第2話 カフェの温度
約束の当日の朝。蒼は自宅にて姿見の前に立ち、自身の全身を映し出していた。
日頃の激務と過酷な残業の連続で、自分の姿を鏡でまともに確認することなど、この一年ほとんどなかった。いつもは深夜に帰宅して暗い部屋でそのまま倒れ込むように眠り、朝になると朦朧とした意識のまま身支度を整えて家を飛び出すだけの生活。自分の顔が今どうなっているのか、客観的に向き合う余裕すらなかったのだ。
だからこそ、元恋人と会うことを決めた日。今日という日に向けて鏡の前に立った蒼は、改めて自らの姿を久々にじっくりと確認することになった。
まず気になったのは、頬や顎のあたりに生い茂っていた無精ひげだった。日頃の手入れ不足がそのまま映し出されていて、蒼は念入りにシェービングフォームを泡立て、カミソリを丁寧に滑らせた。ジョリ、ジョリと硬い毛が削がれていく音が洗面所に反響する。そり残しの多かった無精ひげを一本残らず綺麗に剃り落とし、ぬるま湯で洗い流すと、ようやく青白い肌が露わになった。
続いて気になったのは、髪の毛だった。伸び放題になっていた髪を、これまで何度か自分でハサミを使って適当に切り揃えていたため、左右のバランスが微妙に崩れ、所々が不自然に跳ね上がっていた。さすがにこの頭でかつての恋人の前に立つことはできないと思い、蒼は昨日の仕事帰りに駅前の小さな美容院へと駆け込み、プロの手によってきれいに整えてもらっていた。
そして、服装だった。クローゼットの奥の、全く開けなくなった引き出しの底。そこには、遠い昔、白石結衣と交際していた当時に愛用していた、きちんとした仕立ての服が眠っていた。今の自分にとっては少し肩が張るような気がしたが、埃をかぶっていたそれを引っ張り出し、丁寧に洗濯機を回し、アイロン台を出して熱心にシワを伸ばした。パリッとした折り目をつけるために、慣れない手つきで慎重にアイロンを滑らせて身支度を整える。
今日の日の為に自分なりに身なりを整えてきたつもりだ。
だが――それだけのことをしてもなお、今日、姿見に映る自分はどこか草臥れていた。
服や髪型をどれほど整えようとも、その内側にある肉体そのものが放つ疲弊の影を隠すことはできなかった。不摂生な生活と慢性的な栄養不足、そして睡眠障害の蓄積により、蒼の身体は大分細くなっていた。道場で素振りをしていたとしても、一週間に一日あるかないかの頻度で、かつてはシャツの上からでも適度な筋肉の張りが感じられたはずの肩や胸板はすっかりと落ち、骨のラインが角張って浮き出ている。鏡に映る自分の姿を、昔の自分から見れば、あまりにもどこかだらしなく、頼りなく見えてしまい、蒼は小さく自嘲気味に息を吐き出した。
「……まあ、今の私の現実なんて、こんなものか」
ゲーム内のアバターが手に入れたあの圧倒的な美形や軽やかな身体とは違い、日々の激務と睡眠不足の蓄積による疲労疲弊の身体が、どうしようもないだらしなさと隠しきれない影を醸し出している。気休めの身支度を終えた蒼は、重い足取りで約束の場所へと向けてマンションをあとにした。
◇
待ち合わせの場所に選んだのは、大学生の頃に二人が良く利用していた、文教地区の通り沿いにひっそりと佇む静かな雰囲気のカフェだった。
白壁に蔦が絡まるクラシカルな外観のその店は、当時の面影をそのまま残していた。大きなガラス窓の向こうには温かな電球色の明かりが灯り、店内の奥からは微かに珈琲の芳醇な香りと、静かなジャズの旋律が漏れ聞こえてくる。
かつて交際していた頃、デートの時は必ずここで待ち合わせをしていた思い出の場所である。
カフェに到着した時、時計の針は約束の一時間前を指していた。
緊張のあまり、早すぎる到着となってしまった。
