第3話 時の氷解
カフェの窓際を包んでいた静寂は、過去の鮮やかな思い出の残響とともに、どこか切なく、そして重苦しい現実の空気に引き戻されていた。
目の前には、一年という長い空白の時間を経てなお、変わらぬ気品と優しさを纏った白石結衣が座っている。その柔らかなニットの袖口を指先で軽くつまみながら、彼女は静かに俺の言葉を待っていた。
胸の内で、激しく渦巻いていた感情が、ようやく一つの形を取ろうとしていた。
高校時代の文化祭で交わした不器用な告白、二人で並んで駆け抜けた受験勉強の日々、そして妹の葵を交えた温かな記憶、剣道場で汗を流す背中を見つめてくれた彼女の瞳。そのすべての尊い光が、今のボロボロになった自分とあまりにもかけ離れていて、胸が締め付けられるような痛みを伴って蘇る。
しかし、いつまでも臆病なまま、過去の思い出のなかに逃げ込むことは許されない。
葵が背中を押してくれ、勇気を振り絞ってこの場所に来たのは、他でもない。一年前、自分の勝手な絶望と恐怖によって断ち切ってしまった未来の続きを、もう一度自分の手で掴み直すためだ。
俺は深く、深く息を吸い込んだ。
冷え切っていた手のひらをスーツの膝の上に強く押し付け、意を決するように背筋を伸ばす。そして、席からそっと立ち上がると、結衣の目の前で、音を立てないようにしながらも、心からの誠意を示すために深く頭を下げた。
「……っ、蒼くん……?」
突然の行動に、結衣が驚いたように小さく声を漏らす。だが、俺は顔を上げない。頭を下げたまま、震える声で、ずっと胸の奥底に溜め込み続けていた言葉を紡ぎ出した。
「白石さん……本当に、ごめん。……すまなかった」
絞り出すような声には、一年間抱え続けてきた消えない自責の念と、どうしようもない後悔の色がにじみ出ていた。
「当時、私は……会社での過酷な環境と終わらない重圧のなかで、心身が完全に限界を超えて破綻しかけていた。毎日のように上司の理不尽な叱責を受け、終電を逃して会社に泊まり込み、朝を迎えることさえ恐怖に感じるような、そんな泥沼のような日々に囚われていたんだ」
頭を下げたまま、脳裏に、去年の秋の地獄のような日々が生々しく蘇る。
「言い訳にするつもりはない。だが……当時の私の頭にあったのは、異常なまでの恐怖心だけだった。『こんなボロボロで、いつ心も身体も壊れるか分からない人間が、結衣の隣にいていいわけがない』『これ以上、俺の絶望に巻き込んだら、結衣の明るい未来まで台無しにしてしまう』……そんな歪んだ脅迫観念が、私の脳を完全に支配していた」
言葉が、わずかに詰まる。喉の奥が締め付けられるように痛む。
「君とちゃんと向き合って、二人で話し合えばよかったんだ。君なら、俺の苦しみを受け止めてくれるかもしれないと、どうして信じることができなかったのか……。なのに私は、君の気持ちを確かめることすらせず、自分の保身と身勝手な優しさの押し付けだけで、一方的に『別れよう』と告げた。君をどれほど深く傷つけ、どれほど悲しませたか……それを想像するだけで、自分自身が許せなかった」
頭を下げ続ける俺の視界の端に、結衣のスカートの裾と、ゆっくりと近づいてくる足元が映った。
「私が一方的に連絡を絶ったあとも、君がどれほど一人で耐えていたかと思うと……私は、本当に最低な男だ。君の時間を一冊の時計のように止めてしまいながら、自分だけは自分のことで手一杯になって逃げ出した。……本当に、すまなかった」
語り終えた俺の背中には、冷や汗がびっしょりと滲んでいた。
どれほど謝罪の言葉を並べても、一年という空白の重みと、彼女に与えた傷の深さが消えるわけではない。頭を下げたまま、彼女からの拒絶の言葉を、あるいは冷たい叱責を、覚悟を持って待っていた。
しかし――。
「……顔を上げて、蒼くん」
それは、驚くほどに優しく、春のそよ風のように穏やかな声だった。
