第16話 救世主を投獄せよ
火刑まで、あと五日。
「第七王子アルベリクを逮捕する」
兄の声が、広場の歓声と罵声を同時に止めた。
王冠を持たない摂政エドマンドが、壇上へ上がってくる。
背後には王宮衛兵。
その向こうでは、民衆が二つに割れていた。
「八千人を救った王子だ!」
「八千人分を集めた悪魔だ!」
「解放しろ!」
「今すぐ焼け!」
同じ口が救世主と悪魔を叫んでいる。
アルベリクの首筋には、最大債務者の黒字がまだ残っていた。
「罪状は」
「供物制度に関する重要証拠の保全、および被疑者本人の保護」
「逮捕ではなく保護と言えば、聞こえがいいな」
「お前を解放すれば、どちらかの群衆がお前を奪う」
「兄上のものにしておくと?」
エドマンドの顔が強張った。
「誰のものにもさせないためだ」
衛兵が近づく。
ヨハネスは止めなかった。
セシリアも、人垣の向こうで弟を見ている。
姉を信じてよいという感情は戻っていない。
それでも、彼女が頷いたのを見て、アルベリクは抵抗しなかった。
鉄の枷が両手にはめられる。
「供物を解放しろ!」
連行されながら、大司教へ叫んだ。
「あと五日、待つ理由はない!」
アンブローズは裁判席から動かなかった。
「あなたの次の答えを待っています」
「答えが出るまで八千人を人質にするのか!」
「答えを誤れば、八千人では済みません」
衛兵が二人の間を塞いだ。
民衆の声が遠ざかる。
◇
王宮地下の牢は、火刑台より静かだった。
石の寝台。
小さな採光窓。
外から三重にかけられた鍵。
「ずいぶん用意がいい」
アルベリクが言うと、牢の前に立つエドマンドは目を逸らした。
「前から私を閉じ込めるつもりだった?」
「王族用の避難牢だ」
「避難?」
「外からは開けにくく、中からは水路へ抜けられる」
兄は鉄扉の下へ食事の盆を入れた。
「西門に荷馬車が六台あった。食料と平民服、偽の通行証も」
「見たのか」
「逃げる準備か」
エドマンドは答えない。
「父上が死に、王家の罪が公になった。王位を捨てて逃げても驚かない」
「そう思っていろ」
「否定しないんだな」
「今は、お前を生かして明日へ運ぶことが先だ」
兄は立ち去りかけた。
「エドマンド」
呼び捨てにすると、足が止まる。
「私を守るために閉じ込めたと言うなら、供物を救う邪魔はするな」
「お前一人へ八千人分を集めることも、救いとは呼べない」
「分かっている」
「本当に?」
最大債務者の文字を見られる。
アルベリクは返せなかった。
エドマンドの靴音が消える。
牢に残ったのは、答えを持たない十五歳の少年だけだった。
しばらくして、廊下の向こうで衛兵が交代した。
若い衛兵はアルベリクを見ようとしない。
「私が怖いか」
「王命で、お答えできません」
「王は死んだ」
「摂政命令です」
「では質問を変える。広場で何を聞いた」
衛兵は黙ったまま、腰の剣へ触れた。
「救世主と、悪魔。どちらを信じた」
「……妹は国境の治癒院にいます」
ようやく返事があった。
「白い奇跡がなければ、五年前に死んでいました。ですが、その代金を誰が払ったのかは知りません」
「だから、私をどうすればいいか分からない?」
「はい」
「私もだ」
衛兵が初めて顔を上げた。
アルベリクは最大債務者の文字を袖で隠した。
自分が何者かを、債務の額だけで決められたくない。
同時に、目の前の兵を信仰や職務だけで敵と決めたくなかった。
「妹の名を教えてくれ」
「なぜ」
「次に請求書を開いたとき、捜す」
衛兵は迷った末、名を告げた。
アルベリクは石床へ指で書く。
記憶から消えても、今日聞いた名を誰かが拾えるように。
◇
昼過ぎ、食事の盆へ一輪の青い薔薇が載っていた。
朝にはなかった。
見張りへ聞いても「最初からあった」と言う。
花の下には、小さな革の帳面。
青い花弁が、頁ごとに一枚ずつ挟まっている。
一頁目。
『火刑台で青い薔薇を見た、とお前が言った。俺はまだ信じていない』
日付は、四日前。
二頁目。
『毒を三度疑った。初対面の敵と酒を飲む人間より慎重だ、と威張った』
