第2話 届かない言葉
薄暗い室内を包み込む静寂は、時折、遠くを走る自動車の走行音によってかろうじて破られていた。西日に照らされた外の空は秋の澄み渡る晴天であり、雨の気配など微塵もない。分厚い遮光カーテンの隙間から漏れ出るわずかな茜色の光線が、部屋の床に細い帯となって伸びていた。
ローテーブルの脇に背中を預けたまま、黒川蒼は動かないままでいた。三つ年下の妹である葵は、涙に濡れた瞳をわずかに伏せると、膝をついていた姿勢からゆっくりと立ち上がり、玄関の土間に放置されていたスーパーマーケットのポリ袋へと歩み寄った。
そこには、一週間を生き抜くための食材や日用品が詰まっている。葵は重いポリ袋を持ち上げると、足音を立てないように慎重に戻ってきて、それを清潔なキッチンのカウンターの上にそっと置いた。
「……何か、温かいものでも作るね」
葵の声音には、先ほどまでの激しい感情の昂りが嘘のように引き潮となって去った後の、ひんやりとした静けさが宿っていた。しかし、その背中からは「これ以上兄をこのままにしておくわけにはいかない」という、頑ななまでの決意と切迫感が湯気のように立ち上っているように見えた。
蒼は力なく目を細め、カウンターのほうへ視線を向けた。
「……すまないね、葵。わざわざ買い出しまでしてくれて……。冷蔵庫の中は、確か先週のものがまだ少し残っていたはずだが……」
「残ってなんかないよ。おにぃ、先週私が買っていったレトルトのお粥、ほとんど手をつけてないじゃない。賞味期限のシールだけ見て、食べた気になってるだけでしょ」
葵は冷蔵庫の扉をパタリと開き、内部を一瞥してから鋭い視線を蒼に向けた。その的確すぎる指摘に、蒼はわずかに目を泳がせ、気まずそうに視線を床へと落とした。
図星だった。仕事が終わって深夜に帰宅し、あるいは休日もパソコンの前でチャットのやり取りに追われていると、食事という行為そのものが「ただの栄養摂取のための面倒なルーチン」へと変貌する。温めることすらいちいち億劫になり、結局はそのまま放置して、手近にあった菓子パンや、冷蔵庫の隅にあったペットボトルの水を口に含んでやり過ごすことが常態化していた。
「……いや、その……最近、どうも食欲があまり湧かなくてな。胃が持たれているというか……」
「当たり前でしょ! そんな生活してたら、胃だけじゃなくて身体中の臓器が悲鳴を上げるに決まってるよ!」
葵は冷蔵庫から手際よく食材を取り出すと、キッチンのシンクで手際よく洗い始めた。水道の蛇口から流れ出る水音が、静まり返ったアパートの室内に心地よいリズムを刻む。
葵の動きには迷いがなかった。実家を出て一人暮らしを始めている彼女は、日々の自炊を通じて料理の腕を高めていた。今日のメニューは、疲労しきった胃腸に優しく染み渡るような鶏団子と根菜のスープ、そして栄養価の高い野菜をふんだんに使った雑炊だった。
食材を包丁でリズミカルに刻む音が、トントン、トントンと小気味よく響く。
その規則正しい音を聴いていると、蒼の脳内で常に渦巻いていた仕事の焦燥感や、チャットツールの通知音がわずかに遠ざかるような錯覚を覚えた。
蒼はゆっくりと上半身を起こし、壁に寄りかかった姿勢のまま、キッチンで立ち回る妹の背中を見つめた。
(……昔から、葵は私のことをよく見てくれていた)
蒼の脳裏に、幼少期の記憶が静かに蘇る。
両親が共働きで忙しく、家を空けがちだった幼い頃。兄である自分が妹の面倒を見るのが当たり前だったはずなのに、いつの間にか葵は蒼の些細な体調の変化や表情の陰りに誰よりも早く気づくようになっていた。
今もこうして、週末の貴重な時間を潰してまで自分のために部屋へ通い、掃除をし、料理を作ってくれている。その甲斐甲斐しさと真摯な優しさは、単なる「兄妹の助け合い」の域を遥かに越えているように思えた。
だが、極限まで摩耗した今の蒼の脳では、その優しさの本当の理由を深掘りするだけの精神的余力は残されていなかった。
「……葵」
「なに?」
包丁を動かす手を止めずに、葵が短く返事をした。まだ先ほど流した涙の名残が声のトーンに少しだけ含まれている。
「その……昔を思い出すな。両親が共働きで遅かったときも、よくお前がこうしてスープを作ってくれたっけな……」
蒼の言葉に、葵の手がぴたりと止まった。
