第1話 愛する人の面影
都内にある、白を基調とした洗練された高層マンションの一六畳間の一室。
部屋の壁には音の反響を抑えるウッドパネルが綺麗に埋め込まれていて、大きな二重ガラスの窓は、遮音性を保ったまま高層階からの夜景が一望できる。壁にある換気扇が音を立てずに回り、室内の温度を調整するエアコンがその振動を伝えている。
そんな部屋の奥に陣取った特設の配信用デスク周辺は、二枚の高解像度モニターが放つ青白く冷たい光に包まれていた。
黒川葵、二十二歳。大学四年生として卒業を間近に控える彼女は、その実、界隈でその名を知らぬ者はいない大手VTuber事務所『ノヴァ・アストリア(Nova Astoria)』に所属する人気VTuber――『月紗影ルナ(つきさえるな)』その人であった。
チャンネル登録者数は優に数十万人を超え、ひとたび配信を始めれば、同時接続数は数千人から時には一万人を超える規模を誇る。彼女の人気の秘訣は、天性の明るさと軽妙なトークスキル、そして何より、大ヒットVRMMO『アストラル・クロニクル』において、最前線攻略クラン【月詠】(つくよみ)を立ち上げ、自らリーダーとしてトップ戦線を駆け抜ける圧倒的なゲームの腕前にあった。
幼少期から剣道に打ち込み、高校時代には全国大会で上位入章を果たした確かな実績を持つ彼女の足裁きや間合いの感覚は、ゲーム内でも異彩を放っていた。マニュアル操作を駆使した華麗な立ち回りと、リスナーとの温かくも軽妙なプロレスじみた掛け合いは、多くのファンを魅了してやまない。
今日もいつも通り、夜の定期配信に向けてスタジオルームの環境を整え、葵は配信用のアバターコントロールシステムを起動した。
「よし、そろそろ時間だね。今日も元気にいってみよー!」
マイクに向かって声を張り上げ、配信開始のボタンを押す。
コンマ数秒の遅延もなく、画面の向こう側に広がる待機所へ無数のリスナーたちが雪崩れ込んできた。チャット欄は瞬く間に滝のような勢いで流れていく。
『ルナちゃんきたああああああ!』
『今日も待機してたぞ!』
『おつルナ! 今日の企画は何?』
『髪型少し変えた? かわいい!』
画面の向こうから送られてくる熱気を感じ取りながら、葵はバーチャルアバターの表情を生き生きと動かし、いつもの明るいトーンで挨拶を返した。
「みなさんこんばんはー! 月紗影ルナです! え、髪型? いやいや気のせいだよ、今日も絶好調にお美しいルナ様ですが何か? さてさて、今日も今日とてまったり雑談配信ということでね、みんなの一週間どうだったかとか、最近あった面白いエピソードとかを募集しつつ、のんびり喋っていきたいと思います!」
リスナーたちの軽妙なコメントを拾い上げ、次々とユーモアを交えてツッコミを入れていく。画面の向こうのファンたちも大盛り上がりで、チャット欄は終始笑いと温かいスタンプで満たされていた。
大人気VTuberとしての日常。華やかで、自分の実力と努力で掴み取った居場所。葵にとって、この配信の時間はかけがえのないものだった。
しかし、その和やかな雑談の最中、チャットの流れる速度が一瞬だけ不規則になり、ある一つのコメントが画面の視界に飛び込んできた。
『そういえばルナちゃん。あの動画見た?』
『ルナちゃん。「アストラル・クロニクル」の攻略掲示板見た?』
『第1層の外れの方で目撃されたっていう、あの「脱力美形」の動画、ルナちゃん知ってる!?』
そのコメントを読み上げた瞬間、葵のトークのテンポがわずかに詰まった。
「――ん? 『脱力美形』……? なにそれ、新しいモンスターの固有種の名前?」
首をかしげるバーチャルアバターの仕草に合わせて、葵の表情もスクリーン越しに疑問の色を帯びた。
すると、チャット欄がさらに加速し、一斉に同じような話題が書き込まれ始めた。
『違う違う、モンスターじゃなくてプレイヤーの名前……というか、あだ名みたいなもん!』
『初期装備の木刀とボロボロの布服で、第1層の荒野のボアを完全マニュアルの紙一重回避でボコボコにしてた変態ソロプレイヤーだよ』
『それだけじゃなくて、最近は緑陰の緩丘でイキりクランを正論で自滅させたって噂の……』
『なんか、あるプレイヤーが面白半分で隠し撮りしたその「脱力美形」の動画が、今ネット上でめちゃくちゃ出回ってるんだよね』
リスナーたちの興奮した書き込みを眺めながら、葵はわずかに眉根を寄せた。
配信者として、そして【月詠】のクランリーダーとして、ルールやマナーには人一倍敏感な葵である。
「ちょっとちょっと、みんな。それってさ、もしかして特定のプレイヤーを無断で撮影してネットに晒してるやつってこと?」
