残ると決めた手
卓の上に、三つの金貨袋が並んでいた。
一袋に金貨五十枚。三人合わせて百五十枚。
けれど、私は三人の顔を見ても、残ってほしいとは言わなかった。
「返事は、一人ずつ自分で決めてください」
セルジュが眉をつり上げる。
「お前には聞いていない」
「ええ。ですから、私も代わりには答えません」
戻るなら、これまで働いた分の賃金を払い、持ち物を返して送り出す。残るなら、今までと同じ条件で仕事を任せる。
どちらを選んでも、私が責めることはない。
最初に動いたのは、裾の始末を任せている職人だった。
金貨袋には触れず、自分の指ぬきを卓へ置く。
「旧工房では、仕上がらなければ眠るなと言われました。ここでは、明日の針目を崩さないために休めと言われます」
指ぬきを持ち上げ、元のように指へはめた。
「私は残ります」
二人目は、金貨袋をセルジュの前へ押し戻した。
「金貨五十枚は欲しいです。でも、それを受け取って戻れば、次から断れなくなる。どの布を縫うかも、いつ休むかも、またそちらに決められるでしょう」
「五十枚だぞ。お前が何年働けば稼げると思っている」
「何年も働くからこそ、金貨だけでは決めません」
三人目は、少し長く袋を見つめていた。
迷うことは悪くない。大金なのだから、迷わない方が不自然だ。
やがてその人は、裁断台に置かれていた乳白色の端切れを手に取った。第七話で仕上げた外套と同じ、向きを変えれば光がそろう布だ。
「旧工房では、エレノア様が夜に直した衣装も、翌朝にはミレーヌ様の仕事として運ばれました」
その言葉に、私の指が止まった。
「ここでは、自分が縫った場所を、自分の仕事だと言えます。私は、その場所を捨てません」
三人目も、袋を押し返した。
セルジュの顔から血の気が引いた。
「エレノアに言わされているのか」
「私が命じたのなら、残るという返事に価値はありません」
私は三つの袋をまとめ、セルジュの側へ寄せた。
「三人の返事はお聞きになったはずです。お持ち帰りください」
公爵は、セルジュを威圧することも、三人を褒めて囲い込むこともしなかった。ただ、馬車が仕立場の入口を塞いでいると御者へ告げ、道を空けさせた。
セルジュは金貨袋を乱暴に抱え、馬車へ戻った。
百五十枚を積んでも、三人の手は買えなかったのだ。
昼前、入れ替わるように二台の馬車が止まった。
降りてきた二人の客は、それぞれ侯爵家の封がついた小袋を持っていた。中には金貨が十枚ずつ入っている。
「今日は旧工房で採寸するはずだったの。でも、行ってみたら二つの採寸席が空のままでしたわ」
「職人が戻るから間に合うと言われていたのに、戻らなかったそうね。急いで別の者に測らせると言われたけれど、お断りして予約金を返していただいたわ」
二つの採寸席が一日空き、旧工房は予約金金貨二十枚を返した。
二人は私にも仕立てを頼めないかと尋ねたが、私は王家の十二着が終わるまで採寸日を約束できないと答えた。
「でしたら、婚礼後にもう一度考えます」
二人は金貨を持ったまま帰っていった。
旧工房を見限ったからといって、こちらを選ぶとは限らない。それでいい。今日着る衣装も、これから頼む工房も、客自身が決めることだ。
午後になると、今度は仕立てを学びたいという二人が訪ねてきた。
一人は背が高く、もう一人は小柄だった。どちらも家で針を使った経験はあるが、工房で働いたことはないという。
公爵は二人を連れてきただけで、採用を決めようとはしなかった。
「契約の用意はできる。だが、二人を迎えるかはあなたが決めてほしい。もちろん、入るかどうかは本人たちが決めることだ」
「では、まず手を見せていただきます」
私は同じ大きさの試し布を二枚渡し、布目に沿って折り、粗く縫ってから解くよう頼んだ。
背の高い人の針目は大きいが、布を引く力が一定だった。仮留めや、長い裾を支える仕事に向いている。
小柄な人の針目は細かい。しかし、途中から布がわずかに波打った。腕が上がりすぎ、手首に余計な力が入っている。
私は椅子へ座ってもらい、床から肘までを測った。それから低い台で、もう一度だけ縫ってもらう。
今度は布が波打たなかった。
「腕が悪いのではありません。使っていた卓が高すぎたのです」
小柄な人が、驚いたように自分の縫い目を撫でた。
「私でも、工房で縫えるでしょうか」
「学ぶ間も賃金は出します。ただし、婚礼衣装へすぐ針を入れていただくことはできません。最初は試し布と裏側の直線縫いです。それでもよろしいですか」
「はい」
背の高い人にも、何を学びたいかを尋ねた。
「裁つ前に、どうして布を何度も撫でるのか知りたいです」
「ならば、布目を読むところから始めましょう」
二人とも自分で頷いた。
私は倉に残っていた二台の仕立台を運んでもらった。一台には厚い台木を入れて高くし、もう一台は低い脚のものを選ぶ。肘の高さに合わせ、座ったときに肩が上がらない位置で留めた。
三人の職人も、それぞれ端切れ入れと糸立てを分けてくれた。
最後の台木を差し込むとき、公爵が私の隣へ膝をついた。
「私が脚を支えてもよいだろうか」
「お願いします。あと指一本分だけ、こちらを上げてください」
公爵は私の指示どおりに台を持ち上げた。私がくさびを打ち込み、二人で手を離しても、卓は少しも揺れない。
差し出された木槌を受け取るとき、指先が一度だけ触れた。
それだけなのに、胸が強く鳴った。
身分の高い方が床へ膝をついたからではない。私の判断を疑わず、必要な場所だけを支えてくれたことが嬉しかった。
二人が新しい席で試し布を縫う。背の高い人は背を曲げず、小柄な人も肩へ力を入れていない。
夕刻には、五つの仕立席へ五つの針山が並んだ。
金貨で連れ戻されなかった三人と、自分から学びに来た二人。その誰の返事も、私や公爵が代わりに決めたものではない。
「三人を残したのは、あなたの命令ではなかった」
公爵が完成した二席を見ながら言った。
「はい。三人が自分の仕事を選んだのです」
「その選択を守れる仕立場を、あなたが作っている。私も、その先を見届けたい。あなたが許してくれるなら」
仕事の話なのに、その声は胸の奥へ静かに残った。
「はい。見ていてください」
そう答えた直後、王宮の衣装係が駆け込んできた。
本来、十二着の最初の着合わせは八日後だった。ところがミレーヌが王太子妃側へ出向き、私が五日早められると申し出たことになっていた。
着合わせは三日後。すでに十一人の着用者と支度役が王宮へ集められ始めている。
私は一度も、納期を縮めるとは言っていない。
それでも、ここで慌てて五人へ夜通しを命じれば、ミレーヌのついた嘘を私たちの指で本当にしてしまう。
私は針を置き、外套を取った。
「王宮へ行きます。何日で、誰が、どこまで仕上げられるのか、着る方々の前で私自身が説明します」
公爵が馬車を回すよう命じるより先に、私は仕立場の扉を開けた。
私たちの納期まで、他人の口に勝手に縫い縮めさせはしない。
(第9話へ続く)




