」
栗色の髪を束ねた若い治癒師は、祭具へ伸ばした手を止めた。
「殿下。今、何と?」
「治癒を使うなと言った」
自分でも、ひどい言葉だと分かっていた。
それでもアルベリクの目には、少年の胸から伸びる細い白糸が見えている。
糸は施療院の壁を抜け、遠いどこかへつながっていた。
奇跡が始まれば、また誰かの手首に請求が届く。
「このままでは死にます」
「奇跡を使っても、別の誰かが死ぬ」
「見殺しにしろと?」
治癒師の声は静かだった。
怒鳴られるより痛かった。
周囲の患者や家族が、王子を見ている。冷血漢を見る目だ。
少年の母親が床へ額をつけた。
「第七王子殿下。どうか、どうかお許しください。この子は何も悪いことをしていません」
「あなたの子が悪いとは言っていない」
「では、なぜ」
なぜ。
請求書が見えるからだ。
けれど、それを口で説明したところで、今この瞬間に息が止まりかけている子の代わりにはならない。
「イルマ、治して」
背後からセシリアが言った。
アルベリクは振り返る。
姉は白い外套の留め金を外しながら、施療院へ入ってきた。
「姉上」
「その子を治して」
「請求先が分からない」
「分からないから、この子を死なせるの?」
「分からないまま、誰かを死なせるのかと聞いている」
二人の間で、少年が小さく咳き込んだ。
母親が名を呼ぶ。
「トマ。ねえ、トマ、目を開けて」
イルマは祭具を握った。
「私は治します」
「待て」
「殿下が正しいのかもしれません」
治癒師の指は震えていた。
「私の奇跡で、どこかの誰かが傷つくのかもしれない。でも私は、その誰かの顔を知りません。この子の顔は知っています。この子の母親の声も聞いています」
「知らない者なら、払わせてもいいのか」
「よくありません」
「なら――」
「それでも、目の前の命を見捨てる正しさを、私は選べません」
イルマが祈りの言葉を唱えた。
白い光が、少年の胸へ降りた。
温かな光だった。
苦しげに上下していた胸が、ゆっくり落ち着く。紫だった唇へ色が戻る。
「お母……さん」
少年が目を開けた。
母親は泣きながら、その小さな身体を抱きしめた。
「ありがとうございます。ありがとうございます、聖女様、治癒師様……」
母親はセシリアとイルマだけでなく、アルベリクの手まで取った。
「殿下も、この子のために来てくださったのですね」
「私は止めようとした」
母親の笑みが固まる。
「この子を救うなと言った」
「アルベリク」
セシリアがたしなめる。
けれど嘘で感謝を受け取ることはできなかった。
寝台の少年が、細い手でアルベリクの指をつかんだ。
「王子さま、怒ってるの?」
「怒っている」
「ぼくに?」
「違う」
なら、誰に怒っているのか。
治したイルマか。頼んだ母親か。請求先を承認した姉か。止められなかった自分か。
どれも正しく、どれも違った。
「君が生きたことには怒っていない」
少年は安心したように指を離した。
施療院に安堵の息が広がる。
誰も間違っていない光景だった。
だからこそ、アルベリクには耐えられなかった。
白い糸の向こうで、四十一の灯が一斉に暗くなった。
見たこともない村が、脳裏へ差し込む。
土壁の家。小麦畑。井戸のそばで笑う老人。赤子を抱く女。朝食の椀を並べる男。
その全員の手首へ、黒い文字が刻まれた。
治癒代 合計一年
請求先 ミラ村 四十一名
「四十一人」
アルベリクの口から数字がこぼれた。
イルマが顔を上げる。
「何ですか」
「この子を救うため、四十一人から少しずつ寿命が引かれた」
「そんな……」
「あなたの故郷だ」
イルマの顔色が変わった。
「なぜ、私の故郷だと」
「見える」
アルベリクは彼女の手首を取った。
黒い聖痕が熱を持つ。
どうすればいいかは、誰にも教わっていない。
ただ、見えているものを彼女にも見せたいと願った。
「見る覚悟があるなら、目を逸らすな」
黒い文字が、アルベリクの腕からイルマの腕へ流れた。
移ったのではない。増えたのでもない。
それまでアルベリクにしか見えなかった請求書が、彼女の皮膚の上へ浮かび上がる。
イルマが息を呑んだ。
「ミラ村……」
指で文字をこする。
消えない。
黒字は手首だけで終わらなかった。
腕を上り、四十一人の名が細い列になって浮かぶ。
イルマは途中の一人を見つけた。
「ルドルフ・アイン……父です」
次の名へ指が移る。
「エマ・アイン。母も」
さらに、幼いころ世話になったパン屋、隣家の老女、井戸番の男。
名前を読むたび、イルマの声が小さくなる。
四十一という数字が、四十一の人生へ戻っていく。
「父も、母も、あそこに」
「四十一人の中にいるかもしれない」
「私が、取ったのですか」
アルベリクは答えられなかった。
奇跡を使ったのはイルマだ。
請求先を選んだのは、別の誰かだ。
救われた少年は、母親の腕の中で生きている。
誰か一人を悪者にすれば済む話ではなかった。
イルマは寝台を見た。
「もし、やり直せても」
声がかすれる。
「私は、この子を治してしまうと思います」
「そうか」
「軽蔑しますか」
「しない」
アルベリクは、少年と母親を見た。
「だから、払う人にも選ばせる」
セシリアが一歩下がった。
右手で左袖を引き下ろす。
その動きを、アルベリクは見逃さなかった。
「姉上。手を」
「今は、この子の話でしょう」
「手を出せ」
「アルベリク」
「出して」
姉はしばらく弟を見つめた。
やがて観念したように、左手を差し出す。
袖口の内側に、青いインクがついていた。
アルベリクが手首をつかむ。
黒い文字が浮かんだ。
治癒代 承認済
請求先 ミラ村 四十一名
承認者 セシリア・ルーセル・オーレリア
イルマが、信じられないものを見る目でセシリアを見た。
「殿下が……私の村を?」
「違う」
セシリアはすぐに否定した。
「いいえ。違わないわ」
次の言葉は、自分へ言い聞かせるようだった。
「私が承認した」
アルベリクの手に力が入る。
「何人だ」
「何が」
「姉上は、これまで何人を選んだ」
セシリアは答えなかった。
「殿下」
イルマが呼んだ。
どちらの王族へ向けた呼びかけか分からない。
「この文字を、消す方法はあるのですか」
「消せない」
アルベリクは答えた。
「少なくとも、私は知らない。移すことはできる」
「誰へ」
「私へ」
セシリアとイルマが同時に彼を見る。
「その顔をするな。今すぐ移すとは言っていない」
「今すぐでなくても、考えたでしょう」
セシリアの声は冷たかった。
図星だった。
四十一人から少しずつ集めた一年なら、自分一人が払えばいい。
そう考えた瞬間、母のない顔が脳裏をよぎった。
「私は、請求先を選んだ者を捜す」
イルマは黒字の浮かんだ腕を胸へ抱いた。
「そしてミラ村へ行きます。父たちに、私が何をしたか話します」
「話したあと、どうする」
「分かりません」
彼女は泣かなかった。
「でも、知らなかったころには戻りません」
セシリアの指がわずかに震えた。
イルマの言葉は、そのまま彼女へ刺さっていた。
施療院の窓から、白い朝日が差し込む。
救われた少年が、母親へ「おなかがすいた」と言った。
そのあまりに普通の声の向こうで、四十一人の寿命が静かに減っていた。




