三十二着は、動けば分かる
婚礼当日の内門には、三台の車が順に着いていた。
王宮車、新工房車、衣装係車。三十二個の箱は、開封順を示す布札の糸を確かめられ、三か所の着付け拠点へ運ばれていく。
磨かれた車輪が石畳を鳴らし、箱を抱えた職人たちが、決めておいた通路を足早に進む。朝の冷たい空気の中にも、糊と絹、それに新しい木箱の匂いが混じっていた。
その列から外れた荷車を、私は門前で見つけた。
「その箱は開けないでください」
運び手の手が止まる。
新工房の名を書いた札が結ばれている。墨の色も、札に使った布も同じに見えた。けれど、箱を押さえる麻の固定帯が違っていた。
本物は肩、腰、裾の三本。肩は左から右、腰は右から左、裾は中央で結ぶ。箱が傾いても衣装へ同じ方向の力がかからないよう、試し布へ白墨を打ち、水を掛けた石畳を三往復して決めた順だ。
目の前の箱は、三本とも右から左へ結ばれていた。
「札は同じだ!」
荷車の後ろからセルジュが声を上げた。その隣にはミレーヌがいる。二人とも婚礼の入場許可証を胸元へ下げていた。
「新工房の荷として届けに来ただけだ。エレノア、お前が忘れたのではないか」
私が毎朝、箱担当と一緒に締め方を確かめた帯だ。忘れるはずがない。
「箱の固定順を知っているのは、私と箱担当の職人だけです」
私は帯を切らず、結び目へ指を入れた。麻のけばが指先へ刺さる。新工房で使った帯より硬く、結び癖も浅かった。
「中を確かめます。立ち会っていただけますか」
王宮の衣装係が頷き、公爵も少し離れた位置に立った。公爵家の護衛四名は箱へ触れず、門を塞ぐだけに留まった。
帯を解き、蝋引き麻布と生成りの絹を順に上げる。
中には淡青色の上衣が入っていた。旧工房が完成済みとして渡そうとした、婚礼用外套の欠陥品だった。
見覚えのある縫い目を見た瞬間、胸の奥が冷えた。だが、怒りに任せて布を引けば、相手の望む騒ぎになる。
私は肩を裏返した。
「ここをご覧ください」
三本の糸が並んでいた。けれど、肩頂点、布目、腕のゆとりを定める位置にはない。ただ私の三針に似せ、襟側へ等間隔で刺してあるだけだった。
「三針は印ではありません。着る方が動いたあと、どこへゆとりを残すか決めるための仮留めです」
袖を持ち上げると、布目に逆らった肩が引きつれた。脇の縫い代まで斜めに引かれ、襟が指一本分浮く。三針を真似ても、身体に合わせて位置を決めなければ役目を果たさない。
ミレーヌの顔から血の気が引いた。
「それは一着だけでしょう。ほかの箱にも欠陥品が混じっているかもしれないわ!」
セルジュが内門の先を指した。
「三十二着すべてを脱がせろ。安全が確かめられるまで婚礼に使うべきではない!」
広間脇、奥の衣装室、祭壇近くの控室では、すでに着付けが始まっている。今から全員を脱がせれば、婚礼の開始には間に合わない。三十二着を疑わせ、婚礼そのものを止める。それが二人の狙いなのだと分かった。
誰も答えないうちに、奥の衣装室から王太子妃殿下が歩いてこられた。
修復したベールの裾で、銀糸の花が朝日を受けて光っている。
「私は脱ぎません」
静かな声だった。広間へ通じる廊下のざわめきが、その一言で消えた。
「この衣装で歩き、座り、腕を上げました。今日も着続けることを、私が選びます」
続いて、王太子妃殿下の従姉が進み出た。
「私もです。ただし、皆の前でもう一度試しましょう。エレノア・リースが何を確かめているのか、隠さずに」
三十二着目を着た老婦人も、誓いの品を胸の高さへ捧げ持った。
「この右肘でも持てるように仕立てていただきました。私も試します」
その声に、三十二人が一人ずつ意思を告げた。
着続けること。公開の場で、自分が選んだ動作をもう一度行うこと。
誰かに命じられたからではない。袖を通し、自分の身体で確かめた方々が、私たちの服を選んでくださった。その事実が、背中をまっすぐにしてくれた。
私は全員へ確認してから、広間の中央へ試験の場所を移した。
裏方に隠れて職人へ任せることもできた。欠陥品の肩を裂けば、偽物だともっと早く示せたかもしれない。
