(15)なぜ?
めずらしく、都内でまとまった雪が降った。
北の丸公園の雪景色は、ここが果たして東京の中心部であろうかと思うぐらいに幻想的な空間に様変わりし、拓二はしばしの間、白銀の中にたたずみ、今現在直面している家族の問題を憂いつつ、一人で物思いにふける時間を過ごした。
拓二の大学もいよいよ卒業が近づき、卒業論文提出期限まであと二週間となった。
拓二は、必要な実験はすべて完了させていて、あとはパソコンを使って論文作成に注力するだけであった。
その論文も、すでに半分以上は書いたが、そのあとの論理展開をどうしようかとか、文章が分かりにくくないだろうかとか、あれこれ迷っているため、なかなか筆が進まなかった。
「最近は毎日遅くまでがんばっているね。たまには早く帰って、彼女とデートでもしたら?」
安田助教が、拓二をからかった。
「デートする相手なんていませんって」
「ほー、そうなんだ。この前の彼女とは別れちゃったの?」
「彼女じゃありませんよ。別れるも別れないも、そもそも付き合っていませんから」
「その人のこと、好きじゃなかったの?」
「安田先生、この会話って、セクハラですよ。今はコンプライアンスが厳しいご時世ですから」
「男が男にたたみかけて質問するのって、セクハラって言うのかな?」
「さあ、どうなんでしょう。そのへんの線引きはよく分かりませんけど」
「その人のこと、好きだった?」
「だから、そんなんじゃありませんって」
(綾子さんは、どうしているだろうか? 富雄の会社を辞めて、目下花嫁修業中だろうか?)
自分よりも五歳上で、月に一度、富雄に小遣いをもらいに行くときだけ顔を合わせる間柄でしかなかった。
だが、改めて思い返してみると、四年間もの間、毎月一回、決まって富雄の会社へ小遣いをもらいに通い続けたのは、単にお金をもらえるから、という理由以外にも、綾子に会える、という要素が多分に含まれていたことは否めなかった。
ときどき綾子が休みで不在のときは、残念、と小さくがっかりしたことを思い出す。綾子に対し、「好感」を抱いていたことは間違いないが、これを「好意」と言えば言えなくもない。
だが、「好き」という、より直截的なことばで言うほどには、綾子への思いが熟していたとは言えない。もしかしたら、ほのかな好意をそのまま飼い育てていたら、綾子のことを好きになっていたかもしれない。
ただ、仮に綾子のことを本気で好きになっていたとしても、その恋は実らず、自分が苦しい思いをするだけで終わっていたであろう。そもそも、綾子には婚約者がいるのだから。
綾子のことを思うと、なぜか気持ちがじんわりと温もる感じがする。笑顔が素敵だった。
ものすごく人を好きになるのはつらいことも多いが、ほのかな好意というものは、案外と効用が大きいのかもしれない。拓二はふとそう感じた。
いずれにせよ、綾子はすでに富雄の会社を辞め、もうすぐ結婚する。もう生涯、綾子と会うことはない。
拓二はそんなことを思いつつ、また論文作成に集中しようとした。
知子と拓二が富雄と離婚協議をした三日後、拓二が研究室から遅い時間に帰宅すると、知子と三郎が居間にいた。三郎はいつものようにゲームをしていて、知子はテーブルに頬づえをついてテレビを見ていた。
「おかえり」
心なしか、知子の声に元気がないように拓二には感じられた。
気になったので、拓二は二階へ上がらず、そのまま居間へ入った。
すると、知子が拓二を見上げて、
「お父さんが夕方、離婚届を持ってきたわ」
と言った。
「まさか、突き返してきたの?」
「ううん、ちゃんと自分の名前と保証人の名前が書かれていて、ハンコも押してあった」
(それならよかった)
富雄が離婚届を持ち帰ったとき、ひょっとしたら破り捨てたり、突き返してくるかもしれない、と一抹の不安を抱いていたのだが、そうはならなかった。
「お父さん、すごく寂しそうだった」
拓二は、知子の顔を見て驚いた。
知子は涙を流していた。
「あんな顔をしたお父さん、初めて見たわ」
知子はそう言うと、嗚咽をもらして泣き始めた。
拓二は、予想外の出来事に頭が混乱した。三郎は心配そうに知子を見ていたが、無言のままであった。
なぜ泣くのだろうか。拓二には分からない。
これで悪縁ともいうべき富雄との関係を完全に断ち切ることができる。
親戚の中には、知子に対する富雄の仕打ちを「蛇のなまごろし」だと言う人もいた。確かにその通りだと拓二は思っていたし、今日はその呪縛が完全に解けて、むしろめでたい日というべきではないのか。
ひとしきり泣いて、やや落ち着きを取り戻した知子は、涙を拭いてから言った。
「お父さんが歳をとったら、私が面倒をみるから」
拓二は、ますます混乱した。
(面倒をみるから、って、富雄は愛人と一緒に暮らしているではないか)
富雄の老後の面倒は愛人がみるべきであり、離婚届を市役所へ提出したら、もはや知子の出る幕はない。
そもそも知子はいったい何年、富雄に別居生活を強いられたのか。
富雄は愛人を囲い、愛人にマンションを買い与え、愛人に子供まで産ませた。生まれた子供に罪はないが、富雄の行為は知子への冒涜と言っても過言ではなく、知子の妻としての、あるいは女としてのプライドを著しく傷つけた。
そんな富雄に対して、知子が恨むことはあるにせよ、老後の面倒をみる、などというのはあり得ない話ではないのか。
拓二は、何も言わずに居間を出て、二階の自分の部屋へ行った。拓二の耳の奥には、衝撃波のような音響が繰り返し鳴り響いていた。
(お母さんは、いったいどうしてしまったのだろうか?)
弱々しい富雄の姿を見て、母性本能を募らせた、とでもいうことなのだろうか。
「女は弱し、されど母は強し」という言葉の「母は強し」の部分が最近の知子の姿であり、そんな知子を拓二は頼もしく思っていた。
だが、知子の富雄に対する感情はそんな簡単に割り切れるものではなく、「女は弱し」の部分もまだ燃え尽きずに残っているのだろうか。
拓二はしばらく自室で茫然と立ち尽くしたまま、知子の心情を推し量ろうと何度も試みたが、どうしても腑に落ちなかった。