葵はまな板の上に包丁をそっと置くと、ゆっくりと振り返り、冷ややかな、しかしどこか深い哀愁を帯びた瞳で兄を見据えた。
「……そうやって、すぐに昔の話をしてごまかそうとするのはやめてよ、おにぃ」
「……ごまかしているわけではないが」
「ごまかしてるよ。昔は優しかったとか、昔はよく面倒を見てくれたとか……そんな過去の話を持ち出されても、今のボロボロになったおにぃを見せられたら、何の慰めにもならないんだからね」
葵は小さく息を吐き出すと、再び包丁を握り直して作業に戻りながら、ポツリと呟いた。
「ねぇ、おにぃ。覚えてる? 私が高校の時、剣道の試合で大敗して、悔しくて泣きながら道場から帰ってきた日のこと」
「……あぁ、もちろん覚えているとも。お前が一人で勝手に思い詰めて、夕暮れの公園のベンチで膝を抱えていた時だろう」
「そう。あの時、おにぃは私になんて言った?」
蒼はわずかに眉根を寄せ、当時の記憶をたぐり寄せた。疲弊しきった脳の引き出しを開けるのは少し骨が折れたが、妹との大切な思い出の断片は、今でもかすかに残されていた。
「たしか……『勝負の世界だから負けることもあるさ。でも、お前が流した汗も、重ねた努力も、形を変えて絶対に自分の血肉になる。だから、下を向くな』……そんな風に言った気がするな」
「そうだよ。おにぃはそう言って、私の頭をポンポンって叩いてくれた。あの時の言葉が、どれだけ私の胸に響いたか、おにぃは分かってないでしょ」
葵の声がわずかに震えた。
「今の私があるのは、あの時おにぃが私にくれていた言葉と、温かい笑顔があったからなんだよ。私にとって、おにぃはいつだって世界で一番かっこよくて、誇らしい自慢の兄だったんだから。……なのに、今の姿はどうよ。自分のことも守れなくなって、ブラック企業のいいように骨までしゃぶられて、毎日死んだように生きてる……。そんなのおにぃじゃない!」
言葉の刃は決して鋭くはなかった。しかし、その一言一言には、妹の切実な愛と、どうしようもない無力感に対する悔しさがたっぷりと詰まっていた。
(……知ってるんだよ、おにぃ)
葵は胸の奥で、決して言葉にできない秘めた感情を静かに噛み締めていた。
自分にとって、兄である蒼はただの「身内」ではなかった。
幼少期から誰よりも自分を守り、温かい笑顔を向けてくれた存在。背中を追い続け、その佇まいや優しさに救われていく中で、葵の胸に芽生えたのは単なる兄妹愛を遥かに越えた、一人の男性に対する深く純粋な「恋心」だった。
もしも、自分たちが実の兄妹でなかったのなら。
迷うことなくこの手で抱きしめ、生涯を共にするパートナーとして寄り添いたい、自分だけのものにしてしまいたい——そんな叶わぬ想いを、葵は幼い頃からずっと心の奥底に秘め続けてきたのだ。
だからこそ、誰よりも大切な蒼が、劣悪なブラック企業に買い叩かれ、心身ともにボロボロに引き裂かれていく姿を見ることが、血を吐くほどに苦しかった。
「……すまないな、葵」
絞り出すようにして、蒼は言った。
「私が……もう少ししっかりしていれば、お前にこんな心配をかけることもなかったはずだ……。だが、会社での立場や、これまでの経緯を考えると、そう簡単に……」
「またその話!」
葵は包丁をまな板に置くと、激しい勢いで振り返った。その瞳には、再び熱い涙が溢れていた。
「いつまでそんな会社に義理立てしてるの!? おにぃの人生だよ!? そんなに自分をすり減らしてまで、そこに残らなきゃいけない理由がどこにあるっていうのよ!」
「理由か……」
蒼は自嘲するような笑みを浮かべた。
「理由などないさ。ただ、いま私が投げ出してしまったら、残された他の社員に負担が集中するし、何より、ここまで積み上げてきたものをすべて自らの手でゼロにしてしまうのが……怖いのだと思う。社会的な信用を失うことの恐怖に、今の私は完全に縛られている」
恐怖。それこそが、ブラック企業から抜け出せない人間を縛り付ける最大の鎖だった。
毎日のように理不尽な叱責を受け、人格を否定されるような扱いを受けていながらも、「ここを辞めたら自分には生きる価値がないのではないか」「世間から落ちこぼれてしまうのではないか」という強迫観念が、脳の深部に深く植え付けられてしまっている。
