選ばれた乳白色の絹
翌朝、私は公爵の馬車で三軒の織元を回った。
一軒目では、戸口で断られた。
「侯爵家との取引を失えば、年間三十反の注文が消えます。申し訳ありません」
主人は何度も頭を下げた。断る声には迷いがあったが、三十反を織る職人たちの暮らしがかかっている。私に責められるはずがなかった。
二軒目には、婚礼用の白絹そのものがなかった。昨夜のうちに、セルジュが来月分まで買い付けていたのだ。空になった棚には、巻き布を置いていた跡だけが白く残っていた。
公爵は二軒とも責めなかった。
「断る理由を話してくれただけでも十分です」
その言葉に、こわばっていた織元の主人たちは深く頭を下げた。身分で押さえつければ布は手に入るかもしれない。けれど、次によい布を織ってもらえるとは限らない。公爵はそれを知っているのだ。
三軒目は都の外れにある、小さな織場だった。
戸を開けると、乾いた糸と木の匂いがした。婚礼用の強い光沢を出す絹は出荷済みだったが、棚の奥に乳白色の絹が一反だけ残っていた。礼装には輝きが足りないとして、買い手がつかなかった品だという。
私は手を洗い、爪の際までよく拭いてから布へ触れた。
布端を指の腹で撫で、縦と横へ軽く引く。斜めに畳んで戻りを確かめ、最後に自分の腕の内側へ滑らせた。さらりとした感触が、熱を逃がすように肌を通り過ぎる。
見栄えはおとなしい。けれど布目は素直で、汗を含んでも張りつきにくい。肌着にすれば、重い婚礼衣装の下でも息を妨げないだろう。
「これを候補にします」
「もっと高価な絹も取り寄せられます」
公爵はそう言ったが、買うとは決めなかった。
「北方の薄絹と、王都に残っていた輸入絹も一反ずつ用意できます。三種を並べたうえで、あなたに判断してほしい」
「私だけでは決めません。肌へ触れる布ですから、王太子妃殿下にも選んでいただきます」
「では、そのように整えましょう」
高い布が最上とは限らない。公爵はそれを理解し、金額も身分も私の判断へ差し挟まなかった。その任せ方が、ありがたかった。
昼過ぎ、三種の見本が王宮の一室へ並べられた。
輸入絹は一反金貨二十八枚。北方の薄絹は十九枚。織場で見つけた乳白色の絹は十二枚だった。
私は値段を書いた札を伏せた。
「まず、首元と腕へ触れた感覚をお確かめください。気に入ったものが決まってから、値段をご覧いただけます」
王太子妃殿下は侍女を下がらせず、その場で三枚すべてを試された。
一枚目には「冷たい」、二枚目には「軽いけれど、少し滑る」とおっしゃった。そして乳白色の絹を鎖骨の下へ当て、腕を上げ、深く息を吸われた。布は胸元の動きに沿い、素直に元へ戻った。
「これがよいわ」
「光沢はほかの二枚より控えめです」
「肌着を見せるために婚礼をするのではないもの。それより、長い誓礼の間に苦しくならないことを選びます」
札を返すと、殿下は十二枚という値段にも驚かず、ただ布をもう一度撫でられた。選ばれたのは、最も高価な布ではなかった。値札ではなく、着る方の身体が答えを出したのだ。
私は殿下の許可を得て、侍女立会いのもとで採寸した。立った姿だけでなく、椅子へ腰かけたときの背丈、腕を胸の前で重ねたときの脇のゆとり、深く礼をしたときの首元を確かめる。
「少し腕を上げてください。次は、そのまま息を吸っていただけますか」
巻き尺の数字だけを拾っていては、動いたときの苦しさまでは分からない。指で布の逃げる向きを探り、必要なゆとりを身体の動きから測っていく。
「ここへ指を入れてもよろしいでしょうか」
「ええ」
肩と肌着の間へ指一本分を残す。締めつけず、上衣の下で余らせない幅だった。
工房へ戻ると、三人の職人に布を見せた。
一人には長い脇縫いを、もう一人には首回りの細い始末を、三人目には裾と結び紐を任せる。手の速さだけではなく、それぞれが最も失敗しにくい仕事を割り振った。私は布目を通して裁ち、肩を三針で仮留めした。
鋏を入れるたび、しゃり、と小さな音がした。残りのない一反だと思えば、指先へ余計な力が入りそうになる。私は一度息を吐き、刃先ではなく布目を見た。
乳白色の絹は、強く引けば針穴が残る。速さより、布を押さえない手つきが要る。
「縫い直しは一度までにしましょう。迷ったら針を入れる前に私を呼んでください」