会社であれだけ理不尽な仕事を的確に捌き、どんなに過酷なトラブルであっても冷静にロジックを組み立てて処理しているというのに、今の蒼の心拍数は、待ち合わせ時間が近づくにつれて、制御不能なまでに上がり続けていた。手のひらにじんわりと冷や汗が滲み、ポケットの中で拳を強く握りしめる。
(……落ち着け。ただ、一年の時を経て、挨拶をするだけだ。仕事の交渉に比べれば、何ということはないはずなのに……)
頭の中でどれほど理屈を並べてみても、高鳴る鼓動はおさまらなかった。去年の秋、自分の口から一方的に別れを告げたその日から、一度も交わすことのなかった言葉。彼女が自分をどう思っているのか、自分を許してなどいないのではないかという恐怖と、それでも彼女に会いたいと願ってしまった自分勝手な期待が、胸のなかで激しくぶつかり合っていた。
一時間の待ち時間は、蒼にとって果てしなく長い修行のようだった。近くの公園のベンチに腰掛けたり、街路樹の下を行ったり来たりしながら、蒼は何度も時計を確認し、深呼吸を繰り返した。
そして――約束の時間。
蒼は吸い込まれるようにカフェの扉を開け、静かな店内の窓際の席へと足を進めた。そこに、彼女の姿があった。
ゆっくりと近づいてきた蒼の視線の先で、白石結衣は静かに顔を上げた。
彼女の美麗な容姿が、蒼の瞳に飛び込んでくる。
大手商社の経理部で気品溢れるOLとしてキャリアを積む彼女は、一年という時を経て、昔の面影を残しつつも、大人の女性としての洗練された美しさと凛とした知性を纏っていた。
25歳という年齢相応の、どこかあどけなさを残した、まだ完全に大人になり切れていない可愛らしさと知的さを合わせ持ち、落ち着いた色合いの柔らかいニットのトップスに、動きやすいデニムのロングスカートという。気取らない等身大の装いは、昔と変わらない瑞々しい魅力を放っていた。そのどこか肩の力が抜けた自然な佇まいが、蒼の記憶のなかで時が止まっていた「あの頃の結衣」そのものだった。
そして一目彼女を見て、蒼の胸の奥で、激しい衝撃が波紋のように広がった。
(――あぁ……私はまだ、彼女のことが、好きなんだな……)
理屈でもなければ、社会的立場やこれまでの経緯といった損得勘定でもない。
別れてからの丸一年の間、「これ以上彼女の時間を縛ってはいけない」「自分のような人間は忘れてもらった方がいい」と、頭の中でどれほど理詰めで自らに言い聞かせ、封じ込めようとしていたはずの感情が、たった一目彼女の姿を見ただけで、あまりにも鮮烈に、あまりにも激しく蘇ってきた。
胸の奥が締め付けられるような切なさと、愛おしさ。
自分はちっとも大人になってなどいなかった。あの日の別れから、自分の時間も心も、ずっとあの時に置き去りにされたままだったのだと、蒼は痛いほどに自覚した。
心臓の鼓動が耳の奥でドクンドクンと大きく響く中、蒼は震える足を無理やり動かし、彼女の待つ窓際の席へとゆっくりと歩み寄っていった。
◇
「……お待たせしました、白石さん」
震えを必死に抑えた声で声をかけると、結衣は「白石さん」という呼び名に少しだけ目を細めた。でも、すぐに柔らかく微笑んだ。
「うん、私も今来たところだよ。……蒼くん」
一年ぶりの再会。
だが、交わされた言葉の直後、二人の間には気まずい沈黙が落ちた。
どう喋っていいのかわからず、蒼の脳内は完全にフリーズしていた。長年のブラック企業での社畜生活の癖が、こんな時にも最悪の形で顔を出す。動揺した蒼は、いつものように、仕事の取引先や顧客に向けるような「丁寧な態度」で元恋人に接してしまった。
「あ……白石さん、本日は、その……お時間をいただき、誠にありがとうございます」
思わず口から飛び出した、硬質な敬語。
その瞬間再び、結衣の表情がわずかに曇った。彼女は一瞬だけ悲しそうな目を浮かべ、息を呑んだように俯いた。だが、すぐにその切なさを押し隠すように優しく微笑み、蒼の手の届く距離で穏やかに言った。