俺がゆっくりと頭を上げ、恐る恐る結衣の顔を見ると、彼女は泣いていたわけではないが、その大きな瞳にはうっすらと涙の膜が張り、どこか慈愛に満ちた複雑な笑みを浮かべていた。
「まずね、蒼くん」
結衣はゆっくりと息を整え、俺の目をまっすぐに見据えて言った最初の言葉は、拍子抜けするほどシンプルなものだった。
「――まずは、『結衣』って呼んで」
「え……?」
「ずっと、『白石さん』だったからさ。一年前からずっと、私の中で時間は止まったままだったけど、今日こうして会えたんだから……もう、昔みたいに『結衣』って呼んでほしいの。それが、私のお願い」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れたような気がした。
「……結衣……」
震える声を絞り出し、なんとかその名前を呼ぶ。
長年のブラック企業での社畜生活の癖と、緊張からどうしても抜け出せなかった硬質な敬語の壁を、今度こそ打ち破ろうと必死に頭を働かせた。
「わかった、結衣……その、俺は……」
一人称を「俺」に戻し、息を整える。
「あ、すまない……いや、悪かったな、結衣。どうしても、その、会社での癖が抜けなくて……敬語が……」
焦って言い直そうとする俺の姿を見て、結衣はふっと小さく吹き出した。その笑顔があまりにも懐かしく、そして愛おしくて、心臓が激しく跳ね上がる。
「ふふっ、相変わらず真面目なんだから。急になんて戻さなくていいよ。ゆっくりでいいからさ、蒼くんのペースで話して」
「……ありがとう、結衣」
彼女のその包み込むような優しさに触れたことで、なにあった最後の防壁が音を立てて崩れ落ちていった。
不思議なことに、会話を重ね、彼女の温かな瞳を見つめているうちに、長年あんなに抜けなかった硬い丁寧語が、まるで嘘のように少しずつ解けていくのを感じた。
◇
だが、言葉を交わし、硬さが解けていくにつれて、結衣の表情からスッと笑顔が消えていった。
彼女はテーブル越しに身を乗り出すと、じっと俺の顔を、そして目の下に刻まれたクマや、以前よりも明らかに痩せ細った身体のラインをまざまざと見つめ始めた。
「……ねえ、蒼くん」
「ん……どうかしたか、結衣?」
そして瘦せこけた蒼の頬に手を伸ばして触れる。
「……一年ぶりにこうして近くで見て、私、すごく驚いたよ」
結衣の瞳が、痛ましそうに揺れていた。
「葵ちゃんからある程度聞いてはいたけれど……思っていた以上じゃない。蒼くん、あなた……一体、この一年間どんな生活をしてたの? 見てよ、その頬のこけ方。昔はもう少しふっくらしてて、健康的な筋肉の張りがあったのに、今はシャツの上からでも骨のラインが分かるくらい細くなってる。それに、肌も全然血色がなくて青白いし……ちゃんとした食事も摂れてないんでしょ? 睡眠だって、そんなに目の下にクマを作って、ろくに眠れてないのは一目で分かるよ」
結衣の指摘は、あまりにも的確で、そして容赦がなかった。睡眠不足、栄養不足、運動不足、すべてが俺の身体というキャンバスに、ブラック企業での過酷な生活の爪痕として刻み込まれていたからだ。
「……仕事が、忙しくてな。なかなか規則正しい生活ができなくて……」
「そんな言い訳しないで!」
結衣は思わずといった様子で声を荒らげ、テーブルの上で両手をギュッと握りしめた。その目には、怒りではなく、深い心配と哀しみの涙が滲んでいた。
「運動だって、葵ちゃんは道場で汗を流してるって言ってたけど、蒼くん自身は全然自分の身体を労ってなかったんでしょ? そんなボロボロの状態で、よく平気な顔をして生き延びてこれたね……。それにね、蒼くんは謝ってくれたけど、目の前にいるあなたのその不健康すぎる姿を見たことの方が、よっぽどショックだったよ?私と別れてから、蒼くんは自分を罰するように、わざとこんな過酷な扱いを自分に強いてたんじゃないかって……そう思えてしまって、すごく胸が苦しかったんだからね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。図星だった。自分でも気づかないうちに、日々の過重労働を受け入れ、心身をすり潰していくことが、彼女を傷つけた自分に対するせめてもの罰なのだと、どこかで思い込んでいたのかもしれない。
