第2話 鏡合わせの型
配信中のほんの些細な動揺から飛び出した「おにぃ」というたった一言。その致命的な失言によって、葵の築き上げてきた平穏なバーチャルタレントとしての日常は、一瞬にして音を立てて崩壊した。
――だが、その混乱の真っただなかで、葵の身体はすでに自室のゲーミングチェアをリクライニングさせ、その上で身体を横たわらせていた。
彼女の頭部には、前話の時点で、兄である蒼が購入したものと同じマットブラックの最新鋭ダイブギアがすでにしっかりと装着されている。ヘッドギアの内側では、睡眠波誘導システムが静かに稼働を始めていた。このギアは、プレイヤーを安全かつ強制的に深い睡眠へ導くため、意識が完全に遮断されるまでにわずかなタイムラグが生じる仕様になっている。
その「意識が落ちるまでの数分間」という猶予のなかで、葵の視界の片隅には、スマートフォンと完全連動したヘッドギアの機能によって、次々と通知ウィンドウがポップアップし始めていた。
ピコン、ピコン、ピコン――。
『睡眠波誘導システム:接続中……(完全睡眠まであと少しお待ちください)』という青いプログレスバーの傍らに、現実の端末に届いた連絡が次々と投影される。
所属事務所の女性マネージャーからの、どこかほがらかで和気あいあいとした普段通りの柔らかいメッセージが視界の端を流れていく。
『ルナちゃん、さっきの配信の最後の発言、みんなびっくりしちゃったみたい。落ち着いたらでいいから、様子教えてねー』
『うちの事務所はみんな味方だから、あんまり一人で抱え込まないで連絡してちょうだいね』
さらには、日頃から仲の良い同僚のVTuberたちからも、心配と茶化しが混じった優しい通知が次々と浮かび上がる。
『ルナちん大丈夫? 兄ちゃんがいるって初耳なんだけど!』
『あとでゆっくり事情聴取ね(笑)』
視界の端で点滅し続ける無数のウィンドウを見つめながら、葵は現実世界での動揺と焦燥を無理やり押し込めていた。ここで事務所の対応や弁明に気を取られている暇はない。一刻も早く現実の兄が今どうしているのかを自分の目で確かめなければ、居ても立ってもいられなかった。
(みんな、ごめん……! あとでちゃんと謝るから……!)
脳裏で謝罪を繰り返しているうちに、ヘッドギアのシステムが作動し、心地よい青い光の波動が葵の意識を現実から引き剥がしていく。
こうして、強制睡眠へのタイムラグを経て、葵の精神は『アストラル・クロニクル』の仮想世界へと急速に降臨していった。
◇
眩い光の収束が終わり、葵の意識がゲーム内のシステム空間へと接続された瞬間、耳障りなほどの電子音の嵐が彼女を迎え撃った。
ピコン、ピコン、ピコン――!
クランチャットの受信音とフレンドメッセージの通知音が、まるで怒涛のように鳴り止む気配を見せない。視界の端では、彼女がリーダーを務める最前線攻略クラン【月詠】のメンバーや、顔見知りのプレイヤーたちからのメッセージが滝のように重なり合っていた。
『ルナさん、さっきの配信の切り抜きがネットで大変なことになってます!』
『おいおい、配信中に「おにぃ」って聞こえたぞ。マジかよ、兄弟いたのか?』
しかし、葵はそのすべてのメッセージに対し、一切の猶予を与えずに「一括ミュート」のコマンドを容赦なく叩き込んだ。
今、この仮想世界の広大なフィールドにおいて、彼女の意識を惹きつけるものはただ一つしか存在しなかった。
リスナーたちが書き立てていた噂の断片と、目撃情報の位置。
――『第1層の外れ、緑陰の緩丘の周辺で、あの動画のプレイヤーが目撃されている』
クランリーダーとしての権限と圧倒的な移動スキルをフルに活用し、葵は始まりの街の転移ゲートから緑陰の緩丘へと一気に駆け抜けた。
◇
その頃、緑陰の緩丘の穏やかな木漏れ日が差し込む小道では、ちょっとした異変が起きていた。
プレイヤー名――『カナト』。
補強革ジャケットをまとい、鉄製短剣を携えた一人の青年が、いつも通り静かに周囲の植物を採取していただけなのだが、その周囲にはいつの間にか、遠巻きにシステムの録画機能を構える多くのプレイヤーたちが群がっていた。
先ほどの配信事故の余波により、「ルナの実の兄ではないか」「あの脱力美形こそが配信を狂わせた張本人だ」という噂がネットの海を駆け巡り、野次馬たちが次々と現場へ押し寄せてきていたのだ。
