第2話 母の顔で姉を買う
火刑まで、あと十九日。
「六か月だけ、あなたの記憶で私を買って」
セシリアは、弟の見間違いを疑わなかった。
礼拝を抜けた二人は、大聖堂裏の小さな告解室にいた。
石壁に囲まれた、二人が並べば肩の触れるほどの部屋だ。扉の向こうでは、治癒を受けた子どもの母親がまだ泣いている。
喜びの泣き声だった。
アルベリクには、請求書を知らない者の泣き声に聞こえた。
「待ってくれ。なぜ、記憶だと知っている」
「黒い聖痕について書かれた古い記録を読んだの」
「いつ」
「あなたが十三歳のとき」
「二年前から知っていて、黙っていたのか」
「ええ」
セシリアは目を伏せなかった。
罪を認めるときほど、姉はまっすぐ相手を見る。
「黒い聖痕は、請求先を変えられる。支払うのは、使った人の記憶。そう書いてあった」
「どの記憶を取られる」
「分からない」
「戻るのか」
「分からない」
「それで、私に払えと言うのか」
「そうよ」
あまりに迷いのない返事で、アルベリクは言葉を失った。
セシリアは自分の手首を差し出した。
満期 聖女の儀当日。
黒い文字は消えていない。
「怖いの」
姉の声が、初めて震えた。
「聖女として微笑んで、皆のために喜んで死ぬふりをしてきた。でも、死にたくない。炉につながれて、少しずつ空っぽになるなんて嫌」
「姉上」
「あなたの記憶を奪うと知っていても、生きたい」
セシリアは息を吸った。
「だから、お願い。六か月だけ私を買って。その時間で、私が運んだ人たちを捜す」
運んだ。
引っかかる言葉だった。
「誰を、どこへ運んだ」
「今は言えない」
「なぜ」
「言えば、あなたは全部を一人で救おうとするから」
「当然だ」
「それが怖いのよ」
セシリアの指が、アルベリクの左手首へ触れた。
黒い聖痕が、ぬるい生き物のように脈打つ。
「あなたは昔からそう。私が転べば、自分の膝を擦りむいて見せた。私が叱られれば、頼んでもいないのに一緒に罰を受けた」
「姉弟なら普通だ」
「普通じゃない。あなたは誰かが痛むたび、自分が代わればいいと思ってる」
「今は、私の話を――」
「今が、あなたの話よ」
狭い告解室で、二人の呼吸だけが近い。
アルベリクは姉の手を見た。
聖女の儀当日には灰になる手だ。
前の人生で、つかむことのできなかった手だ。
「六か月あれば、何ができる」
「名簿を一冊、完成させられる」
「それで全員を救えるのか」
「分からない」
「分からないことばかりだな」
「だから時間が要るの」
セシリアは、かすかに笑った。
「同意する。私の債務を、六か月ぶんだけあなたへ移して」
黒い文字が動いた。
姉の手首から剥がれた文字が、細い砂になってアルベリクの指へまとわりつく。
熱くはない。
冷たい。
雪の中へ手を突っ込んだような冷たさが、腕から肩へ、胸へ入り込む。
頭の奥で、何かが扉を閉めた。
――アル。
女の声。
柔らかな膝。
夕暮れの庭。
まだ幼い自分とセシリアを抱き寄せる人。
母だ。
顔を見なければ。
取られる前に、覚えなければ。
アルベリクは記憶の中で必死に顔を上げた。
母は笑っていた。
目尻に小さな皺があった。髪は――何色だった。唇は。頬は。
黒い砂が、母の輪郭へ触れた。
顔だけが崩れた。
声も、腕の温度も、庭の匂いも残っている。
顔だけが、きれいにない。
「アルベリク!」
現実へ引き戻される。
床に膝をついていた。
セシリアが肩を支えている。彼女の手首から「満期 聖女の儀当日」が消え、「猶予 六か月」と書き換わっていた。
「何を失ったの」
アルベリクは姉の顔を見た。
よく似ているはずだった。
母と姉は、目元が似ている。そう覚えている。
けれど、何と比べればいいのか分からない。
「母上の顔」
セシリアの唇が震えた。
「そう」
「悲しいはずなのに」
