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第1話 火刑まで二十日

姉の叫びが、先に消えた。


 次に聞こえなくなったのは、群衆の罵声だった。

 最後まで残ったのは、自分の肉が焼ける音だった。

 ぱち、ぱち、と湿った薪のように皮膚がはぜる。

 

 アルベリクは火刑柱に縛られたまま、炎の向こうを見た。


 白い法衣。掲げられた聖印。安堵した顔で祈る民衆。


 誰も、彼の背後で姉が焼かれたことを見ていなかった。

 いや。見ていて、祈るほうを選んだのだ。

 火刑台は二つあった。

 姉の柱は、ほんの五歩先にあった。


 それなのに炎の壁は、世界の端より遠かった。

 セシリアは最後まで泣かなかった。白い聖女服を煤で汚し、弟のほうを見て、唇だけを動かした。


 ――生きて。


 そう読めた。

 自分より先に焼かれる弟へ、何を言っているのだと思った。

 アルベリクは縄が肉へ食い込むまで腕を引いた。指一本、姉へ届かなかった。


「姉上!」


 声を返す前に、彼女の銀髪が炎へ溶けた。


「異端者アルベリク。最期に、神へ赦しを乞いなさい」


 穏やかな声だった。

 だからこそ、アルベリクは笑った。

 唇が裂け、血が焦げた。


「姉上を返せ」


 声になったかは分からない。

 炎が喉へ入り、肺を焼いた。

 そのとき、祈る群衆が二つに割れた。


 金色の鎧を着た男が立っていた。


 敵国の装束。片目に古い傷。ここにいるはずのない男は、処刑台を見上げて何かを言った。

 炎の音に消され、聞き取れない。

 ただ、彼が投げたものだけが見えた。


 一輪の、青い薔薇。


 花は炎に触れず、アルベリクの足元へ落ちた。

 青い花弁の上へ、姉の灰が降る。


 ――今度こそ。


 もし、もう一度だけ間に合うなら。

 姉上だけは、焼かせない。


          ◇


「殿下!」


 女の声とともに、肺へ空気が飛び込んだ。

 アルベリクは寝台から跳ね起きた。

 火はない。

 あるのは朝の光と、白い天蓋と、倒れた水差しだった。


「触るな!」


 伸びてきた手を払いのける。

 若い侍女が、目を丸くしていた。


「も、申し訳ございません。あまりにうなされていたので……」


 アルベリクは喉を押さえた。

 焼けていない。皮膚も、声も、十五歳のものだ。

 鼻に残る肉の臭いだけが、本物のように消えない。

 アルベリクは自分の胸へ爪を立てた。


 痛い。


 次に頬を叩く。乾いた音がして、マリアが小さく悲鳴を上げた。


「何をなさるのです!」


「確かめただけだ」


 夢の中では、痛みが途中で途切れた。


 今は頬がじんじんする。窓の外では、庭師が朝露を払っている。時計塔の針は、処刑の朝に見た位置とは違った。


 生きている。

 その事実は喜びではなく、二十日分の猶予として胸へ落ちた。


「マリア」


「はい」


「今日は何日だ」


 侍女はますます困った顔をした。


「授印式まで四日。聖女の儀まで二十日でございます」


 二十日。


 前の人生で、姉と自分が焼かれた日まで。

 アルベリクは寝台を下りた。膝が震え、絨毯へ手をつく。

 夢ではない。


 こんな朝を、彼は知っている。

 水差しを倒したマリアが、慌てると右の袖を二度まくる癖も。


「殿下、顔色が……治癒師をお呼びします」


「待て」


 彼女の右手首に、黒いものが見えた。

 煤かと思った。

 違う。

 細い文字が、皮膚の下から浮かび上がっている。


 治癒代 残り三年


 債務者 マリア・ベル


 債権者 ――


「……三年?」


「何がでございますか」


 マリアには見えていない。

 アルベリクは彼女の手首をつかんだ。

 文字が、脈に合わせて揺れた。


「昨日、治癒を受けたか」


「昨日ではなく、去年です。熱病のときに一度だけ。おかげで、こうしてお仕えできています」


 嬉しそうに笑う。

 彼女は知らない。

 自分の命から三年が引かれていることを。


「誰から借りた」