三頁目。
『俺の笑い方を知っている気がすると言った。気味が悪いので記録する』
アルベリクは文字を追った。
場面は戻らない。
白い川も、黒い杯も、頭の中にはない。
けれど、書いた男が自分をよく見ていたことは分かる。
四頁目。
『兄の愛情とは半分が悪口だ、と俺が言った。お前は、なら私は姉を深く愛しているらしい、と答えた』
アルベリクは吹き出した。
笑ってから、口元へ手を当てる。
覚えていない。
それでも、自分なら言いそうだと思った。
頁の隅に、小さな追記がある。
『ここでお前は笑わなかった。笑いかけて、やめた』
「余計なことまで覚えているな」
牢の外にいない相手へ文句を言う。
次の頁をめくる。
『記憶が消えても、記録から始めればいい。もう一度、同じ相手を知れ』
その下に、別紙が挟まっていた。
大きな黒い頭。
棒のような手足。
首から銅貨を下げた小さな人物が、黒髪の人物へパンを渡している。
子どもの絵だ。
『王子様へ。僕はリュカ。明日も名前を言う。パンは半分あげる』
絵の黒髪には、左右で違う大きさの目が描かれていた。
「私はこんな顔か」
紙の裏へ、ヴィクトルの字がある。
『もっと性格が悪い顔だ』
アルベリクは、また笑った。
同じ頁に落ちた青い花弁が揺れる。
笑った理由は、過去から戻ったのではない。
今ここで、文字と絵を受け取ったから生まれた。
帳面の最後に、ザフィールの手紙があった。
『覚えていなくても、お前が選んだ言葉は消えない』
『俺は、お前が忘れたから味方をするのではない。忘れたあとも同じ百人を守ろうとしたから、もう一度お前を選ぶ』
『お前も記録を信じる必要はない。今の俺を見て決めろ』
アルベリクは手紙を二度読んだ。
感情は戻らない。
だが、知らない敵将に会いたいと思った。
なぜ自分が同じところで笑ったのか、本人へ聞きたい。
帳面を開き、自分の頁を足す。
『ザフィール。記憶にない。文章は長い。余計な記録が多い』
少し考える。
『それでも、もう一度話してみたい』
書いた文字を読み返す。
過去の自分から命じられたのではない。
今日の自分で選んだ。
青い花弁を、新しい頁へ一枚挟んだ。
自分の帳面も開く。
『ザフィール。百人を切って一万人を救える男。思想は認めない』
過去の自分が書いた注意だった。
青い帳面には、その直後の記録がある。
『次に会えば剣を抜くかもしれない、と言われた。何を守って戦うかも記録すると答えた』
一方には警戒。
一方には約束。
どちらが本当かを決める必要はなかった。
敵として警戒しながら、言葉を交わすことはできる。
記憶がなくなれば、人は一つの評価だけに縛られやすい。
善人。
悪人。
救世主。
悪魔。
広場の民衆と同じだ。
アルベリクは自分の注意書きの下へ足した。
『百人を切る考えは嫌いだ。それでも、私の言葉を覚えていたことは嬉しい』
矛盾したまま残す。
今の感情を、一つの判決へ変えないために。
牢の外で、先ほどの衛兵が咳払いした。
「返事があるなら、食事の盆へ」
「届けられるのか」
「何のことでしょう」
青い薔薇を運んだのは、この兵らしい。
アルベリクは新しい頁を一枚破った。
『今の私も、お前の考えを半分は嫌っている。残り半分は、会ってから決める』
花弁を一枚添え、盆へ載せた。
衛兵は何も言わずに持ち去った。
◇
夕刻、王宮の鐘が五度鳴った。
本来なら、聖女の儀まで五日を告げる鐘だ。
六度目が鳴る。
予定にない音だった。
牢の廊下を衛兵が走る。
「何があった」
誰も答えない。
やがて、鉄扉の下から紙片が差し込まれた。
エドマンドの端正な字。
『聖女の儀を繰り上げる。最終点火は五日後のまま。セシリアは今夜、炉へ接続された』
アルベリクは立ち上がった。
鉄扉を揺らす。
「開けろ!」
返事はない。
青い花弁が、床へ落ちた。
過去の信頼は戻らない。
それでも、姉を炉へつながせたくないという感情は、今ここにあった。
「姉上!」
五日後ではない。
セシリアは、もう聖火炉の一部になっていた。