「……すまなかった、結衣。心配をかけたな。もう、そんな風に自分を粗末に扱ったりはしない。約束するよ」
俺が真剣な眼差しでそう誓うと、結衣はふうっと大きく息を吐き出し、少しだけ表情を引き締めて、さらにこう続けた。
「真摯に謝ってくれるのは嬉しいし、ちゃんと受け止めているつもりだよ。でもね、私、ずっと納得がいっていなかったことがあるの……」
「あの時からずっと……」と一呼吸を置いて、結衣が蒼の瞳を見つめる。
「蒼くんはさっき、『君の明るい未来まで台無しにしてしまう』とか、『これ以上巻き込めない』って言ってたよね。自分のせいで私が傷つくのを恐れて、一人で抱え込んで、勝手に決断して、一方的に連絡を断ったって」
トーンにわずかな鋭さが混じる。それは怒りというよりも、愛ゆえの切実な抗議だった。
「うん……そうだ。すべて俺が勝手に……」
「そうだよ、全部蒼くんの独りよがりだよ!」
結衣はたまらずといった様子で、テーブルの上で小さく拳を握りしめた。
「私はね、蒼くんの負担になりたかったわけじゃない。もし当時、仕事がそんなに辛くて、限界だったなら……どうして私に一言も相談してくれなかったの? 『今、会社でこういう状況で、すごく苦しいんだ』って、そう言ってくれたらよかったのに。私は、蒼くんにとってそんなに頼りない存在だった? それとも、自分の弱みを見せるのがそんなにプライドにかかわることだったの?」
その言葉は、鋭い刃のように胸に突き刺さった。だが、痛むどころか、その言葉の正しさに返す言葉を失う。
「私はね、蒼くんが一人でボロボロになって、勝手に一人で背負い込んで、勝手に『もう終わりだ』って結論を出して消えてしまったことが、何よりも悲しかったし、悔しかったの。いっそ思い切り怒鳴りつけてやりたいって、この一年間で何度思ったことか……。私を巻き込むななんて、勝手に決めつけないでよ。たとえどんなに泥沼の中でも、二人で一緒に悩んで、支え合うための恋人同士じゃなかったの……?」
結衣の目から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。それは一年間、誰にも見せずに堰き止めっていた彼女の涙だった。俺のために涙をさせてしまったという事実が、胸を引き裂くように痛む。
だが、結衣は涙を拭おうともせず、潤んだ瞳で俺をまっすぐに見つめ続けた。彼女はただ優しく受け入れてくれるだけの存在ではなく、俺を想い、俺に人生の時間を預けてくれていた一人の人間なのだと思い知らされる。
「……結衣。本当に、その通りだ」
蒼は逃げずに、彼女の目をしっかりと見つめ返した。
まだ頬に伸ばされていた優しい温もりを感じる手をぎゅっと握った。
「俺は臆病だった。自分のカッコ悪いところを見せたくなかったし、お前を巻き込んで嫌われるのが何よりも怖かったんだ。お前の強さも、優しさも、ちゃんと分かっていたはずなのに、追い詰められた俺は、自分のことで精一杯で、お前の気持ちを少しも信じようとしていなかった。……本当に、最低なのは俺だ。怒ってくれて、当たり前だ」
少し息を整えた蒼は、自分がこの一年間何をしていたのかを静かに語り始めた。
「俺の心はね、去年の秋に君を失ったあの瞬間から、ずっと暗い泥沼の底に沈んだままだった。会社での激務でどれほど身体がすり減り、意識が遠のきそうになっても、脳裏から離れなかったのは、君に一方的な別れを告げたあの日の後悔と、君の泣きそうな顔だった。どんなに絶望的な状況でも、俺が正気を保って生き延びられたのは……いつか、もし万が一の奇跡が起きるなら、もう一度君にちゃんと謝りたい、その一心だけだったんだ」
