(2)口論
富雄には愛人がいて、富雄は愛人のために購入したマンションに愛人と一緒に住んでいる。しかも、愛人との間にできた子供がいて、その子供は授業料が必要な私立小学校に通っているという。
富雄自身が愛人と子供と一緒にマンション暮らししている、ということは、その先月分の生活費は、(普段よりも切り詰めた可能性はあるにせよ)富雄の財布から支出されたものと考えるのが理の当然である。今月分もまたしかりである。
つまり、富雄の財布の中にある金は、まず最初に富雄を含めた愛人家族に割り当てられ、その次に知子や拓二たち本妻家族、そして、拓二の小遣いはさらにその後回し、という優先順位であると考えられる。
富雄の財布の中身が乏しくなり、先月は第一優先の愛人家族への支出でもって財布が空になったため、知子や拓二たち本妻家族、加えて拓二の小遣いへの支出はできなかった、ということだ。それが今月も続き、来月以降も続く可能性が高い。拓二はそう思った。
拓二が毎月、わざわざ富雄の会社へ小遣いをもらいに行くのは、富雄が「本宅」にはめったに帰って来ないからである。年に数回帰って来るか来ないかであり、そもそも「帰って来る」という言葉すら妥当ではなく、「顔見せに来る」というのが実態である
いずれにせよ、富雄が金の面で、本妻家族よりも愛人家族の方を優先していることは、富雄の仕事に支障が生じていて、資金繰りが苦しいこととは別問題であり、拓二には許しがたいことであった。
「まあ、口だけなら何とでも言えるよね」
拓二は、最近の富雄の話には空論が多く、実が伴っていないことに失望していた。
「口だけじゃないぞ。来月は必ず……」
「じゃあ、お母さんに今月の生活費は渡したの?」
「いや、さっきも言ったけど、今月も苦しいから、もう一ヶ月だけ我慢してもらう」
「でも、女にはお金渡してるんでしょ?」
拓二がそう言うと、富雄の顔色が変わった。
拓二は続けた。
「ウチよりも女の方が大事なんて、順番が逆じゃないの? 百歩譲って女を囲うことを認めたとしても、まず本妻の生活費をきちんと確保するのが先決で、女は二の次、というのが筋じゃないの? それが男の甲斐性というものでしょ?」
拓二は、少ししゃべりすぎた。
「生意気言うな!」
富雄は、もっとも触れてほしくない恥部を逆なでされたように感じたのか、声を荒げた。
「オレは、やるべきことをきちんとやらなきゃ駄目だ、って言っているんだ。家にお金を入れるのはお父さんの役割だし、お父さんにしかできないでしょ? オレはこの前、大学院の試験に合格したけど、大学院だって全員が行けるわけじゃない。受験した人の七割しか合格しなかった。三割は落ちたんだよ。オレはオレなりにやるべきことをやって、そういうハードルをちゃんと乗り越えているんだ」
拓二がそう言うと、富雄は沈黙した。
勤めていた建設会社を辞め、富雄が金融の仕事を始めたのは十年前である。世間が好景気に浮かれ始めた頃で、時宜にかなっていた。
いくばくも経ずに富雄の事業は軌道に乗り、金回りが良くなった。富雄は長財布の中にこれ見よがしに札束を分厚く収納し、ベンツに乗り、ブランド品の服やバッグ、時計を身に着け、家族を焼肉や寿司を食べに頻繁に連れ歩くようなご身分になった。それまで住んでいた小さい借家から、富雄が借金のカタに入手した一戸建ての家へ引っ越した。
愛人を囲うようになったのはその頃からで、富雄は、引っ越したばかりの一戸建ての家にはあまり帰って来なくなった。愛人にマンションを買い与えたのもその頃である。
拓二が大学合格後、運転免許を取得すると、富雄は拓二に車を買って与えた。まだ初心者で、車をあちこちぶつけたり、こすったりするだろうからと、新車ではなく中古車だった。
ただ、拓二は、
「車には実際あまり乗らないだろうし、それに車をもつと駐車場代や車検代等、維持費がかかるからいらない」
と断ったが、富雄は、
「駐車場代は三万円の小遣いから払えるだろうし、車検代はお父さんが出す」
と言ったため、結局中古車を買い、駐車場を借りることになった。
羽振りの良かった富雄であったが、リーマンショックの影響で世の中の景気が急激に冷え込むと、富雄の事業は齟齬をきたし始めた。資金繰りが悪化し、ぜいたくで膨らんでしまった毎月の固定費をまかなうことが困難になり、ついには家族へ生活費を渡すことにも支障が出る事態に陥ってしまった。
「帰る」
拓二はそう言って、社長室を後にした。富雄は無言のまま、拓二を見送った。
部屋を出ると、富雄の会社の従業員がいっせいに拓二を見た。どうやら社長室内での二人の大声が外まで漏れていたらしい。
拓二は、受付の綾子の横を通り過ぎるとき、
「すみません」
と一言だけ言って会社を出た。綾子は苦笑いして拓二を見送った。




