(5)綾子からの電話
生物化学研究室は、教授室と、准教授以下の教員の事務室のほかに、学部四年生や大学院生の居室兼実験室である約二百平米のスペースからなり、実験室内には実験台や薬品棚が並び、台上にはピペットやビーカー、試験管などの実験器具が所狭しと置かれている。
学生は実験台の空きスペースを利用してデスクワークを行っているが、奇しくも台上の実験器具が仕切りの役割を果たしており、学生個々があたかも個室にいるかのような空間を形づくっている。
実験室内の壁側には大きな冷凍冷蔵庫やクリーンベンチ、遠心分離機やPCR装置などの機器類が並べられていて、自由に動けるスペースが少ない。
拓二は、無機質で窮屈な実験室ながら、この部屋に入った途端、世間とは隔離された特別な空間に身を置いているように感じるため、実験室に居ることが嫌ではない。
ある日、拓二が研究室で実験に没頭していると、胸ポケットの携帯電話が振動していることに気がついた。知らない番号からの電話であった。
拓二は実験の手を止め、電話に出た。
「もしもし」
「あ、拓二くん?」
「はい、そうです」
「私、綾子です」
その名前を聞いた瞬間、拓二の心臓の鼓動が早くなった。
「ああ、どうも。こんにちは」
「突然ごめんね」
(綾子さんは、どうしてオレの携帯電話番号を知っているのだろうか?)
拓二は綾子に携帯番号を教えたことはなく、むろん拓二も、綾子の携帯番号を知らない。
「この前、拓二くんがお父さんに電話をかけてきたとき、お父さんが席を外していたから、私が出たでしょ。そのとき、拓二くんの携帯番号を知ったの。ごめんね」
「そうだったんですね」
拓二は合点した。
「拓二くん、今日忙しい?」
「えっ?」
「できれば、ちょっと会って話したいことがあるんだけど?」
デートの誘いか、と一瞬思ったが、拓二は、まさかそんなはずはない、とすぐに打ち消し、きっと富雄の話だろうと予測した。
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、私の仕事が十七時に終わるから、十七時半に待ち合わせでいいかしら?」
「はい、大丈夫です」
(ボキャ貧だな)
拓二は、同じセリフを二回繰り返した自分に苦笑した。
綾子とは、会社の最寄り駅の隣りの駅にある喫茶店で会うことになった。拓二は、普段よりも早めに実験を切り上げることにした。
実験器具を片付け、帰り支度をしていると、拓二を指導している安田助教が、
「あれ、今日はやけに早いね。もしかして、これからデート?」
と言った。
周りで実験している学生たちはいっせいに拓二を見た。
「いいえ、そんなんじゃありません」
拓二は否定したが、安田助教もみんなもニヤニヤしながら拓二を見ている。
「ほんとに、そんなんじゃないんです」
拓二が否定すればするほど、その否定が嘘っぽく聞こえるらしい。
「いいな~。うらやましいな~」
「安田先生、だから違うって言っているじゃないですか」
「どうぞごゆっくり~」
安田助教は手を振って拓二を送り出した。実験中の学生たちもみんな笑っている。
研究室を出た拓二は、実際、デートではないのに、冷やかされた分だけ損した、と思い、苦笑を禁じ得なかった。
(綾子さんの話って、何だろう?)
電車に乗っている間、拓二はあれこれ思いめぐらせた。
まさか告白されるなどとは到底思えなかったが、もしそうなら、と考えるとうれしくなった。
(まったくオレは、どこまで甘いのだろう)
拓二は、つまらぬ幻想を強く打ち消そうとした。