仕事のプレッシャーや睡眠不足だけではない。本当の意味で心を支え、暗闇の中で踏みとどまらせていたのは、いつの日か再び結衣の前に立ち、自分の言葉で謝罪と想いを伝えるという執念だった。
「……だけど、それは綺麗な執念じゃない。いつか結衣にちゃんと謝るその日までは死ねない、なんて……今思えば、なんと滑稽で、身勝手な話だろうな。君を突き放して一人にしておきながら、俺は『君への謝罪を果たすための免罪符』を心の支えにして、どうにか今日まで生き延びてきた。
おかしな話だよな。君に別れを告げ、君を深く傷つけた張本人であるはずの俺が、皮肉にもその『君を想って苦しむ自分』という自己陶酔に浸ることでしか、過酷な現実から身を守れなかったんだから。君を手放したからこそ、今まで生きてこられたなんて……そんな矛盾した、バカげた言い訳を自分の支えにしてしまったこと、本当に恥ずかしいと思うよ」
自虐的な苦笑いを浮かべながら、俺は自分の胸の内を赤裸々にさらけ出した。
仕事のプレッシャーや睡眠不足だけではない。本当の意味で心を支え、暗闇の中で踏みとどまらせていたのは、いつの日か再び結衣の前に立ち、自分の言葉で謝罪と想いを伝えるという執念……いや、それはただの我が儘な自己救済にすぎなかった。
「葵や師範、道場の後輩たちに救われた部分もあったがね……それでも、俺の人生において、一番の光はいつだって君だった。この一年、ずっと君に救われていたんだ」
結衣の手を握る蒼の手に力がこもる。結衣はもう片方の手を伸ばし、その力の入った手を優しく包み込む。
蒼の独白を聞き、そして、結衣は少しだけ視線を窓の外の通りへと落とし、今度は自らの胸の内を静かに打ち明け始めた。
「私ね……この一年間、本当にいろんなことがあったんだ。周りからは、『もう新しい恋を探しなよ』とか『いつまでそんな昔の男を待ってるの』って、散々言われてきたよ。正直に言うとね……何度も、そのアプローチを受け入れようと思ったことはあるよ」
結衣の口から語られたその告白に、蒼の心臓が凍りついたように止まった。
「去年の秋、蒼くんに一方的に別れを告げられたあと、仕事でも大きな失敗をしちゃって、精神的にボロボロになってた時期があったの。その時、仕事で親身になって助けてくれた人がいてさ……思わず、『私、最近失恋したんです』って、弱音を吐いちゃったんだよね。そしたらその人から、『そんなに一途に思ってくれる女性を泣かせるなんて、その男は馬鹿だな。俺ならそんな悲しませたりしないよ』って、真っ直ぐに告白されたの。当時の私は本当に弱っていて、孤独で、誰かにすがりたかったからさ……その人の好意を受け入れて、新しい一歩を踏み出そうかなって、本気で思いそうになった瞬間があったんだ」
胸の奥がキュッと締め付けられる。蒼は息を飲むことしかできなかった。自分が蒔いた種なのだから、誰かを責める権利などない。
「それにね、会社の経理の部長から、『うちの親戚に、すごく誠実でキャリアのある良い若い男がいるんだが、お見合いをセッティングしてみないか』って、何度も話をもちかけられたこともあったよ。相手の人は性格もいいし、仕事もできて、客観的に見ればすごく格好良い人だった。周りからも強く勧められてさ」
今度は結衣が、蒼の手を包み込んでいる手に力をこめる。
「でもね……ダメなんだよ、どうしても。どんなに優しい言葉をかけられても、どんなに条件の良さそうな人を紹介されても、私の頭の中に思い浮かべるのは……あの文化祭の準備室で一緒に残って作業したことや、図書館の自習室で並んで勉強したこと、このカフェで他愛のないことで笑い合った蒼くんの顔ばかりでさ……。思い出が美化されているだけだって、友達には呆れられたこともあった」
結衣は顔を上げ、潤んだ瞳でまっすぐに見つめてきた。