「え?」


「請求書なら、貸した者がいるはずだ」


「殿下……?」


 債権者の欄は、細い横線のままだった。

 アルベリクが手を離すと、文字は袖の下へ消えた。

 自分の左手首が熱い。


 寝間着の袖を引く。

 古い火傷痕の下に、見覚えのない文字が浮いていた。

 第三回。

 意味を考えるより先に、アルベリクは袖を下ろした。


「姉上はどこだ」


「朝の礼拝へ。聖女見習いの皆さまと――殿下、靴を!」


 アルベリクは裸足のまま部屋を飛び出した。

 石の廊下が冷たい。

 壁には、授印式を祝う白い布が垂れている。


 前の人生でも、この布を見た。四日後、黒い聖痕を授かった自分を包囲するため、騎士たちは祝旗を引き裂いて縄にした。


 その記憶が正しいなら、まだ四日ある。

 四日で何ができる。

 二十日で姉をどう救う。


 答えはない。


 ただ、前の人生では何も知らないまま四日を失った。今度は一刻も渡さない。

 すれ違う侍従が頭を下げる。遠くで朝の鐘が鳴る。

 何もかも、まだ焼けていない。


 角を曲がり、階段を駆け下りる。

 礼拝堂の扉が見えた。

 内側から、歌声が聞こえる。


 あの日も、同じ歌が流れていた。

 扉を押し開けた。

 眩しい白に目を焼かれた。

 朝日ではない。


 祭壇の前で、白い法衣の司祭が両手を広げている。足元には熱に浮かされた幼子が寝かされ、その胸へ純白の光が降り注いでいた。


 母親が泣いている。


「神よ、奇跡をありがとうございます」


 幼子の苦しげな息が、ゆっくり整っていく。

 よかった、と誰かが言った。

 その瞬間だった。


 礼拝堂にいる全員の手首へ、黒い文字が走った。

 老人。兵士。花売りの少女。祈る母親。扉を開けたアルベリク自身。


 白い光の下で、細い黒字が無数の虫のように肌を這う。


 豊穣代 四か月。


 結界代 二年。


 治癒代 七日。


 聖路代 十一日。


 文字のいくつかは、光の中心にいる幼子へ向かって伸びている。

 けれど幼子自身の腕には何もない。

 救われた者ではなく、ここにいない者へ支払いが送られている。

 アルベリクが一歩進むと、文字は水面の藻のように揺れた。


 触れれば読める気がする。


 同時に、触れてはいけないとも思った。

 この黒字は知識ではない。誰かの残り時間だ。

 誰も気づかず、奇跡を讃えている。

 アルベリクだけが、息を忘れた。


「アルベリク?」


 祭壇の脇から、姉が歩み寄ってきた。


 セシリア。


 銀の髪。青い瞳。白い聖女見習いの服。

 生きている。

 灰ではない。悲鳴でもない。


 アルベリクは姉の両肩をつかんだ。


「痛いわ」


「姉上」


「どうしたの。裸足じゃない」


「生きてる」


「朝から縁起でもないことを言わないで」


 叱る声まで、記憶と同じだった。

 胸の奥がほどけかける。

 前の人生では、最後の十日間、姉と言葉を交わせなかった。


 彼女は聖女の儀へ、自分は異端審問の牢へ移された。壁越しに聞いた足音を姉のものだと信じ、それだけで眠った夜があった。


 今は肩へ触れられる。頬へ伸びる指がある。


 それだけで、二十日など十分に思えた。

 けれど、セシリアが弟の頬へ触れようとした瞬間、その袖が落ちた。

 白い手首に、黒い文字が浮かんでいる。


 満期 二十日


 担保 聖女の身体


 返済者 アルベリク・ルーセル・オーレリア


 アルベリクの指から、血の気が引いた。


 姉が眉を寄せる。


「私の手に、何が見えるの?」


 返事はできなかった。

 二十日後、姉はまた焼かれる。

 そして、その支払いをするのは自分だ。

 白い奇跡の光の中で、アルベリクは姉の手首を強く握った。


「今度は、姉上を焼かせない」


 セシリアの青い瞳が、わずかに揺れた。

 まるで、その言葉をずっと待っていたように。

 

 その小さな微笑みだけが、アルベリクの胸に残った最後の灯だった。



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