(8)空手形
翌月、拓二が研究室を終えて家へ帰ると、知子が拓二を呼び止めて、言った。
「やっぱり今月も、生活費入れられないって」
「オヤジから連絡あったの?」
「そう」
生活費が駄目なら、拓二の小遣いは聞くまでもない。予想通りではあったが、富雄は先月、「来月は大丈夫」「来月は今月分と合わせて六万円渡す。約束する」と言った。口先だけ、と拓二になじられながらも、確かにそう言った。
だが、結局その発言は空手形であったことがこれではっきりした。父の発言が信用できるものではない、という事実が拓二には哀しかった。
「オヤジはほかに何か言ってなかった? 借金がどのぐらいあるとか、取り立てに来られて困っているとか?」
「ううん、そんなことは言ってなかったけど……」
(けど、何だろう?)
拓二は、知子の次の言葉を待った。
「拓二には、必ず大学院へ進むように伝えてくれ、って言ってたわ」
「そんなこと言ったの?」
拓二の頭に血がのぼった。
生活費を入れられない、ということは、これからの家族の生活は必然的に苦しくなる。
生活を切り詰める必要が生じるだろうし、自分は大学院進学を断念し、今から大学卒業後の就職先を見つける必要があるかもしれない。そう考え始めていた矢先である。
そこへ、必ず大学院へ進めとは、富雄はいったいどういう父親づらのつもりなのであろうか。
そもそも大学院の学費を富雄が負担できるとはとうてい思えない。それよりもまず生活費が先であり、富雄はそれすらもここ三ヶ月間、知子に渡していないし、来月以降もそれはあてにできない。
それなのに、大学院へ行く学費を、一体どうやって工面することを想定してのこの発言なのだろうか。拓二は、富雄の無責任な発言に腹が立った。
それに加え、実がないのに、あたかも息子を思う父親のように見せかける演出をする富雄が、ペテン師にすら思えてならなかった。
「拓二は大学院へ行きなさい。お父さんがそう言ったからじゃなくて、私も行くべきだと思うの。学費のことは私が何とかするから、心配しないで」
知子のこの言葉はうれしかった。堅実な知子のことだから、富雄から毎月もらっていた生活費の一部をきちんと貯金していたのであろう。
だから、当面の生活費と、大学院の学費は、知子なら何とかしてくれることは間違いないだろう。富雄と違い、知子の言葉には実がある、拓二はそう思った。
「うん、でも……」
かと言って、はい分かりましたと、今この場で即答するのは軽率だとも拓二は思った。
実際に、自分が大学院へ進めるだけの余裕があるのかどうかについては、きちんと確認する必要があった。
夕食は豚のしょうが焼きと豆腐の味噌汁、キャベツときゅうりのサラダ、それにいんげんの黒ごま和えである。
先日と同じように、夕食の食卓で拓二が一雄と三郎に言った。
「結局今月も、オヤジは生活費を入れられない、って電話してきたそうなんだ。これで三ヶ月連続だ」
それを聞いて、一雄が言った。
「まだ厳しい状況が続いているからね。もうしばらくは浮き上がるのは難しいかもしれない。今が踏ん張りどころだ」
一雄は相変わらず、事態をそれほど悲観していない。拓二はそれが気に入らない。
「オヤジの借金がいくらぐらいあるのか分からないけど、危ないところから借りているということは、もしオヤジから回収できなければ、ウチに取り立て屋が押しかけてくることだって考えられる。そうなったら大変だ」
「でも、オヤジの借金を家族が返す義理はないぜ。連帯保証人になっているわけじゃないんだし」
「そうだけど、相手が闇金や暴力金融だったら、そんな理屈は通用しないんじゃないかな。どんな手段を使ってでも回収しようとすると思うよ」
「それなら、警察に言えばいい」
「警察に言ったって、完全に守ってもらえるわけじゃないだろうね。それに相手はそういうことには慣れているだろうから、警察に通報されることなど想定済みじゃないかな。警察の目をかいくぐって回収する手段だってもっているだろうし」
「まあ、そうかもしれないけどな」
「だから、オヤジが借金を抱えたままだと、その火の粉がこっちにまで降りかかってくる危険があるから、そうならないように何か手を打たないとまずいと思うんだ」
拓二がそう言うと、知子と一雄は顔を見合わせた。三郎は、拓二の方を見た。
「それはつまり、『別れろ』ってことか?」
一雄がそう言うと、今度は知子と拓二が顔を見合わせた。