「でも、違うんだよ、蒼くん。思い出なんかじゃない。これは過去の美化なんかじゃなくて……私の中では、あの時からずっと、蒼くんと過ごした時間も、葵ちゃんと一緒に笑った日々も、すべてが今現在進行形で続いている、一番大切な想いなの。だから……他の誰かを好きになることなんて、どうしてもできなかった」
結衣の言葉を聞いた瞬間、目から、こらえきれなかった熱いものがこぼれ落ちそうになった。彼女が耐えてきた孤独の深さと、自分に向けられていた変わらぬ想いの重さに、胸は張り裂けそうだった。
◇
静かな店内に、二人の呼吸音だけが優しく響く。
テーブルを挟んで向かい合う二人の距離は、一年という長い空白を飛び越え、自分たちの胸の内を曝け出したことで、かつてよりも深く、確かな絆で結ばれようとしていた。
席からゆっくりと立ち上がり、結衣の座る窓際の席のすぐ隣へと移動する。そして、彼女のまっすぐな瞳を見つめながら、その場にしっかりと膝をつき、彼女の両手を自分の両手でそっと包み込んだ。
手のひらから伝わってくる、温かな体温。
冷え切っていた心に、本当の春が訪れたような感覚が広がっていく。
「結衣」
今度は、一人の男として、逃げない覚悟を決めた声で。
「もう二度と、お前を一人にしない。どんなに仕事が過酷になろうとも、どんなに絶望的な壁が立ち塞がろうとも、俺は――二度と君の手を離さない。これが、人生をやり直す俺の、最初で最後の誓いだ」
真剣な眼差しに、結衣は息を呑んだ。
「そして……もし、また俺が自分の弱さに負けて、同じような過ちを犯そうとしたときは……その時は、何度でも容赦なく俺を叱りつけてくれ。今度こそ、お前の前から逃げ出したりはしない。だから……」
言葉を詰まらせる蒼を見つめながら、結衣はふっと、これ以上ないほど愛おしそうな笑顔を浮かべた。その頬には、安堵の涙が伝い落ちていた。
「もう……そんな物騒な誓い、させないでよ、蒼くん」
「結衣……」
「でもね、もしまた同じように一人で抱え込もうとしたり、私を遠ざけようとしたりしたら……その時は本当に許さないからね。今度こそ、フライパンで頭を叩くくらいの勢いで怒ってあげるから」
「……ああ、頼む。俺を止めてくれ」
微かに笑うと、結衣は少しだけ表情を引き締め、潤んだ瞳でまっすぐに見つめ返した。
「それにね、蒼くん。『また同じことをしたら今度こそ見限ってくれ』なんて言ってたけど……そんなの、絶対に無理だよ」
結衣はふわりと微笑みながら、手をギュッと強く握り返した。
「私はね、きっとこれから先の人生でどんな素晴らしい人に出会っても、蒼くんのことを一生忘れられないと思う。だからさ、私を生涯独身の孤独な女にさせたくなかったら、蒼くんが責任を持って、ずっと私の手を強くつなぎとめていてよ。いい?」
その言葉を聞いた瞬間、なかで、張り詰めていたすべての不安が綺麗に霧散していった。
「……ああ、誓うよ。一生かけて、絶対に君を離さない」
窓際の席で、二人はゆっくりと引き寄せ合うように抱きしめ合った。
一年間止まっていたはずの時間が、音を立てて動き出し、眩しい未来へと向かって走り始めるのを実感していた。
二人がこれまでの空白を埋めるようにしっかりと抱き合い、ようやくお互いの想いを確かめ合ったその時だった。
「――はい、お替りのコーヒーだよ。ゆっくりしていきなさい」
穏やかな声とともに、カチャリと心地よい音がして、二人の手元に湯気の立つ真新しいコーヒーカップがそっと置かれた。
顔を上げると、そこには優しげな笑みをたたえた白髪交じりのマスターの姿があった。
学生時代、このカフェがまだ文教地区の隠れ家的な場所だった頃から、二人はほぼ毎日のようにこの席に通い詰めていた。マスターにとっても、二人は特別な常連客だったのだ。一年前から、蒼がパタリと姿を消し、結衣も一人でぽつんと寂しそうにコーヒーを飲みに来るようになったこと。そして、ある時期から二人が全く来なくなってしまったことを、マスターはずっと心配していた。