「……蒼くん。その堅苦しい話し方……会社で、相当大変だったんだね」
かつての愛しい名前で呼びながら、すべてを受け止めるように優しく微笑む結衣の姿に、蒼の胸の奥が激しく痛んだ。
◇
その優しさが蒼の止まっていた胸の中へと染み渡っていく。
思い出すのは、記憶の底に眠っていた懐かしい日々の断片。走馬灯の様に、鮮明によみがえる。
◇
それは、高校時代の鮮やかな記憶へと遡る。
当時、学校全体で最も面倒くさく、貧乏くじを引く委員と噂されていた文化祭実行委員に、なぜか揃って立候補してしまった二人。理由は単純なもので、いつまで決まらないことに業を煮やした教師が、真面目だった二人に押し付け、無理矢理立候補させたようなものだった。
しかし、結果としてこの立候補が二人の運命の歯車を大きく回すことになった。
割り振られた校舎の薄暗い作業部屋。その片隅に置かれたパイプ椅子に腰掛け、二人は山積みのパンフレットの仕分けや、クラスごとの出し物タイトルのとりまとめ作業に追われていた。
「ねえ、黒川くん。ここのクラスの提出書類、またフォーマットが違ってるよ。文字のフォントも指定外だし、これじゃあ印刷に回せないよ」
「本当だ……。教えてくれてありがとう、白石さん。……まったく、何度注意してもこれだから困るね」
そんなに接点のあるクラスメイトではなかった。そしてお互いが真面目過ぎるという性格もあり、最初の内は緊張感のある事務的なやり取りばかり続けていた。ピリピリとした空気が部屋を支配し、雑談など一切ない効率的な作業空間だった。
しかし、実行委員の仕事は想像以上に膨大で、締め切り間際になると連日のように放課後遅くまで残らざるを得なくなった。
やる気のない、ふざけてばかりの他のクラスの実行委員は二人に作業を押し付けて帰り、外の空がすっかり茜色に染まり、やがて夜のとばりが降りる頃、誰もいなくなった静まり返った校舎の廊下には、二人分の足音だけが響くようになった。
ある日の放課後、作業に疲労困憊していた時のことだった。山のように積まれた段ボール箱の整理をしていた結衣が、バランスを崩してよろめいた。
「っと……!」
「危ないっ!」
蒼は反射的に駆け寄り、崩れ落ちてくる段ボールの山を受け止めると同時に、結衣の身体をそっと支えた。二人の距離が急に縮まり、結衣の驚いたような大きな瞳と蒼の視線が真正面からぶつかり合った。
「あ……ありがとう、黒川くん」
「い、いや……怪我がなくてよかったよ。無理をしすぎだ、白石さん。少し休憩にしよう」
そう言って蒼がポケットから取り出したのは、買い出しの帰りに買っておいた甘い缶コーヒーだった。冷えたそれを結衣の手にそっと握らせる。結衣は驚いたように目を丸くしたあと、ふっと柔らかく頬を緩ませた。
「……なんか、黒川くんとこうしてゆっくり話すの、初めてかも」
「そうだね。いつもは仕事の書類のチェックばかりだったから」
「私ね、最初は黒川くんのこと、すごくお堅くて冷たい人なんだって思ってたの。何を聞いても理詰めで返ってくるし、隙がない人だなあって」
「冷たい、か……。それは少し心外だな。俺はただ、仕事を正確に終わらせようとしていただけなんが」
「うん、知ってる。黒川くんが誰よりも真面目に、私たちの見えないところで一番重い作業をしてくれてること、私、ちゃんと見てたよ。……お疲れ様、黒川くん」
その日を境に、二人の間のギクシャクした空気は完全に消え去っていた。遅くまで残って看板のペンキ塗りを手伝い合ったり、エプロンを絵の具だらけにして笑い合ったり。買い出しの帰りに夕暮れの商店街を並んで歩き、揚げたてのコロッケを半分こしながら他愛のない夢を語り合ったりする時間が、二人にとって何よりも待ち遠しいものとなっていった。
