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第17話 八千人のための八十人

火刑まで、あと四日。


 大司教が、食事と鍵を持って牢へ来た。


 木の盆には、硬いパンと水。


 その横に、三重の鉄扉を開ける銀の鍵が置かれている。


「毒入りか」


 アルベリクは水を指した。


「疑うなら飲まなくてよい」


「鍵のほうだ」


「鍵へ毒を塗る意味がありますか」


「扉を開けた瞬間に死ぬ仕掛けかもしれない」


「ザフィール殿の帳面を読みましたね」


「なぜ知っている」


「あなたが毒を三度疑った、と書いてありました」


 アンブローズは牢の前へ座った。


 火刑台で赦しを勧めた大司教。


 前の人生を知るらしい男。


 十五歳の自分へ臣下の礼を取った男。


「姉上を炉から外せ」


「できません」


「繰り上げたのはあなたか」


「私です」


 悪びれもしない。


「なぜ」


「聖女が炉につながれば、あなたは必ず動く」


「私を試すために、姉上を使った?」


「セシリア殿下は、もともと火刑予定日に接続される予定でした」


「五日を奪った」


「五日で答えが出ると?」


 穏やかな声だった。


 アルベリクは格子へ手をかける。


「八千人を今すぐ解放する」


「方法は」


「輸送路を逆に使う」


「中央炉の流れが崩れる。最深部に八十人を残せば、八千人は安全に出せます」


「一人も残さない」


「どうやって」


「それを考える」


「あと四日で?」


「四日ある」


「答えになっていない」


 初めて、大司教の声に疲れが混じった。


「八十人です。八千人の一割ですらない。残り寿命が短い者を選べば、失われる年月はさらに少ない」


 アンブローズは法衣から一枚の紙を出した。


 八十人の名が、残り寿命の短い順に並んでいる。


 アンナ・ロウ。


 アミナ・ハディル。


 ノエル・ベルク。


 ミラ村の老人たち。


 すでに顔を知っている名がある。


「本人へ聞いたのか」


「眠っています」


「家族へは」


「聞けば、全員が自分を代わりにしろと言うでしょう」


「なら、そうさせればいい」


「代わる者を募り続け、誰かが折れるまで善意を競わせるのですか」


 アルベリクは言葉を失った。


 大司教は、名簿を選ぶことの残酷さだけでなく、選ばせることの残酷さも知っている。


「だから私が決めます」


「誰にも責められない役を、自分だけが引き受ける?」


「責められます。あなたに」


「私一人に責められれば満足か」


「満足したことはありません」


 火傷した両掌が、八十人の名簿を包む。


「奇跡を止めれば疫病で死ぬ。続ければ供物が死ぬ。選ぶたび、別の誰かの墓が増えました」


「それでも選ぶことをやめなかった」


「やめれば、決断できない者の代わりに、時間が全員を殺します」


「だから私も殺した?」


「ええ」


 迷いのない返事だった。


 アンブローズは、自分を善人だとは思っていない。


 だから厄介だった。


「少ないから何だ」


「救える数が多い」


「八十人にも、待っている家族がいる」


「もちろんです」


 アンブローズは否定しない。


「その家族を含めても、八千人より少ない」


「人を足し算するな」


「王は足し算をします」


 白髪の老人は、まだ王ではない少年を見る。


「限られた食料、薬、兵、時間。誰かを先に救えば、誰かが後になる。あなたは王になったとき、それを知った」


「私は王ではない」


「一度目は、そうでした」


 空気が止まった。


「今、何と」


「だから授印式で、臣下の礼を取りかけたのです」


「私が王だった?」


「ええ」


「いつ」


「あなたが覚えていない世界で」


 アルベリクの左手首が熱くなる。


 第三回。


「一度目と二度目を、あなたは覚えているのか」


「覚えています」


「何が起きた」


「今は話しません」


 アルベリクは格子を殴った。


「なぜ!」


「過去の正解を渡せば、あなたはそれを避けることだけを答えにする」


「二度とも失敗した!」


「だからです」


 アンブローズは、火傷した両手を見た。


「一度目も、あなたは全員を救うと言った。二度目も、誰も置いていかないと言った」