葵は、兄のその言葉を聞いて、胸が張り裂けそうな痛みを覚えた。
(違うよ、おにぃ……。おにぃには価値があるよ。私にとっても、誰にとっても……)
葵は唇を噛み締め、胸の内で叫んだ。
そして、脳裏に浮かんだもう一人の女性の存在に、胸が重く疼いた。
蒼の元恋人である、白石結衣。
高校時代から大学にかけて、蒼と並んで歩んでいた美しく知的な女性。実の妹である自分には決して手に入らない「蒼のパートナー」という立ち位置を、唯一許されていた人物。
(私には……おにぃの『妹』として側にいることしかできない。一生、おにぃの奥さんになることはできない……。でも、結衣ねぇなら……おにぃを救えるかもしれない。おにぃを幸せにしてあげられるのは、私じゃなくて結衣ねぇなんだ……)
その切ない自覚が、葵の胸を締め付ける。どれほど自分が蒼を深く愛していても、血の壁を超えることはできない。だからこそ、自分自身のアプローチではなく、自分が心から慕う「結衣ねぇ」と兄との関係が修復され、兄が救われる未来を強く望んでいるのだ。
葵は包丁を置き、濡れた手をタオルで丁寧に拭き取ると、ゆっくりと蒼のほうへと歩み寄ってきた。
そして、蒼の目の前に再び膝をつき、両手で蒼の冷え切った指先をぎゅっと包み込んだ。
「……ねぇ、おにぃ」
「なんだい、葵」
「現実の仕事がどれだけ大変でもさ……私に心配をかけるのはいいよ。でも、自分の身体を一番に考えて。……ねぇ、結衣ねぇのこと、覚えてるでしょ?」
蒼の視線が、わずかに揺れた。
その名を聞いた瞬間、凍りついていた蒼の胸の奥で、静かな波紋が広がった。
「……白石さん、のことか」
「うん。結衣ねぇ、今でもずっとおにぃのことを気にしてるんだよ。私、たまに連絡取ってるから知ってるんだから」
「……葵、お前……白石さんと連絡を取っているのか?」
「当たり前じゃない。結衣ねぇは私にとっても大事なお姉さんみたいな人だもん。……ねぇ、おにぃ。去年、おにぃが『これ以上君の時間を縛りたくない』って一方的に別れを告げた時、結衣ねぇがどれだけ泣いてたか分かってる?」
「っ……」
蒼は息を呑んだ。胸を刺すような鋭い罪悪感が襲いかかる。
連日の酷い残務処理と過労で精神が壊れかけていた去年、蒼は自分の不甲斐なさと将来への絶望から、結衣に別れを告げた。自分と一緒にいても彼女を幸せにできるはずがない、という思い込みからの行動だった。
「結衣ねぇね、会社の人とか他の男の人からどれだけアプローチされても、全部断ってるんだよ。『私には大好きな人がいるから』って言ってさ。今でもおにぃのことだけを待ってるんだよ」
葵は蒼の手をさらに強く握りしめた。
「おにぃは自分のことを『価値のない人間』みたいに言うけど、そんなこと絶対にない。私にとっても、結衣ねぇにとっても、おにぃは代わりなんてどこにもいない大切な人なんだよ。……だから、お願いだから自分の命を粗末にしないで」
葵の目から零れ落ちた涙が、蒼の手の甲にぽたりと落ちた。その温かい雫の感触が、蒼の麻痺していた神経をゆっくりと叩く。
「……葵」
「将来ね、絶対に結衣ねぇにお義姉さんになってもらうんだから。だからおにぃは、倒れたりしちゃダメなんだよ」
葵はそう言って、涙をぬぐいながら精一杯の笑顔を作った。
自分の恋心を絶対に口には出さず、大好きな兄の幸せのために、彼の最も大切な存在へと背中を押す。それが、葵にできる精一杯の愛の形だった。
蒼は、妹の手の温もりと、その言葉の重みを静かに受け止めていた。
「……あぁ。そうだな……」
蒼の口から出たのは、微かなつぶやきだった。
仕事のプレッシャーと絶望の闇に塗り潰されていた彼の世界に、妹の温もりと、かつて愛した女性の面影という小さな灯火が、確かに点り始めている。
キッチンのほうから、鶏団子と根菜のスープがことことと煮える優しい香りが部屋のなかに広がってきた。
葵は立ち上がり、鼻をすすりながらキッチンへと戻った。
「ほら、おにぃ。立ってないでちゃんとテーブルにつきなよ。温かいスープ、今あげるから」
「……あぁ、今行くよ、葵」
二人の間に流れる空気は、先ほどまでの冷たい絶望から、少しずつ柔らかく穏やかなものへと変わり始めていた。
外の茜色の夕暮れが、カーテンの隙間から部屋の床を静かに、そして温かく照らし出していた。