◇
そして、文化祭の最終日の後夜祭の思い出。
すべての展示と発表が終わり、校庭の特設ステージで行われた後夜祭の熱気が最高潮に達していた頃。その校庭を望む校舎の一室は、お祭り騒ぎの喧噪が嘘のように静まり返っていた。
窓際に椅子を並べて腰を下ろし、その熱気ある光景を静かに見つめる二人。
遠くから聞こえてくる生徒たちの歓声や音楽の音が、まるで別の世界の出来事のように見える。
蒼と結衣の二人は、後夜祭の司会をやりたいと急に張り切りだした他の実行委員に後を任せ、こうして静かな場所で今日の疲れを癒していた。
「ふう……終わったね、文化祭」
「ああ、本当に。色々大変だったけれど……無事に成功して何よりだ」
手元には、冷えたペットボトルの緑茶。蒼はそのキャップを指先で弄りながら、言いようのない切なさと、この時間が終わってほしくないという複雑な感情に包まれていた。文化祭が終われば、実行委員としての共通の口実もなくなってしまう。明日からまた、ただの同じ学校に通うのただのクラスメイトに戻ってしまうのだ。
「あのさ、蒼くん」
「ん?どうかしたか結衣?」
結衣が突然、小さく呟いた。
この長い準備期間に、二人はいつの間にか名前で呼び合う砕けた仲になっていた。
彼女はまっすぐに前を見据えたままであったが、その耳たぶから首筋にかけて、街灯の光に照らされてうっすらと赤く染まっているのが蒼の目にもはっきりと分かった。
「私ね……この実行委員の期間、すごく楽しかったの。蒼くんと一緒にお仕事して、悩んで、笑い合って……その、なんだろ。明日から、こういう時間がなくなっちゃうんだって思ったら……すごく、寂しいなって」
「……結衣」
蒼の心臓が大きく跳ね上がった。それはロジックでもデータでもなく、紛れもない魂の共鳴だった。蒼は持っていたペットボトルをそっとベンチの脇に置き、震える体を起こして結衣の方へと向き直った。
「俺もだよ、結衣。君と過ごしたこの数週間はかけがえのない時間だった。明日からも、これからもずっと、君の隣にいたい。……その、俺は……君のことが……」
言葉を詰まらせる蒼。
だが、その言葉の続きを待つまでもなく、結衣はふっと顔を上げ、潤んだ瞳で蒼の目を真っ直ぐに見つめ返した。そして、ほとんど同時に、二人の口から同じ言葉が零れ落ちた。
「「――好きです」」
あまりにも完璧な同時告白に、一瞬の静寂のあと、二人は思わず吹き出してしまった。
「あははっ……! なにそれ、息ぴったりすぎだよ、蒼くん!」
「いや、まさかタイミングが完全に被るとは思わなかったから……っ!」
赤面しながらも、お互いの手が自然と引き寄せられるように重なり合った。冷えた夜風の中、繋ぎ合わせた掌から伝わってきた体温は、今でも蒼の記憶のなかに生々しく焼き付いている。その夜、中庭の星空の下で交わした初々しいキスは、二人の未来の始まりを告げる最高の瞬間だった。
◇
付き合い始めてからのデートの数々も、鮮明に思い出された。
高校三年生へと進級し、晴れて恋人同士となった二人の毎日は、甘い青春の輝きと、差し迫る受験という現実の足音が混ざり合うものだった。
週末になると、二人は決まって街の映画館や、少し離れた郊外の大きな植物園へと足を運んだ。当時のデートの定番は、話題の映画を見たあとで小さなカフェに入り、お互いの近況や将来の夢について何時間も語り合うことだった。
「ねえ蒼くん、今日の映画の結び、ちょっと切なかったね。主人公の選択は正しかったのかな」
「さあどうだろうね。だけど、客観的に登場人物の心理的背景から見れば、彼なりの最善だったとは思うよ。ただ……結衣が涙を流すほど感動していたのなら、それが答えなんじゃないかな」