「結果は」


「世界が焼けた」


「私が焼いた?」


「あなた一人のせいではない」


「では誰が」


「それも今は言いません」


 答えを知る者が、答えを渡さない。


 アルベリクは殺意に近い怒りを覚えた。


「私を二度、処刑したのか」


「ええ」


「火刑台で、赦しを乞えと言った」


「二度とも」


「二度?」


「一度目のあなたも、最後は炎の中で死んだ」


「その手の火傷は」


 アルベリクは格子を握る大司教の両手を見る。


「二度の火刑で?」


「聖火なら、離れた場所から点けられました」


「では、なぜ」


「私の手で薪へ火を移しました」


「苦しむところを近くで見たかった?」


「忘れないためです」


 アンブローズは掌の傷を隠さなかった。


「正しい数を選んだと言い訳して、熱まで他人へ払わせないために」


「自分も痛めば、殺したことが正しくなるのか」


「なりません」


「なら、その傷は何のためだ」


「次に同じ決断をするとき、簡単に手を上げないためです」


 それでも、三度目も殺すと言った。


 傷があっても選べるからこそ、この男の覚悟は脅しではなかった。


 聖火炉の焼けた壁画。


 燃える都市の中央に立つ、黒髪の王。


 あれが一度目の自分だったのか。


「ザフィールは」


「一度目にも、二度目にも、あなたの墓へ花を置きました」


「姉上は」


「答えません」


「兄上は」


「答えません」


「母上は!」


 アンブローズの目が揺れた。


「母上の墓に、毎年弔い状が置かれていた」


 アルベリクは幼い記憶を探す。


 母の顔も声もない。


 だが、墓前に白い封筒があったことは覚えている。


 差出人のない弔い状。


『お約束を果たせず、申し訳ありません』


 整いすぎた筆跡。


「あれは、あなたの字だ」


 アンブローズは否定しなかった。


「母上と何を約束した」


「あなたに、三度目を与えること」


「なぜ母上が周回を知っている」


「それは私にも分かりません」


「また省略するのか」


「知らないことは、語れません」


「では、知っていることを言え」


「あなたを二度焼いた」


 アンブローズは格子越しに、アルベリクをまっすぐ見た。


「一度目は、あなたがこれ以上誰も傷つけないために。二度目は、あなたが作った仕組みを止めるために」


「今度も焼く?」


「三度目も同じなら、私は君を殺す。それが最も多くを救う」


 優しい声だった。


 憎しみではない。


 八十人を切るのと同じ理屈で、アルベリク一人を切る。


 この男は、世界を救うために本気で自分を殺せる。


「私を脅しに来たのか」


「いいえ」


 アンブローズは銀の鍵を格子の内側へ滑らせた。


「逃がしに来ました」


「理解できないな」


「私が決めた八十人ではなく、あなたが選ぶ答えを見るためです」


「答えがなければ?」


「あなたを殺し、八十人を残して八千人を救う」


「鍵を渡した相手へ、よく言える」


「逃げても、聖火炉へ行くのでしょう」


 図星だった。


「勝手に私を理解するな」


「二度、見ています」


「今の私は三度目だ」


「だから、まだ鍵を渡せる」


「私がまた失敗したら、四度目を作るのか」


「できません」


「なぜ」


「あなたの母君が残した道は、三回分だけでした」


「母上は何者だった」


「知りません」


「三回分と知りながら?」


「私は鍵を渡されただけです」


「誰に」


 大司教は答えなかった。


 母の謎を増やすためではない。


 本当に、それ以上を知らない顔だった。


「これが最後か」


「ええ。次に世界が焼ければ、戻りません」


 アルベリクは床の銀鍵を見る。


 答えを間違える自由さえ、最後の一度だった。


 アンブローズは立ち上がった。


「私は八十人を選ばない」


 アルベリクが言う。


「方法がなくても?」


「ないと認める。それでも、あなたへ選ぶ権利は渡さない」


「では、見せてください」


 大司教は背を向けた。


「第三の答えがあるなら、明日までに見せなさい」




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