葵は少し呆れたような、しかし真面目なトーンでリスナーたちをたしなめるように言った。
「それって立派な規約違反だし、晒し行為はモラル的にあまり良くないでしょー? いくら珍しい動きをする人がいたからって、勝手に動画を拡散したりすることはダメだよ、みんなも気をつけてね?」
『あ、確かに……』
『ルナちゃんの言う通りだな』
『でも、動きがマジで異常すぎてみんなバズらせちゃってるんだよなぁ』
『見れば分かるけど、あれはガチのやばい奴だから一回見てみてよ』
リスナーたちの悪びれない、しかし純粋な好奇心に満ちた言葉の数々を聞くうちに、葵の胸の内に言い知れない違和感と、妙なざわめきが広がってきた。
――そこまで周囲の注目を集め、他のプレイヤーたちが「異常な動き」と評するほどのプレイスタイルとは、いったいどのようなものなのだろうか。
「そんなに言うなら……ちょっとだけだよ? 規約違反の温床になってないか、リーダーとして確認しておかないとね」
葵は苦笑いを浮かべながら、配信用のサブモニターで、リスナーたちがチャットに貼り付けてくれた動画のリンクをクリックした。
画面が切り替わり、荒涼とした荒野の風景と、一人のプレイヤーの姿が映し出される。
アバターの容姿は、サービス開始から1年が経過した現在のトレンドである、リアル寄りの端正な顔立ち……なのか?それにしては整い過ぎている、どこか気怠げでアンニュイな雰囲気を纏った青年がそこに立っていた。
プレイヤー名――『カナト』。
(おにぃがゲームをする時に適当に付ける名前と一緒だなぁ)
そう思いながら、動画の中でその青年がふと顔を上げた瞬間、葵は「あれっ?」と小さく引っかかりを覚えた。
一瞬、脳裏に実の兄である蒼の顔がよぎる。しかし、ここ数年の兄といえば、連日の激務による酷いクマとやつれ果てた顔しか見ていなかったため、葵の中でその本来の整った端正な顔立ちは少しずつ記憶の底へと薄れつつあった。そのため、「まさかそんなわけないか」とすぐにその思考を打ち消す。
しかし、動画の再生が進み、青年が静かに木刀を構え直し、正面を見据えたその瞬間――葵の喉から、思わず小さな息が漏れた。
「なにこれ……っ!?」
葵は思わず前のめりになり、モニターに顔を近づけた。
「なにこの動作……。嘘でしょ、これって……完全なマニュアル操作でやってる……? アシスト機能の硬直が一切ない……私だってお父さんや道場で教わって、足裁きくらいならマニュアルでできるけど、あんな風に敵の攻撃のタメを見切って紙一重でかわすなんて、そんなのできるわけが……っ!」
動画の中で、荒野を闊歩するクレイジー・ボアの突進を、青年は一切慌てることなく、ただ軸足をわずかに滑らせて体幹を半身分だけ横へとずらすだけでいなしていく。
突進する巨体が、青年の衣服の裾をかすめて虚しく通り過ぎていく。大掛かりなスキルなど使っていない。ただの、極限まで無駄を削ぎ落とした最小限のステップワーク。
『アストラル・クロニクル』において、システムアシストをオフにして完全マニュアルで戦闘を行うことは、並みのプレイヤーには到底不可能な「自傷行為」に近い。葵自身、剣道の経験を生かして足裁きや構えをマニュアルに組み込んでいるが、それでも完全にシステム補正なしでモンスターの攻撃を「見てから回避」するなど、ほんの一握りのトップランカーでも許されない神業だった。
何より、青年の構え、指先の角度、そして微動だにしない軸。
そして、武器を振るう際の「柄の滑らせ方」と「足裁き」の軌道。
――曾祖父が開設した古式剣道場。
――休日のたびに道場の中心で、誰よりも美しく、誰よりも無駄のない正確な型で竹刀を振るっていた、あの後ろ姿。
――疲労困憊の身体で帰宅し、それでもなお微かに背筋を伸ばして床に座っていた、あの人。
見間違うはずがなかった。
幼い頃からずっと追いかけてきた、記憶の中にある「最愛の兄」の面影と、目の前の映像が寸分の狂いもなく重なり合った。
「――っ、うそ……おにぃ……!?」
絶叫に近いその声は、葵が意識して発したものではなかった。
あまりの衝撃と混乱のあまり、彼女の喉から反射的に飛び出した、紛うことなき「実の妹としての素の声」だった。
そして、その声は――配信用の高性能コンデンサーマイクを通り抜け、今まさに何千人というリスナーが固唾を飲んで見守っていた配信の電波に乗って、生々しく世界中へと放り出されてしまった。
◇
『……え?』
『いま……「おにぃ」って言った……?』