「もう、蒼くんはすぐに理詰めで考えるんだから。でも……そういう真面目なところ、嫌いじゃないよ」
結衣はそう言って、照れくさそうにストローでアイスティーを混ぜていた。
そして、楽しいデートの時間が終わると、平日は一転して「受験勉強」という過酷な現実が二人を待ち受けていていた。
将来、同じ社会に出て、対等なパートナーとして歩んでいきたい。その共通の願いを叶えるため、二人は放課後になると決まって市内の静かな市民図書館の自習室へと直行した。
自習室の木の机。隣り合わせの席に座り、お互いに一言も発せずに参考書を開く。
カツカツと鉛筆が紙を走る音だけが響く空間。解けない難問に直面して蒼が小さく眉根を寄せていると、隣からそっと小さな付箋が差し出される。そこには、結衣の丁寧で美しい文字で、分かりやすい解説と「ここ、こういう公式を使うと解けるよ!」という励ましのメッセージが添えられていた。
「……ありがとう、結衣。助かったよ」
「うん。私もそこの英語の文法、蒼くんに教えてもらおうと思ってたとこ。お互い様だよ」
励まし合い、時に良きライバルとして競い合いながら、二人は過酷な受験戦争を駆け抜けた。
そして迎えた合格発表の時。掲示板の前で、二人の受験番号が並んで掲載されているのを見つけた瞬間、結衣は嬉しさのあまり涙を浮かべて蒼の胸へと飛び込んできた。
「やった……! やったね、蒼くん! 二人とも合格したよ……っ!」
「ああ……! 本当によかった、結衣……!」
◇
二人が恋人になって少し経った頃。蒼は、自分の大切な恋人である結衣を、実家へとはじめて招いた。
妹の葵が、「おにぃの彼女ってどんな人? 一度会ってみたい!」と言い出したため、蒼は少し気恥ずかしさを覚えながらも、結衣を招いたのだ。
「ねえ、蒼くん。今日はいよいよ、妹の葵ちゃんに会えるんだよね? 私、なんだかすごく緊張しちゃうな……変に思われないかな」
「大丈夫さ、結衣。あいつは普段生意気を言っているが、根は悪くない……はずだ」
蒼の部屋を物珍し気に見渡しながら、結衣はそわそわしてクッションの上に座る。
壁に飾られた学生時代の賞状や、本棚に並ぶ小説の背表紙を目で追いながら、時折ふっと柔らかい笑みを浮かべている。
そして階下からは玄関のドアを開ける音と、帰宅を告げる声。そして、ドタバタと勢いよく階段を駆け上がる音。
ガタッと勢いよく扉を開けて制服姿の葵が息を切らせてやってきた。
中学三年生。多感な時期であり、まだ子供らしさが残る葵が、部屋の中を見渡し、意中の人物を見つける。
「……あなたが、おにぃが付き合ってる人……?」
大好きな兄が選んだ彼女という存在が、自分から兄を奪うライバルではないかという強い警戒心から、葵は戦闘態勢で部屋に踏み込んできたのだ。
葵は、兄の彼女を値踏みするように、鋭い視線で結衣を上から下へとじっと見つめた。
しかし、ふわりと立ち上がった結衣の姿をまざまざと捉えた瞬間、葵の中で渦巻いていた敵意や警戒心は、まるで春先の雪のように一瞬にして跡形もなく消え去ってしまった。
そこに立っていたのは、噂に聞いていた通りの気品と優しさを纏った、あまりにも眩しい美少女だった。艶やかな黒髪、穏やかなアーモンド型の瞳、そして自分にはまだ到底真似できない年上の女性のような柔らかな雰囲気を漂わせながら、結衣は少しだけ照れくさそうに、しかし心からの温もりを込めて微笑んだ。
「はじめまして、葵ちゃん。蒼くんからたくさんお話聞いてるよ。私は白石結衣って言います。今日はお邪魔してごめんね」
その圧倒的な美しさと、あまりにも誠実で温かな眼差しを向けられた瞬間、中学三年生の葵は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
(――……負けた……っ!)