ただし、噂の真偽を確かめようと遠巻きに視線を送る者は多いものの、誰一人としてカナトに直接突撃したり、無遠慮に声をかけたりする者はいなかった。
VRMMOは総じてそうなのだが、規約が厳しめだ。ハラスメントに関してはもっとも厳しく。リアル事情を嫌がる相手に追究しようものなら、即座にアカウント凍結の処分を受けるだろう。
それだけではなく、トップクランのリーダーに波及するかもしれないという心理的プレッシャーと、カナトが放つ得体の知れない異質な雰囲気も、周囲に一種の不可侵領域を作り出していた。
当の本人である蒼は、遠巻きに自分を囲むようにして多数のプレイヤーたちが集まり、何やらざわついている異様な気配に薄々気づいていた。
(……なんだか、やけに周囲が騒がしいですね……。道行く人たちが、みんなこちらをじっと見つめながら、ひそひそと何かを囁き合っているような……)
しかし、蒼は首をかしげるだけで、特に深く気にとめようとはしなかった。
彼が日々身を置いている現実のブラック企業では、フロアの全員が死んだ目をしたまま無言で膨大な作業をこなし、殺伐とした空気が澱のように立ち込めている。いつ上司から無理難題を吹っ掛けられるかもしれない恐怖。それに比べれば、ただ周囲でソワソワと見物しているだけの状況や、どこかざわついた空気感など、異常のうちに入らなかった。
「まあ、特に実害はありませんし、自分の作業を続けましょう」
蒼が何食わぬ顔で再び足元のミント草に手を伸ばしようとした、その時だった。
「――おにぃっ……!!」
木立の陰から、聞き覚えのある切迫した少女の声が響き渡った。
その瞬間、周囲にいたプレイヤーたちが一斉にピクリと反応した。
「えっ、いま何つった……?」
「おにぃって聞こえたぞ……!?」
「まじかよ、やっぱりあの脱力美形って、ルナちゃんの本物の兄貴なのか……!?」
先ほどの配信事故の噂が脳裏に焼き付いていた野次馬たちは、駆け込んできた少女が発したその一言を聞き逃さず、一気にざわめきを強めた。
そんな葵の焦燥など露知らず、蒼は落ち着いた足取りで振り返り、丁寧な動作で頭を下げた。日頃の社畜生活で理不尽な顧客を丁寧語で捌き続けてきた習性が、ごく自然に口をついて出る。
「おや……これは、トップクラン【月詠】のリーダーである『月紗影ルナ』さんではありませんか。このような初心者向けの緩やかなエリアで、私のようなものに何かご用でしょうか?」
蒼は、目の前に立つプレイヤーが名高いクランのリーダーであることに気づいていた。
攻略情報をしっかりと把握している蒼からすれば、相手がトップクランの有名プレイヤーであることは当然の認識だった。それ故、自分のような底辺のソロプレイヤーに何の用があるのかと、どこか他人行儀な、丁寧な物腰で対応する。
しかし、その他人行儀な、まるで壁を作るかのような丁寧語こそが、今の葵にとっては耐え難いものだった。
毎日ブラック企業で心身をすり潰し、命を削るように働いている兄が、この仮想世界の片隅でも変わらずにそんな硬質な仮面をかぶり、自分を「ルナさん」と呼んで距離を取ろうとしている。
その現実に、葵の中でこみ上げる切なさと、どうしようもない焦燥が限界を超えて溢れ出した。
「――いつまで、そんな他人行儀な敬語使ってるのよ……!」
葵は怒り混じりに言葉を発する代わりに、その場ですっと姿勢を落とし、インベントリから自身の愛用する専用の武器を取り出した。
シャキィンッ! と、冷たい金属の澄んだ音が木漏れ日の小道に響き渡る。
葵が手にしたのは、VTuberとしてのイメージやアバターの可愛らしい見た目とは裏腹に、本物の武具としての重厚感を放つ一本の美しい日本刀だった。
彼女はそのまま、目の前にいる兄に向かってすっと一歩踏み出し、微塵の隙もない「正眼の構え」で対峙した。
幼少期から曾祖父の道場で叩き込まれ、全国大会で上位入賞を果たした剣道の実力者が本気で放つ、鋭く冷徹な殺気が、周囲の空気をピリピリと震わせる。
その圧倒的な殺気と気迫に呼応するように、蒼の身体もまた、反射的に咄嗟の反応を示した。
「――っ!?」
思考よりも速く、長年の道場通いで体に染みついていた防衛本能が作動する。蒼は反射的に身体を沈め、敵の攻撃を受け流すための構えをとろうとした。
