傷を花に変えるベール
布が届かないなら、裁断台は動かせない。
朝から磨かれたままの裁断鋏が、台の端で冷たい光を返していた。いつもなら布を広げる音が絶えない仕立場も、今日はひどく広く感じられる。
けれど、私たちの手まで止める必要はなかった。
「先に、こちらを仕上げます」
私は棚に置かれた細長い箱を開いた。
中に収められていたのは、王太子妃が婚礼で身につけるベールだった。薄絹は柔らかく、息をかけただけでも揺れそうなほど軽い。裾には細い花模様が縫いつけられ、銀糸が朝の光を淡く返している。
ただし、運び込まれる前に留め金へ引っかかったらしく、腰から裾にかけて六か所も裂けていた。
箱から持ち上げると、裂け目がかすかに口を開いた。小さなものは指先ほど、大きなものは私の手の幅近くある。白い薄絹だけに、どの傷も遠目から分かってしまう。
本来なら、新しい布で作り直す予定だった品だ。
だが、その布は来ない。
「継ぎを当てれば、光の下で傷が浮きます」
三人の職人がベールを囲んだ。一人が唇を結び、もう一人は傷へ伸ばしかけた手を止める。婚礼の日に王太子妃が大勢の前を歩けば、燭台の光はあらゆる角度から薄絹を透かす。
「では、どうしますか」
「傷を隠すのではなく、飾りの位置にします」
私はベールを仕立台へ広げ、六つの裂け目を指で確かめた。破れた端を左右から寄せると、離れた場所に細い皺が走る。どれも布目に沿った傷ではない。無理に閉じれば、歩くたびにそこから引きつれる。
裾の花模様を一度ほどき、六つに分ける。裂け目の大きさに合わせて花と葉の形を変え、周囲の薄絹ごと支える。傷のない場所にも小さな葉を散らせば、腰から裾へ花が流れ落ちる意匠になる。
私は白糸を六か所へ仮に渡した。職人たちが一歩下がって眺めると、張り詰めていた顔がわずかにほどけた。
「これなら、傷が飾りの始まりになります」
ただし、私たちだけで決めてよいことではない。直せば、元のベールとは違うものになる。
私は王太子妃のもとへ伺い、ベールを広げた。
「裾飾りをほどき、裂け目の上へ移してもよろしいでしょうか。元の形には戻せなくなります」
王太子妃は六つの傷へ触れたあと、私が糸で示した花の位置を見た。指先が裂け目の一つで止まる。
「傷の位置を変えることはできないのね」
「はい。ですが、傷から形を決めることはできます」
しばらく沈黙が落ちた。やがて王太子妃は、腰の近くから裾へ斜めに続く白糸を目で追い、静かに頷いた。
「では、そうしてちょうだい。傷がなかったふりをするより、そのほうが好きだわ」
「承知いたしました」
許しを得て、私たちはすぐに持ち場へ戻った。
一人が裾飾りをほどき、一人が裂け目の端を整え、もう一人が薄絹と同じ細さの糸を選ぶ。私は花の形を布へ置き、引きつれない角度を三針で留めた。
針を通すたび、薄絹が指の腹を滑った。力を入れすぎれば新たな穴が開き、緩すぎれば花の重みで傷が広がる。糸を引く指先へ、布の張りが細く返ってくる。
六つの裂け目は大きさも向きも違う。同じ花を並べれば、かえって継ぎ当てに見える。小さな傷にはつぼみを、大きな傷には二枚重ねの花びらを置いた。花の芯で裂け目を受け、葉の茎で力を逃がしていく。
「次の花は、指半分だけ右へ」
「こちらの葉は下向きですか」
「ええ。王太子妃が歩いたとき、裾と同じ方向へ揺れるように」
私が位置を決めると、三人の針がそれぞれ動き出す。誰も同じ仕事を奪い合わず、自分の持ち場へ集中した。針先の小さな音だけが、静かな仕立場に続いた。
昼と夜で二人ずつ交代し、手を休める者と縫う者を入れ替える。私が決めた交代表では、日が沈んだあとに残るのは私を含めて二人だけだった。
「今夜のうちに終えたほうが安心ではありませんか」
交代時刻になっても席を立たない職人へ、公爵が尋ねた。
彼女は針を持ったまま頷いた。目の下には、昼にはなかった薄い影がある。
「あと少しなら働けます」
以前の工房なら、その言葉を聞いたセルジュは朝まで働けと命じただろう。終わるまで帰るなと言いながら、自分は明かりの消える前に工房を出ていた。
公爵は交代表を確かめ、首を横へ振った。
「働けるかではなく、エレノアがどう工程を組んだかを聞いています」
私は縫いかけの花と、残った糸の量を見た。ここで無理をすれば、明日の細かな始末で指が鈍る。
「今夜はここまでです。明朝からで間に合います」
私が答えると、公爵はすぐに帰りの馬車を呼んだ。
「では、予定どおり休んでください。明朝、同じ時刻に席を空けておきます」
職人はようやく針を置いた。その顔には、仕事を途中で残す不安と、帰ってよいのだという安堵が半分ずつ浮かんでいた。
