↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/38

三十二着は、動けば分かる

 婚礼当日の内門には、三台の車が順に着いていた。


 王宮車、新工房車、衣装係車。三十二個の箱は、開封順を示す布札の糸を確かめられ、三か所の着付け拠点へ運ばれていく。


 磨かれた車輪が石畳を鳴らし、箱を抱えた職人たちが、決めておいた通路を足早に進む。朝の冷たい空気の中にも、糊と絹、それに新しい木箱の匂いが混じっていた。


 その列から外れた荷車を、私は門前で見つけた。


「その箱は開けないでください」


 運び手の手が止まる。


 新工房の名を書いた札が結ばれている。墨の色も、札に使った布も同じに見えた。けれど、箱を押さえる麻の固定帯が違っていた。


 本物は肩、腰、裾の三本。肩は左から右、腰は右から左、裾は中央で結ぶ。箱が傾いても衣装へ同じ方向の力がかからないよう、試し布へ白墨を打ち、水を掛けた石畳を三往復して決めた順だ。


 目の前の箱は、三本とも右から左へ結ばれていた。


「札は同じだ!」


 荷車の後ろからセルジュが声を上げた。その隣にはミレーヌがいる。二人とも婚礼の入場許可証を胸元へ下げていた。


「新工房の荷として届けに来ただけだ。エレノア、お前が忘れたのではないか」


 私が毎朝、箱担当と一緒に締め方を確かめた帯だ。忘れるはずがない。


「箱の固定順を知っているのは、私と箱担当の職人だけです」


 私は帯を切らず、結び目へ指を入れた。麻のけばが指先へ刺さる。新工房で使った帯より硬く、結び癖も浅かった。


「中を確かめます。立ち会っていただけますか」


 王宮の衣装係が頷き、公爵も少し離れた位置に立った。公爵家の護衛四名は箱へ触れず、門を塞ぐだけに留まった。


 帯を解き、蝋引き麻布と生成りの絹を順に上げる。


 中には淡青色の上衣が入っていた。旧工房が完成済みとして渡そうとした、婚礼用外套の欠陥品だった。


 見覚えのある縫い目を見た瞬間、胸の奥が冷えた。だが、怒りに任せて布を引けば、相手の望む騒ぎになる。


 私は肩を裏返した。


「ここをご覧ください」


 三本の糸が並んでいた。けれど、肩頂点、布目、腕のゆとりを定める位置にはない。ただ私の三針に似せ、襟側へ等間隔で刺してあるだけだった。


「三針は印ではありません。着る方が動いたあと、どこへゆとりを残すか決めるための仮留めです」


 袖を持ち上げると、布目に逆らった肩が引きつれた。脇の縫い代まで斜めに引かれ、襟が指一本分浮く。三針を真似ても、身体に合わせて位置を決めなければ役目を果たさない。


 ミレーヌの顔から血の気が引いた。


「それは一着だけでしょう。ほかの箱にも欠陥品が混じっているかもしれないわ!」


 セルジュが内門の先を指した。


「三十二着すべてを脱がせろ。安全が確かめられるまで婚礼に使うべきではない!」


 広間脇、奥の衣装室、祭壇近くの控室では、すでに着付けが始まっている。今から全員を脱がせれば、婚礼の開始には間に合わない。三十二着を疑わせ、婚礼そのものを止める。それが二人の狙いなのだと分かった。