「お前たちが来なくなってから、もう一年になるか。……心配していたんだよ。まあ、昨日の今日で、あの子から連絡があったからな」
カップを拭きながら、マスターは穏やかに目を細めた。
「あの子……?」と結衣が小首を傾げると、マスターはクッと小さく笑った。
「あぁ、もう一人の常連さ。時々カウンターの端で、美味そうにチーズケーキを食べていく、元気な妹さんだよ。昨日、あの子から急に連絡が来てね。『おにぃと結衣ねぇが、明日あの席で一年ぶりに再会するからさ!』って、教えてくれたんだ」
それを聞いた蒼と結衣は、思わず顔を見合わせた。
葵が昨日、マスターにまでこっそりと連絡を入れてくれていたなんて。
「そんな大切な日に、この店を選んでくれたことが嬉しかったよ。だから、二人とも、時間を気にせずゆっくりしていきなさい」
マスターはそう言うと、温かな視線を二人に向けたまま、トレイを手に持ってゆっくりと店の入口の方へと歩いていった。
そして、マスターは入口のドアの木枠に掛かっていた札を手に取り、ふっと外した。
そこには、いつの間にか「本日貸切営業」と書かれた札が掛けられていた。
その光景を見て、蒼と結衣はハッと周囲を見回した。
――言われてみれば、店に入ってから今まで、自分たち以外の話し声や足音が全く聞こえていなかった。他にお客がいないことなど、お互いのことで頭がいっぱいですっかり忘れていたのだ。
マスターは外した札を裏返し、カウンターの奥へと仕舞いながら、振り返って悪戯っぽくウィンクした。
「若い二人がじっくり話し合えるようにね。……邪魔者はしばらく入れないでおいたのさ」
そのマスターの細やかな気遣いと、二人の未来を温かく見守ってくれる優しさに触れ、蒼と結衣の胸の奥は、言いようのない温かな感謝と幸福感でいっぱいに満たされたのだった。
◇
デートを終え、それぞれが帰路につき、夜のとばりが降りた静かな自室。
都内のマンションのワンルーム。
相変わらず遮光カーテンの閉め切られた部屋ではあったが、以前のような殺伐とした冷気はどこにもなかった。掃除された床、きれいに纏められたゴミ袋、そして何よりも、胸のなかに満ちている穏やかな充実感が、部屋の空気を全く別のものに変えていた。
ベッドの上にどさりと腰を下ろすと、自然とポケットからスマートフォンを取り出していた。
画面のロックを解除し、メッセージアプリを開く。
宛先には、先ほど別れたばかりの名前――『白石 結衣』がしっかりと表示されていた。
何も考えず、ただ身体が勝手に動いていた。
キーボードをタップし、指先が懐かしい文字を紡ぎ出す。
『今日は本当にありがとう。久しぶりに話せて、すごく楽しかった。気をつけて帰れたか?』
送信ボタンを押す。
画面にメッセージが浮かび上がった瞬間、以前の自分なら「こんな時間に連絡して迷惑ではないか」とすぐさま消去したかもしれない。だが、今は違った。
――ピコン。
驚くほど素早いタイミングで、スマートフォンが短く震えた。
画面を開くと、そこには見慣れた優しい文字で返信が表示されていた。
『ううん、こちらこそありがとう。本当に楽しい時間だったよ。無事に家に着いたよ。蒼くんも、今日はゆっくり休んでね。おやすみ』
その文字を見た瞬間、口元に自然と笑みがこぼれた。
そうだ――これだ。これが、昔から二人の間で続いていた日常のやり取りだった。
会っている間に直接言えなかった小さな感謝や、言い損ねた恥ずかしい言葉を、不満に思った事を、家に帰ったあとにその日の終わりに送り合う。そして明日からの活力に変え、次のデートの機会に生かそうと、二人で決めて大切にしていた習慣だった。
止まっていた時間の針が、今、完全に元の場所へと戻ってきた。
スマートフォンを胸元に優しく抱きしめながら、深くて心地よい眠りへと誘われるように、ゆっくりと目を閉じる蒼。VR機器に頼らずとも、不思議と今日は、悪夢を見ずに朝まで眠れそうな予感がした。




