(1)父の会社へ
大学の講義は昼下がりに終わった。
今日は研究室へ寄らなくてもいい。
拓二は電車に乗り、自宅の最寄り駅よりも二駅手前の駅で下車し、父の会社へと向かった。
太陽は、まだ空の高い位置にある。
駅から歩いて三分。繁華街の中にある十二階建ての商業ビル。拓二はエレベーターに乗り、五階で降りた。
拓二の父、富雄は、金融業を営んでいる。従業員八名を雇用しており、小成功者と言えなくもない。拓二は前日、
「明日行くから」
と電話で父へ連絡してあった。
「こんにちは」
拓二は自動ドアから父の会社へ入ると、カウンター越しの正面受付に座っている綾子にあいさつした。綾子は、拓二が会社へ行くとたいがい受付にいる。
「いらっしゃい。今日は早かったのね」
百平米程度の事務スペース。カウンターの向こう側に事務机が並んでいる。パソコン画面を見ながら仕事をしていた従業員たちがいっせいに拓二を見た。拓二はそれらの視線に軽く会釈を返した。
月に一度、拓二は父の会社を訪ねている。普段は陽が傾きかける夕方に行くことが多いので、確かにこの日はいつもより早めだった。
「今日は講義だけで、研究室に寄らなかったから、早く来ました」
「そうだったのね。お父さんは奥よ。どうぞ」
綾子にそう言われた。
いつも自然な優しい笑顔を返してくれる綾子に、拓二は好感を抱いていた。
(オレよりも五歳年上の、雰囲気がやわらかい、きれいなお姉さん)
そんなことを思いながら、拓二は受付の横を通り抜けて、奥の社長室へ向かった。
ドアをノックすると、中から、
「どうぞ」
という野太い声がした。拓二はドアノブをひねり、中へ入った。
「やあ」
拓二の父、富雄は軽く右手をあげて、拓二を招じ入れた。三十平米程度の空間。富雄は自分の机に向かって執務中だったが、立ち上がって応接セットのソファへ腰かけた。
拓二は何も言わずに富雄と対面のソファへ座った。
「拓二、腹減ってないか? かつ丼でもとろうか?」
「昼ごはんは食べてきたから、いい」
「そうか」
二人の間にしばらく沈黙が続いた。
やがて、ドアをノックする音がした。綾子が二人分のコーヒーを淹れて入ってきた。
「失礼します」
綾子は静かにコーヒーをテーブルの上に置き、一礼して部屋を出て行った。
「さあ、飲め」
富雄に促されて、拓二はコーヒーカップの横に置いてあるミルクポーションを手に取り、それをコーヒーの中へ注ぎ入れた。拓二はブラックコーヒーが苦手だった。砂糖は使わない。
富雄はブラック派であり、何も入れずにコーヒーカップの取っ手を持ち、熱い液体を一口すすった。
二人はまだ沈黙していた。お互い、相手が話を切り出すのを待っていた。
だが、いつまでもらちが明かないので、拓二が先に言葉を発した。
「こうやって毎月来るのは心苦しいと言うか、物乞いみたいで気が引けるんだけど……」
そう言って、拓二はコーヒーを飲んだ。
「今月は、もらえるだろうか?」
富雄の表情が曇った。
「今月もちょっと苦しいんだ。リーマンショック以降、ウチだけじゃなく、みんな苦しいんだが……」
富雄はそう言った。
拓二は、富雄がそう言うだろうことは予想してはいたものの、困惑した。
(今月も少ない貯金を取り崩すことになるのか。車の駐車場代が月一万円、これが特にこたえる)
「先月ももらってないし、今月もだめ。もうこれからずっともらえないってことかな?」
拓二が大学入学以降、富雄が拓二に毎月三万円の小遣いを渡すことになっていた。富雄が決めたことである。高校中退の学歴の富雄にとって、我が子が大学に合格したことはこの上ない快挙だったため、拓二の合格を知ったその場で、
「でかした、お前には毎月三万円の小遣いをやる」
と言い放ったのである。
そのため、拓二には、富雄から毎月三万円をもらえる「権利」があるのだが、先月は苦しいからと言われてもらえず、今月も苦しい、と富雄は言う。
拓二が小遣いをもらえなかっただけではなく、先月、母の知子が、
「生活費をもらえなかった」
と言っていた。この様子だと、今月も生活費をあてにすることはできないかもしれない。拓二には、知子の不安げな表情が目に浮かんだ。
「何しろ、貸した金を返しもしないで、音信不通になるヤツが多くて。昨日なんか、金を返しに来たのかと思ったら、『あと五十万貸して下さい、俺を男にして下さい』なんて言うヤツまでいて。『男なら、借りた金ぐらいきちんと返せ』って言ってやったよ」
富雄はそんなことを言い、やや苦しげにハハハ、と笑った。
拓二は笑わず、もう一度言った。
「もうこれからずっと小遣いはなし、ということなのかな?」
「いや、そうではない。今月は苦しいけど、来月は大丈夫。近いうちに大きな資金回収の目処が立っているんだ」
富雄はコーヒーをすすった。
「そうだ、来月は今月分と合わせて六万円渡す。約束する」
最近の父の十八番である空手形だ、と思ったが、これ以上要求しても父から小遣いを引き出すことは無理だ、と拓二はあきらめた。
確かにこのご時世、貸した金が回収できない、いわゆる貸し倒れが多発しているのは事実であろう。この点、富雄が苦労していることは間違いではなく、仕事の面においては、拓二は息子として父の窮状を理解できないことはない。
ただ、富雄が毎月負担する生活費は、知子や拓二たち家族分とは別に、もう一家族分存在すること、そして恐らく「もう一家族分」の生活費は、先月分もきちんと支出されていることがほぼ確実、という事実は、看過できない問題であった。