しかし、彼が現在装備しているのは、先ほど街の武具屋で調達したばかりの取り回しやすい「鉄製の短剣」だった。長柄の竹刀や日本刀であれば完璧に決まるはずの重心移動と型を、短い短剣で咄嗟に行おうとしたため、構えのバランスは大きく崩れ、傍から見ればお世辞にもサマになっているとは言えない、ぎこちなく不格好なポーズになってしまっていた。
だが、どれほど見た目が不格好であっても、その内側にある「型」の軌道と骨格の軸は、曾祖父の代から受け継がれた流派の正確な理合に裏打ちされていた。
緊迫した静寂の中、向かい合う二人の間に走る空気の緊張感。
葵が放つ研ぎ澄まされた正眼の構えと、蒼が短剣を握りしめて必死にバランスを取る不格好な構え。
その二つの動作が交錯した瞬間――。
お互いの身体の重心の置き方、わずかに絞られた肘の角度、そして呼吸を合わせるタイミングが、寸分の狂いもなく完全に一致した。
――型が、完全に重なった。
その瞬間、頭で考えるよりも早く、二人の中で確信の雷鳴が轟いた。
システム上の偶然などではない。骨の髄まで叩き込まれた軌道と、幼い頃から何度も交わしてきた呼吸のタイミング。目の上にいる相手が、血を分けた間違いなく大切な存在であるという真実が、頭を通さず直接脳裏に突き刺さった。
「っ……!」
蒼の口から、驚愕と動揺が混じった息が漏れた。
長年の社畜生活で冷え切っていた脳の奥底で、かつての記憶の扉が音を立てて開く。目の前の少女が纏う気配、その足裁きの癖は、まぎれもなく――。
「お前……葵……か?」
あまりの動揺に、蒼は思わず、現実の本名であるその名を口走ってしまった。
それは、日頃から徹底して言葉を選び、どんな修羅場でも冷静沈着にリスクを処理するはずの人間が、ネット社会において最も避けるべき「身バレ」の禁忌を自らの手で堂々と踏み破ってしまう、あまりにも無防備で、ぼそりとした呟きだった。
ただ幸いなことに、その呟きは周囲のプレイヤーの喧騒にまぎれて、葵にしか聞こえなかったようだ。
突然現れたトッププレイヤーであるルナが、目の前の脱力美形に向けて改めて「おにぃ」と呼んだものだから、周囲の野次馬たちは「おい、今の聞いたか!?」「やっぱりルナちゃんだぞ!」「おにぃって呼んだぞ!?」と、ますます盛大に騒ぎ立てていた。
しかし、当事者である葵にとっては、目の前の兄からゲーム内で自分の本名を呼ばれたことが何よりも衝撃だった。
真っ先に怒鳴りつけるべき場面だったはずだが、頭をよぎったのは、普段コンプライアンスをガチガチに遵守し、リスク管理を徹底しているはずの兄が、そんな無防備な呟きをしてしまったという強い驚きだった。規約の壁に縛られていたはずの兄のなかに、人間らしい生身の感情が垣間見えたことで、葵の胸にはいつしか深い安堵が広がっていく。彼女は手にした日本刀をガチャリと慌ててインベントリへしまい込むと、両手を腰に当ててぷくっと頬を膨らませた。
「ちょっと! ゲーム内で本名呼ばないでよ!」
恥ずかしさと安心感が入り交じった複雑な表情を浮かべ、蒼をビシッと指差した。
「せっかく身バレしないように気をつけてるのに、おにぃがそんなうっかり本名呼んだりしたら、さっきの配信の事故と合わせて大変なことになっちゃうでしょ!」
「あ……す、すまない……っ。いや、その……ルナさん、ではなく……」
慌てて言葉を濁し、気まずそうに目を泳がせる蒼。
その様子を見た葵の胸の奥で、張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
その狼狽えぶりは、普段の仕事場で見せる冷徹な営業スマイルや完璧な丁寧語とは似ても似つかない、まぎれもない「不器用な兄の姿」そのものだった。
不思議なことに、この予測不能の出会いと、お互いの型が重なり合った瞬間を境にして、蒼の纏っていた硬質な空気の壁に微かなヒビが入っていた。
いつもなら絶対に崩さない仕事モードの丁寧語。しかし、目の前の妹を前にして、蒼の口から漏れ出る言葉は、少しずつ、だが確実に、かつての自然な兄らしい口調へと戻り始めていたのだった。
木漏れ日が揺れる緑陰の緩丘の小道で、すれ違っていた兄妹の時間が、いま確かな軌道を取り戻し始めたのだった。