『待って待って待って、今の声めちゃくちゃリアルじゃね!?』
『待てよ、ルナちゃんに兄なんていたのか……?』
『「脱力美形カナト」の動画を見て「おにぃ」って叫んだぞ……まさかあの動画のプレイヤーって……!!』
『おいおいおい、大事故だぞこれ……!』
チャット欄が、これまでに見たこともないほどの凄まじい勢いで爆発的に流れた。
リスナーたちは一瞬にして状況を察し、ネット上でバズりかけている謎のソロプレイヤーと、目の前のトップVTuberであるルナとの間に血縁関係があるのではないかという巨大な疑惑の奔流に飲み込まれていった。
「――あ……っ!?」
自分がしでかしたことの重大さに気づいた瞬間、葵の頭が真っ白に染まった。
血の気が一気に引き、全身の毛穴から冷や汗が噴き出すのがわかる。
「ち、違う……! 今のは違うの! 違うからみんな聞いて――っ!!」
弁解しようと声を絞り出すが、パニックに陥った脳はまともな言葉を紡ぎ出すことを拒絶していた。
これ以上配信を続けたら、兄である蒼のプライベートや、ネット上の詮索による二次災害が取り返しのつかない規模にまで拡大してしまう。
「どうしよう……っ、どうしよう……!」
葵は震える指先でマウスを掴み、思考停止のまま配信ソフトの強制終了ボタンを乱暴に叩きつけた。
プツン、と無慈悲な電子音を残し、世界を繋いでいた配信画面がプツリと暗転した。
◇
静まり返った自室。
モニターの青白い光だけが、青ざめた顔で椅子に座り込んでいる葵の姿を照らし出していた。
「やばい……。まずい……どうしよう……っ……!」
葵は両手で自分の頭を抱え込み、カーペットが敷かれた床に崩れ落ちるように膝をついた。
心臓が激しく脈打ち、胸の奥が締め付けられるように痛む。
VTuberとしての活動において、プライベートの露呈や身バレは最大のタブーの一つだ。ましてや、ネットで話題になっている一般プレイヤーが自分の実の兄であると公の電波で自ら暴露してしまったのだから、事務所のコンプライアンス担当やマネージャーから厳重な注意を受けることは確実だった。下手をすれば、大々的な炎上に発展し、兄の平穏な日常までをも脅かすことになりかねない。
「私の……私のせいで……おにぃに迷惑が……っ……!」
葵の大きな目が一気に潤み、涙が零れそうになる。
自分の軽率な行動に対する激しい後悔と、最愛の兄を危険に晒してしまったかもしれないという恐怖で、葵の身体は小刻みに震えていた。
しかし――。
どれほど恐ろしくても、どれほど事務所に怒られることが確実であっても、葵の胸の奥からどうしても消えない強い想いがあった。
(待って……落ち着いて……)
葵は涙を手の甲で乱暴に拭い、よろよろと立ち上がった。
(おにぃは……毎日あんなに会社でボロボロになって、自分の命を削るように働いてるはずなのに……どうして、あんな風にゲームの中で生き生きと動けてたの……? あれは本当に、おにぃなの……?)
動画の中で見せた、あの完璧な剣の軌道。そして、どこか吹っ切れたような、けれど必死に生きようとしている兄の姿。
本当にあれが兄の蒼なのだとしたら、今、現実の兄はどうしているのだろうか。あの動画のようにゲームにログインして、少しでも心を休めているのだろうか。それとも、相変わらずあの冷酷なブラック企業の中で、一人孤独に苦しんでいるのだろうか。
自分の目で確かめなければならない。
兄の安否を、そして彼が今どこで何を思っているのかを、妹としてどうしても確認しなければ気が済まなかった。
「……っ、行くしかない……!」
葵は震える手で配信机の上に置かれていた黒い専用ダイブギアを手に持った。
事務所への報告やこれからの炎上対策のことは、この際後回しだ。
葵はそのまま配信用のゲーミングチェアに手を伸ばすと、背もたれを180度近くまでリクライニングさせ、オットマンを引き出す。この椅子はダイブ型の配信にも対応していて、長時間のダイブで何時間も同じ姿勢のまま眠るように固まっていても、腰や背中が痛くならないプロ仕様の設計だ。
そんな椅子の上に素早く横たわると、最新鋭のダイブギアを頭部にしっかりと装着した。
『睡眠波誘導システム、作動。ダイブを開始します――アストラル・クロニクルへようこそ』
心地よい青い光の包摂とともに、葵の意識は現実世界の焦燥と恐怖から引き剥がされ、広大な仮想世界のネットワークへと深く、深くダイブしていった。
目指すは、兄――蒼がその身を置く、『アストラル・クロニクル』の始まりの世界。
兄の背中を追い求め、葵は静かに光の荒野へと踏み出していくのだった。