葵の脳裏に、そんな敗北感が電撃のように走った。だが、それは悔しさによるものではない。むしろ、この人ならおにぃの隣にいても文句なしにふさわしい、いや、むしろ自分がおにぃの立場だったら絶対にこの人を手放したくないと思ってしまうほどの、鮮烈な一目惚れに近い憧れと感動だった。
「あ、あのっ……! 私、黒川葵です! おにぃの妹の……っ!」
葵は顔を真っ赤に染め上げ、思わず敬礼するかのような変な姿勢で挨拶をしてしまった。
さっきまでの戦闘態勢はどこへやら、耳たぶまで真っ赤に染めてモジモジしている妹の姿に、蒼が「おい葵、どうしたんだよ急に」と苦笑いを浮かべると、結衣はふっと楽しそうに声を上げて笑った。
「ふふっ、葵ちゃん、よろしくね。あのね、実は私、葵ちゃんと会えるのすごく楽しみにしてたんだよ。蒼くんから、妹さんが剣道にすごく打ち込んでいて、毎日厳しい稽古を頑張ってるって聞いてたから」
「えっ……おにぃが、私のそんな話……?」
「うん。すごく自慢気に話してたよ」
その一言で、葵の心は完全に攻略されてしまった。
そして、そんな葵が放つ言動の裏側にある本質を、鋭い洞察力を持つ結衣は一瞬で見抜いていた。――この子は、私と同じように、蒼くんのことが好きなんだな、と。
「ねえ、葵ちゃん。蒼くんって、家ではどんなお兄ちゃんなの? やっぱり、私の前みたいに真面目すぎるのかな?」
「……っ! おにぃは家でもすごいんだから! 学校じゃ教えてくれない勉強も教えてくれるし、私が困ってたら絶対助けてくれるし……おにぃは世界一すごいんだから!」
結衣が巧みに兄の自慢話を引き出すと、葵は夢中になって「おにぃのすごさ」を熱弁し始める。
「そうなんだね、やっぱり蒼くんは頼りになるんだ。……ねえ、葵ちゃん。私ね、こんな頼りがいがあって素敵な蒼くんを、これからずっと隣で支えていきたいの。もちろん、妹である葵ちゃんとも仲良くしたいな。……ダメかな?」
結衣のそのあまりにも誠実で、包容力に満ちた笑顔を見た瞬間、既に攻略されていた葵は更に顔を真っ赤にし、思わず結衣に抱きついてしまった。
「……うん。私も、仲良くしたい!おねぇ……って呼んでいい?」
自らの胸に顔を埋める葵の頭を、結衣は「うん、いいよ」と言いながら優しく撫でた。
その場にいた蒼は、二人が仲良くなれた事に、ひとまず心の中で深く安堵の息をついたのだった。
そしてその日、意外にも趣味や好みがぴったりと一致した二人は、更に意気投合し、蒼の部屋のローテーブルを囲んでキャッキャと声を上げて会話を弾ませた。お気に入りの小説の感想から始まり、学校の先生の面白おかしいモノマネ、そして、蒼の子供の頃の恥ずかしい失敗談を次々と暴露する葵と、それを楽しそうに聞く結衣。話は尽きることなく続いた。
そんな女性同士のあまりの仲の良さに、蒼がどこか蚊帳の外に追いやられたような気分になっていると、やがて夕暮れ時が訪れ、結衣が帰宅する時間となった。
玄関のまで結衣を見送った蒼の背後から、葵はこっそりと蒼の袖をクンクンと引っ張った。
そして、結衣に聞こえないように小さく、しかしこれ以上ないほど真剣な声で、蒼の耳元にこう囁いたのだ。
(「おにぃ……。あの人、絶対に手放しちゃダメだからね!」)
(「……は? なんだよ急に」)
(「ダメ! 絶対だから! 私、結衣ねぇのことめちゃくちゃ大好きになったから! もしおにぃが振られたりしたら、私が絶交するからね! 絶対にお義姉さんにしてよねっ!」)
真っ直ぐな瞳で、鬼気迫るほどの気迫を込めてそう言い放った葵の横顔を、蒼は今でも鮮明に覚えている。
あの日の葵の強い誓いと、二人で並んで笑っていた温かな光景。
◇
大学生活に慣れてきた頃。蒼の曾祖父の代から続く古式剣道場へ、結衣が初めて見学に訪れることもあった。
歴史を感じさせる木造の道場。天井が高く、使い込まれた床板からは香ばしい手入れ用の油と竹の匂いが漂っている。窓から差し込む午後の柔らかな光が、道場のなかに舞う微細な埃を照らし出していた。