 誰も答えないうちに、奥の衣装室から王太子妃殿下が歩いてこられた。


 修復したベールの裾で、銀糸の花が朝日を受けて光っている。


「私は脱ぎません」


 静かな声だった。広間へ通じる廊下のざわめきが、その一言で消えた。


「この衣装で歩き、座り、腕を上げました。今日も着続けることを、私が選びます」


 続いて、王太子妃殿下の従姉が進み出た。


「私もです。ただし、皆の前でもう一度試しましょう。エレノア・リースが何を確かめているのか、隠さずに」


 三十二着目を着た老婦人も、誓いの品を胸の高さへ捧げ持った。


「この右肘でも持てるように仕立てていただきました。私も試します」


 その声に、三十二人が一人ずつ意思を告げた。


 着続けること。公開の場で、自分が選んだ動作をもう一度行うこと。


 誰かに命じられたからではない。袖を通し、自分の身体で確かめた方々が、私たちの服を選んでくださった。その事実が、背中をまっすぐにしてくれた。


 私は全員へ確認してから、広間の中央へ試験の場所を移した。


 裏方に隠れて職人へ任せることもできた。欠陥品の肩を裂けば、偽物だともっと早く示せたかもしれない。


 けれど、私はどちらも選ばなかった。


「欠陥品も壊さず、ここへ置いてください。違いは、動けば分かります」


 私は淡青色の欠陥品を掛け棒へ掛け、その隣で試し布を肩へ当てた。


「まず肩頂点。次に布目。そして腕を動かすためのゆとり。この三か所を仮留めします」


 三針を打ち、腕を前へ出してもらい、引かれた布だけを指でつまむ。三針の位置を直し、布目を撫で、袖山が身体についてくることを見せた。


 針を刺すたびに説明は短くした。長い言葉より、上げた腕と、そこについていく布のほうが確かだった。


「同じ順で確かめます。異常を感じた方は、すぐに止まってください」


 最初は王太子妃殿下だった。


 六段の祭壇を想定して歩き、裳裾を返し、着席し、誓礼のために腕を上げる。乳白色の肌着は張りつかず、外衣の肩も上がらない。修復したベールの六か所には力が集まらず、銀糸の花が静かに揺れた。


「問題ありません」


 殿下ご自身の声が広間へ響いた。


 息を詰めていた職人たちの肩が、ほんの少し下がった。だが、まだ一着目だ。私は次の方へ向き直った。


 大股で歩き、椅子へ座る。別の方が扇を拾い、腕を上げ、振り返る。


 職人たちは袖、留め具、裾の三組に分かれ、私が示した順をそれぞれの持ち場で再現した。私は一着ずつ布目へ触れ、着用者へ苦しい場所がないか尋ねた。返事だけでなく、呼吸の深さと指先の動きまで見る。


 十着。


 二十着。


 三十着。


 数が進むほど、広間にあった疑いの沈黙は、確信の静けさへ変わっていった。誰もセルジュたちを見なくなった。視線は、動く衣装と、それを支える職人の手だけを追っていた。


 三十二着目の老婦人が、右肘を震わせながら誓いの品を胸の高さまで持ち上げる。左より深く取った右袖山が、肘の動きを妨げずについていった。


「持てますよ」


 老婦人はそう言って微笑み、品を下ろすまで自分の腕で支えた。


 三十二着すべてが、選ばれた動作に耐えた。


 開始を告げる鐘が鳴る。


 衣装係が扉を開き、王太子妃殿下を先頭に三十二人が婚礼の列へ入っていった。一着も脱がされず、一着も歪まず、私たちの仕事は予定どおり婚礼へ送り出された。


 扉の向こうへ銀糸の花が消えた途端、袖組の若い職人が唇を結んだまま涙を拭った。私はその背を一度だけ撫でた。喜ぶのは、最後の確認を終えてからでいい。


 セルジュとミレーヌだけが、閉じた扉の外に残った。


 王宮の役人が二人の胸元から入場許可証を外す。


「虚偽の札を付けた衣装箱を持ち込んだため、許可証二枚を取り上げます。お二人の客席もありません」


 二席分として納められた金貨八枚も返還されないと告げられた。三十二着を止めるつもりで持ち込んだ一箱によって、二人は金貨八枚と許可証二枚、そして婚礼の客席二席を失った。


 係の者が客席から二脚を運び出した。床に残った四つの脚跡も、布で拭われて消えた。


「エレノア!」


 セルジュに呼ばれたが、私は振り返らなかった。掛け棒に残した欠陥品へ覆いを掛け、使った針を数え、職人たちの手に傷がないか確かめる。


 二人を許すつもりはない。助けるつもりも、追いかけて仕返しをするつもりもなかった。今日の衣装を見た人々が、誰へ次の一着を頼むか決める。それで十分だった。


 仕事が終わるまで、私には答えるべきものがあった。


 公爵は、私の隣で急かさずに待っていた。


「先ほどの私的な問いは、今でなくて構いません」


「申し訳ありません。まだ、送り出したあとの確認が残っています」


「ええ。あなたが仕事を終えるまで待ちます」


 その言葉に、胸が小さく高鳴った。私の手際だけでなく、私が仕事をどんな順で終えるのかまで見て、待つと言ってくれた。


 それでも私は先に、三十二本の着付け位置札から色糸の輪を外した。


 最後の一本を外したとき、内門の外から一枚の刷り物が届けられた。


 そこにはセルジュの名も、ミレーヌの名もなかった。


 別の名を掲げた仕立場が、翌朝から一卓で注文を受けると記されていた。


 二人は、明日、新しい名で仕立場を開くつもりだった。


(第38話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。