三人とも頷いた。針が布を抜けるかすかな音だけが、工房へ規則正しく重なっていった。
夕刻までに肩と脇がつながったところで、私は針を止めた。
「今日はここまでです。続きは明朝に」
職人の一人が窓の外を見た。まだ手元は見える。けれど、疲れた指は自分が思うより鈍くなる。
納期は厳しい。だからこそ、一反しかない布を急ぎで傷つけるわけにはいかなかった。休む時刻まで決めるのも、仕上がりに責任を持つ者の仕事だ。
公爵は壁の作業表を確認した。
「今夜中に仕上げろと言われるかと思いましたか」
「少しだけ」
「あなたが決めた交代と休息です。私が崩す理由はありません」
そう言ってから、公爵は裁断台に残った長い布端を示した。
「畳むために、反対側を持っても?」
「お願いします」
二人で布端を合わせた。公爵は私が合図するまで引かず、私が手を緩めれば同じだけ緩めた。角がずれかけると、言葉にするより先に動きを止めてくれる。
布一枚を畳むだけなのに、こんなにも呼吸を合わせてくれる人がいる。そのことが妙に嬉しく、布越しに近づいた手を意識してしまった。胸の鼓動を悟られたくなくて、私は折り目を整える指先へ目を落とした。
翌日の午後、肌着は完成した。
王太子妃殿下に袖を通していただき、歩行、着席、挙手、誓礼の順に動いていただく。私は正面だけでなく、横と背後へ回り、布の引かれる場所を一つずつ見た。
殿下が深く礼をされても、首元は浮かなかった。腕を上げても裾は引かれず、椅子へ座っても背中に皺が集まらない。
「息ができます」
殿下はもう一度、大きく胸を膨らませた。肩にも脇にも余計な力が入らず、そのまま柔らかく微笑まれる。
「婚礼衣装なのに、着る前から脱ぐ時刻を待たずに済みそうだわ」
三人の職人の顔がほころんだ。昨夜、針を置くよう告げたときには不安を残していた者も、今は自分の縫った箇所を誇らしそうに見つめている。
きらびやかな飾りは一つもない。それでも、着る方が苦しまずに一日を過ごせる。そのための一着を、私たちは完成させたのだ。目には隠れる仕事だからこそ、殿下の晴れやかな息遣いが何よりの証明だった。
公爵は肌着ではなく、まず三人の縫い手へ礼を言った。それから私へ向き直る。
「あなたは布を選んだだけではない。殿下が選べるようにし、職人が失敗せず縫える順へ組み直した」
「皆が自分の手で確かめたから、できたのです」
「その手を信じて任せられる場所を、あなたが作ったのでしょう」
胸の奥が、縫いたての布に包まれたように温かくなった。技を見てくれるだけではない。私がどう職人へ仕事を任せ、どう着る方の声を聞いたのかまで、公爵は見ていてくれた。
工房へ戻る途中、侯爵家の印をつけた荷馬車とすれ違った。六つの大きな荷包みを積んだまま、仕入れ商の倉へ引き返すところだった。
御者台の隣には、昨日の布商が座っていた。
「侯爵家へ納めるはずだった裏地と芯地です。これまで金貨三百枚までは後払いでしたが、信用取引を止められました。今後は全額、現金を受け取るまで一包みも下ろせません」
十二着の撤回、金貨六百枚の違約金、七人の退職、四件の解約。そのうえ、使う当てもない白絹へ金貨二百七十枚を費やした。
そして今度は、仕入れ商が自分で危険だと判断し、侯爵家の信用枠金貨三百枚を閉じたのだ。誰かが命じたのではない。支払いと仕事ぶりを見た商人が、自分の商いを守るために見限った結果だった。
私は荷馬車を呼び止めなかった。セルジュの支払いを助けるつもりも、商人へ考え直すよう頼むつもりもない。荷車の軋む音が遠ざかるまで、振り返ることもしなかった。
ところが工房へ着くと、朝の織場から使いの者が待っていた。
その手には、残る十一着分を織るために渡した見本布が握られていた。指が強く食い込み、乳白色の布に深い皺が寄っている。
「先ほどセルジュ様が来られました。完成する絹をすべて押さえるため、先に金貨百三十二枚を置いていかれたのです」
本来なら、一反金貨十二枚。それを前払いで倍にすると告げたという。
使いの者は見本布を裁断台へ置き、震える声で続けた。
「残り十一反は、一反につき金貨二十四枚を出さなければ、そちらへは渡せないそうです」
(第7話へ続く)