「わあ……すごい。ここが、蒼くんがずっと通っている道場なんだね」
「ああ。少し古い建物だけどね。今日はちょうど叔父が稽古をつけてくれる日だから、その……結衣が見たがってたものも見せられると思って」
恥ずかし気に呟く蒼。
今日は、葵から「おにぃの剣道してる姿、結衣ねぇに見せてあげてよ! めっちゃカッコいいんだから!」と散々聞かされていた結衣が、どうしても見たいと蒼に頼み込んで、ついには折れる形で連れてきたかっこうだった。
ちなみに、高校生となった葵はこの頃、剣道に猛烈に打ち込んでおり、剣道部での練習がない日でもこの道場に顔を出しては厳しい稽古に汗を流すという剣道漬けの毎日を送っていた。この日も、道場の端で自分の稽古を終えたばかりの葵が、特等席に座る結衣の隣に並び、どこか誇らしげな顔で道場の中央を見据えていた。
そんな結衣と葵の視線の先で、蒼は道着と袴、防具一式をしっかりと身にまとい、竹刀を手に取って道場の板張りの上に立っていた。
普段の大学生活やデートの時の、少し不器用で優しい蒼の姿とは打って変わって、防具に身を包んだ蒼の纏う空気は一変していた。背筋がスッと伸び、そこには凛とした緊張感と、鋭い孤高の雰囲気が満ちている。
「それでは、はじめ!」
叔父の掛け声とともに、対戦相手との稽古が始まった。
その瞬間、結衣は息をすることを忘れた。
蒼の動きは、圧倒的だった。
曾祖父の代から受け継がれる古流の剣術の型。無駄な力みを一切排し、ミリ単位で洗練された淀みないフットワークと最小限のステップで、相手が繰り出す鋭い打ち込みをスッとかわしていく。そして、相手の隙が生まれた瞬間、正確無比なタイミングで、一点の迷いもない突きを繰り出し、竹刀の先を相手の急所にピタリと定めた。
その一連の動作のなかに宿る、圧倒的なまでの静寂と美しさ。
結衣は、瞬きも忘れてその光景に見入っていた。
いつも自分に見せてくれる、あの優しく温かな笑顔の裏側に、これほどまでに厳しく、武道に向き合う真摯な姿勢と、研ぎ澄まされた極限の集中力が隠されていたなんて。男としての圧倒的な強さと気高さが、汗を光らせるその背中から波のように押し寄せてくる。
「――っ……!」
結衣は小さく息を漏らし、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。胸の奥が熱くなり、どうしようもないほどの誇らしさと、再びの恋心が激しく波打つのを感じていた。
やがて稽古が終わり、蒼が面を外して汗を拭いながら引き上げてくると、結衣は居ても立ってもいられず立ち上がって蒼のもとへと駆け寄った。
「蒼くん……っ! すごかった、ものすごくかっこよかったよ……!」
「え? いや、そんな……ただのいつもの型だが」
「違うよ! なんていうか、普段の蒼くんも好きだけど……剣道をしてるときの蒼くんは、まるで別人のみたいに凛としてて、すごく……惚れ直したっていうか……っ!」
結衣は恥ずかしそうに頬を染めながらも、面を外した蒼の額に浮かんだ汗をタオルで優しく拭う。
その瞳には、後夜祭でお互いが告白した時以上の、深い愛と尊敬の色が浮かんでいた。
そんな二人の様子を、少し離れた場所から眺めていた葵は、満足げにふっと鼻を鳴らし、腕を組んで小さく頷いた。
(ふふっ……やっぱり、結衣ねぇはおにぃの良さを一番わかってるよね。これで二人の仲もまた一歩進展したし……完璧、完璧!)
◇
結衣と過ごしたすべての時間、すべての言葉、すべての景色。
その過去のどれもが、蒼の人生においてけっして色褪せることのない、紛れもない「光」だった。
なのに、自分は――。
過去の走馬灯から現実へと引き戻された蒼の胸の奥で、激しい自責と切なさが再び音を立てて渦巻いていた。
美しく成長した元恋人と、すり減り壊れかけた自分。この一年間の空白を埋めるには、あまりにも現実の影は重すぎた。
それでも、彼女の前に座り続ける。逃げ出したい衝動をぐっとこらえ、蒼は震える呼吸を整えながら、目の前の女性へと静かに言葉を紡ぎ出す準備を始めたのだった。