けれど、私はどちらも選ばなかった。
「欠陥品も壊さず、ここへ置いてください。違いは、動けば分かります」
私は淡青色の欠陥品を掛け棒へ掛け、その隣で試し布を肩へ当てた。
「まず肩頂点。次に布目。そして腕を動かすためのゆとり。この三か所を仮留めします」
三針を打ち、腕を前へ出してもらい、引かれた布だけを指でつまむ。三針の位置を直し、布目を撫で、袖山が身体についてくることを見せた。
針を刺すたびに説明は短くした。長い言葉より、上げた腕と、そこについていく布のほうが確かだった。
「同じ順で確かめます。異常を感じた方は、すぐに止まってください」
最初は王太子妃殿下だった。
六段の祭壇を想定して歩き、裳裾を返し、着席し、誓礼のために腕を上げる。乳白色の肌着は張りつかず、外衣の肩も上がらない。修復したベールの六か所には力が集まらず、銀糸の花が静かに揺れた。
「問題ありません」
殿下ご自身の声が広間へ響いた。
息を詰めていた職人たちの肩が、ほんの少し下がった。だが、まだ一着目だ。私は次の方へ向き直った。
大股で歩き、椅子へ座る。別の方が扇を拾い、腕を上げ、振り返る。
職人たちは袖、留め具、裾の三組に分かれ、私が示した順をそれぞれの持ち場で再現した。私は一着ずつ布目へ触れ、着用者へ苦しい場所がないか尋ねた。返事だけでなく、呼吸の深さと指先の動きまで見る。
十着。
二十着。
三十着。
数が進むほど、広間にあった疑いの沈黙は、確信の静けさへ変わっていった。誰もセルジュたちを見なくなった。視線は、動く衣装と、それを支える職人の手だけを追っていた。
三十二着目の老婦人が、右肘を震わせながら誓いの品を胸の高さまで持ち上げる。左より深く取った右袖山が、肘の動きを妨げずについていった。
「持てますよ」
老婦人はそう言って微笑み、品を下ろすまで自分の腕で支えた。
三十二着すべてが、選ばれた動作に耐えた。
開始を告げる鐘が鳴る。
衣装係が扉を開き、王太子妃殿下を先頭に三十二人が婚礼の列へ入っていった。一着も脱がされず、一着も歪まず、私たちの仕事は予定どおり婚礼へ送り出された。
扉の向こうへ銀糸の花が消えた途端、袖組の若い職人が唇を結んだまま涙を拭った。私はその背を一度だけ撫でた。喜ぶのは、最後の確認を終えてからでいい。
セルジュとミレーヌだけが、閉じた扉の外に残った。
王宮の役人が二人の胸元から入場許可証を外す。
「虚偽の札を付けた衣装箱を持ち込んだため、許可証二枚を取り上げます。お二人の客席もありません」
二席分として納められた金貨八枚も返還されないと告げられた。三十二着を止めるつもりで持ち込んだ一箱によって、二人は金貨八枚と許可証二枚、そして婚礼の客席二席を失った。
係の者が客席から二脚を運び出した。床に残った四つの脚跡も、布で拭われて消えた。
「エレノア!」
セルジュに呼ばれたが、私は振り返らなかった。掛け棒に残した欠陥品へ覆いを掛け、使った針を数え、職人たちの手に傷がないか確かめる。
二人を許すつもりはない。助けるつもりも、追いかけて仕返しをするつもりもなかった。今日の衣装を見た人々が、誰へ次の一着を頼むか決める。それで十分だった。
仕事が終わるまで、私には答えるべきものがあった。
公爵は、私の隣で急かさずに待っていた。
「先ほどの私的な問いは、今でなくて構いません」
「申し訳ありません。まだ、送り出したあとの確認が残っています」
「ええ。あなたが仕事を終えるまで待ちます」
その言葉に、胸が小さく高鳴った。私の手際だけでなく、私が仕事をどんな順で終えるのかまで見て、待つと言ってくれた。
それでも私は先に、三十二本の着付け位置札から色糸の輪を外した。
最後の一本を外したとき、内門の外から一枚の刷り物が届けられた。
そこにはセルジュの名も、ミレーヌの名もなかった。
別の名を掲げた仕立場が、翌朝から一卓で注文を受けると記されていた。
二人は、明日、新しい名で仕立場を開くつもりだった。
(第38話へ続く)