公爵は私にも、温めた湯の入った器を示した。湯気の向こうから薬草のやわらかな香りがした。
「指を休めるため、ここへ置いてもよろしいですか」
「はい。助かります」
湯へ指先を浸すと、冷えてこわばっていた関節がほどけ、細かな震えがゆっくり消えていった。公爵は急げとも、もっと縫えとも言わない。私が決めた工程を、私以上に軽く扱わなかった。
仕事の腕を褒められるより、そのことのほうが深く胸へ残った。
それが嬉しくて、胸の奥まで温められたような気がした。
翌日の午後、最後の花びらを縫い留めた。
糸を切ると、三人の職人が同時に顔を上げた。
完成したベールには、六つの傷は残っている。だが、裂け目は花の芯に包まれ、そこから細い葉が裾へ流れていた。ベールを持ち上げても傷は開かず、光を受けるたび、花びらだけが淡く浮かぶ。
私は窓辺と燭台の前で一度ずつ透かし、表からも裏からも糸の緩みがないことを確かめた。それから王太子妃に被っていただき、櫛の位置を手で測って、背から裾までの落ち方を整えた。
「三歩、歩いていただけますか。次に、右を向いてください」
王太子妃が歩くと、花は一つずつ遅れて揺れた。最初の花が光を受け、その光が次の花へ移っていく。振り返っても櫛は引かれず、薄絹は肩に絡まない。
鏡の前で王太子妃はもう一度振り返った。今度は確かめるためではなく、揺れる花を見たいという笑みを浮かべていた。
「まるで、花が私のあとを追ってくるようね」
「重くはありませんか」
「いいえ。前より軽く感じるわ」
そのまま数歩進み、王太子妃は裾を踏むことなく立ち止まった。肩を動かし、首を左右へ傾けても、ベールは素直についていく。
「作り直さなくてよかった。私は、このベールで婚礼を迎えます」
仕立場にいた全員が息を吐いた。それまで聞こえなかった時計の音が、急に耳へ戻ってきた。
布が一反も届かない中で、私たちは婚礼衣装の一つを完成させたのだ。
その仕上がりを見届けた中に、昨日の旅装の公開仮縫いに来ていた四人の客がいた。
四人はそれぞれ侯爵家の旧工房へ普段着を一着ずつ注文していたという。だが、帰りに解約を告げ、預けていた布を引き取ってきた。
「動ける服を縫える者を盗人呼ばわりして、布まで届かなくする工房には任せられないわ」
一人が仕立台へ四つの包みを置いた。どれも一度は旧工房の棚へ収められた布だ。結び直された紐が、その家々の決断をはっきり示していた。
別の一人は、金貨十枚の入った小袋を掲げた。同じ袋が、あと三つあった。金貨の触れ合う乾いた音がする。
「前金も返してもらったわ。四着で残りの代金は金貨百二十枚。急げば縫えると言われたけれど、お断りしたの」
旧工房は一般注文四件、四着を失い、受け取っていた前金金貨四十枚も返したことになる。さらに、仕上げれば得られたはずの金貨百二十枚も入らない。
セルジュが何を言ったか、私は尋ねなかった。客が見て、着る服を任せられないと判断した。ただそれだけで十分だった。
私は四つの布包みをすぐには受け取らなかった。
「王家の十二着を仕上げるまで、新しい納期はお約束できません。それでもよろしければ、婚礼後に改めて採寸いたします」
「ええ。待つか、別の工房を選ぶかは、私たちで決めるわ」
「はい。それがよいと思います」
四人は布を持ち帰った。侯爵家を見限ったからといって、私の客になる義務はない。自分の肌へ触れる衣装を誰に任せるかは、着る人が選ぶことだ。
その背を見送る公爵は、引き留めも、先の予約を勧めもしなかった。私の返事を聞いて、静かに頷いただけだった。
夕刻、昨日の布商が再び訪れた。
今度は空の荷車さえなかった。仕立場へ入ってきた彼の靴には土がつき、息もまだ整っていない。
「今朝の三軒だけではありませんでした」
布商は額の汗を拭った。
「セルジュ様が、都に残っていた婚礼用の白絹十八反を、金貨二百七十枚で一括購入されました。来月入る分まで、すべて侯爵家へ納める約束です」
職人たちの顔から、完成を喜ぶ色が消えた。
十八反あれば、十二着を裁っても余る。金貨二百七十枚を払ってまで、必要以上の絹を抱え込む理由は一つしかない。セルジュは使うためではなく、私たちに使わせないために買ったのだ。
胸の奥に冷たいものが落ちた。けれど、裁断台の上では、傷から生まれた六つの花が夕日を受けていた。
布を止められても、誰へ何を頼むかまでセルジュには決められない。
私は完成したベールから針を抜き、針山へ戻した。
「明朝、三軒の織元を回ります」
私の声に、三人の職人が顔を上げた。公爵も理由を問わず、出発の時刻を確かめるように頷いた。
待っていても、絹は来ない。
ならば今度は私が、王太子妃の肌に触れさせられる布を、この手で探しに行く。
(第6話へ続く)