自分の声が、他人のもののように聞こえる。
「何を悲しめばいいのか、分からない」
セシリアは弟を抱きしめようとした。
その腕が途中で止まる。
アルベリクも動かなかった。
姉が望んだ支払いだ。
自分が選んだ支払いだ。
どちらが慰める側なのか、分からなかった。
「母上は、どんな顔だった」
アルベリクが聞くと、セシリアは息を止めた。
「今、聞くの?」
「今でなければ、もう聞かない気がする」
姉はゆっくり床へ座った。
弟と同じ高さで、思い出を探す。
「笑うと、右の頬にだけ小さなくぼみができた。瞳はあなたより少し薄い灰色。髪は銀色に見える金色で、朝はいつも跳ねていた」
アルベリクは一つずつ頭へ入れようとした。
右の頬のくぼみ。薄い灰色。跳ねた髪。
部品は並ぶのに、顔にならない。
「姉上は、覚えているんだな」
「ええ」
「私が忘れたぶんまで?」
「そんな言い方をしないで」
「では、どう言えばいい」
セシリアは答えられなかった。
アルベリクは立ち上がり、ふらつく足で扉へ向かった。
「次に私が何かを失ったら、書いてくれ」
「何を?」
「私が、その人をどう大切にしていたか」
「書けば戻ると思う?」
「戻らない」
母の顔がそうだった。
「それでも、知らないよりはいい」
◇
その夜、アルベリクは母の肖像画の前に立った。
金の額縁の中で、母が微笑んでいる。
美しい女性だ。
それ以上の感情が湧かない。
記憶に残る声は、この顔から出てこなかった。
アルベリクは帳面を開き、震える手で書いた。
『母上の顔を失った。肖像を見ても、懐かしくない』
書いた文字を三度読んだ。
三度読んでも、悲しみは戻らなかった。
廊下で衣擦れの音がした。
扉を開けると、角を曲がる白い裾が見えた。
「姉上」
返事はない。
アルベリクは後を追った。
セシリアは大聖堂の裏手へ向かっていた。夜警が交代するわずかな隙を抜け、古い記録庫へ入る。
記録庫の前には、昼間まで二人の聖騎士がいる。
今は交代の一刻だけ無人だった。
姉は偶然を頼っていない。足音の間隔も、鍵の置き場所も知っていた。
アルベリクはその背中を追いながら、セシリアが自分の知らない時間をどれほど長く生きていたのかを初めて考えた。
守られるだけの姉ではない。
ならば、何をしてきたのか。
アルベリクも扉が閉じる前に身体を滑り込ませた。
「つけてきたの?」
「今は言えない、で納得する弟に見えるか」
「見えないわね」
セシリアは小さな燭台を机へ置いた。
棚から白い革表紙の簿冊を抜く。
表紙に題はない。
中には人の名と年齢、出身地、残り寿命が並んでいた。
「供物の名簿か」
「声が大きい」
セシリアは一頁を開いた。
少女の名前がある。
マグダレナ・ロウ。十四歳。
残高 零。
搬入予定 聖女の儀当日。
「この子を知っているのか」
「私が運ぶはずだった」
セシリアは頁を破った。
「何をする」
「この子は隠した。だから運ばせない」
燭台の火へ頁を近づける。
白い紙が黒く縮れた。
アルベリクは姉の手を止めなかった。
一人でも救えるなら、止める理由はない。
そう思った。
頁が灰になるまでは。
空白になった次の頁へ、ひとりでに黒い文字がにじんだ。
「離れて」
セシリアが火のついた紙を床へ落とす。
アルベリクが靴で踏み消した。
だが灰は消えず、細い筋となって簿冊へ戻っていく。
焼けば終わると思ったのか。
名を消せば、その人間が自由になると。
名簿は二人の願いをあざ笑うように、新しい頁をひとりで開いた。
セシリアの顔から血の気が引く。
新しい名が、ゆっくり書き上がる。
ノエル・ベルク。
十一歳。
搬入予定 聖女の儀当日。
マグダレナの代替。
炎も風もないのに、記録庫の頁が一斉にめくれた。
まるで名簿そのものが、空いた席を喜んでいるように。




