三十二着の最終稽古
最終稽古の日、三十二着の衣装が王宮の広間に並んだ。
一列十六着。それが二列。磨き上げられた床に裾が触れない高さで掛けられ、衣装係が箱から出された順と、着付け位置札の糸輪を確かめている。
窓から差す朝の光が、布の織り目を一着ずつ浮かび上がらせていた。新しい布と、仕上げに使った蒸気の匂いがする。
けれど、今日確かめるのは並び方でも、光の下での美しさでもない。
「決められた動作を、同じ順でする必要はありません」
私は三十二人の着用者へ告げた。
「婚礼の日、ご自分が実際にすると思う動きを選んでください。歩く、座る、腕を上げる、振り返る。ほかにも必要な動きがあれば、それを試してください」
衣装に人を合わせるのではない。人が選んだ動きに、衣装がついてこられるかを見る。
広間の端には、各部を受け持った職人たちが並んでいた。誰も私の顔を見ていない。自分が縫った袖や襟、裾だけを、息を詰めて見つめている。
最初に進み出た王太子妃の従姉は、裾を払わず、大股で五歩進んだ。そのまま急に振り返り、わざと床へ落とした扇を拾う。
衣擦れが短く鳴った。
袖口は引かれず、肩線も動かなかった。裾は靴先を避け、波打ちながら元の位置へ戻る。
「前より軽いわ」
ご本人が驚いたように肩を回した。
「布を減らしたのではありません。動いたときだけ開く分を、脇へ残しました」
私は背の縫い目を指でなぞった。歪みはない。ただ、扇を拾ったとき、襟の右側が爪の幅ほど浮いた。
「襟だけ、もう一度触れてもよろしいでしょうか」
許しをいただいてから、留めを半針分だけ内へ移した。ほんのわずかな違いでも、首元に触れる布は着る者に一日中ついて回る。見逃す理由にはならない。
もう一度同じ動きをしていただく。今度は襟が肌の動きに沿い、浮かなかった。
「ええ。これなら気にならないわ」
その一言を聞いて、私は次の方へ合図した。
二人目は着席を選んだ。背もたれへ深く身を預けてから立ち上がる。三人目は両腕を高く上げた。四人目は、誰かに呼び止められたときのように上半身だけを素早くひねった。
布が張る場所、余る場所、呼吸に合わせて上下する場所を、私は目で追った。採寸した数字ではなく、その数字を取ったときの身体を思い出す。肩の高さも、腰の傾きも、一人として同じではない。
五人目は小走りをした。
「婚礼で走る予定はありませんけれど、遅れそうになったら、きっと走ります」
広間に笑いが広がった。張り詰めていた職人たちの肩も少し下がる。
私も頷いた。
「では、それが必要な動きです」
衣装の裾は大きく乱れたが、踏まれなかった。腰の飾りも傾かない。立ち止まったときには、重りが裾を引いて形を戻した。
担当した職人が長く息を吐き、隣の職人と小さく拳を合わせた。針を持つ指同士が、こつりと触れた。
三十二着は、私一人が縫ったものではない。
細かな曲線を得意とする者は袖山を受け持ち、長い直線を崩さず縫える者は裳裾を担った。留め具、襟、裏地。それぞれが自分で選んだ持ち場を、同じ手順で仕上げた。
私は手で採寸し、布目を読んで裁ち、納期から逆算して職人を配置した。遅れが出そうな持ち場とはその日のうちに話し合い、別の手を足した。そうしてつないだ仕事が、今、三十二人の身体の上で動いている。
私は動く身体を見て、直す場所を決める。その直しも、できる限り担当した職人の手へ返した。
「左脇を一針だけ浅く」
「はい」
「こちらは裾の重りを指一本分、後ろへ」
「やってみます」
命じられた通りに縫う声ではなかった。自分の仕事を確かめる声だった。
糸を抜き、針を通し直す手に迷いはない。直し終えた職人は、着用者の動きを自分の目で確かめてから、ようやく頷いた。
老婦人の番になると、祭壇で誓いの品を捧げ持つ動作を選ばれた。
両腕が胸の高さまで上がる。右肘が、かすかに震えた。
私は右袖山を見つめた。左より深く取った曲線が、震えを押さえ込まずに受け止めている。肩は上がらず、袖口も落ちない。
「もう少し長く、このままでもよろしいですか」
「ええ。婚礼の日には、今日より長く持つでしょうから」
老婦人は誓いの品を捧げた姿勢のまま、ゆっくり十まで数えた。
広間から音が消えたようだった。私には布のこすれる音と、職人たちが息をする気配だけが聞こえた。
十を数え終えた老婦人は腕を下ろし、右袖を撫でた。
「震えても、衣装に叱られないのね」
その言葉に、右袖山を縫った職人が俯いた。泣いたのではない。針目を確かめるときの顔だった。それでも、固く結んだ口元は少し震えていた。
「はい。お身体の動きを隠すための袖ではありませんから」
私は袖裏を確かめ、最後に残していた色糸の輪を外した。細い糸が指先から離れた瞬間、この一着も私たちの手を離れ、着る方のものになったのだと思った。
三十二人目の動作が終わるまで、肩が歪んだ衣装は一着もなかった。布目がねじれた衣装も、腕を上げて裂けた袖も、座って息を詰まらせた着用者もいない。
襟の留めを半針、裾の重りを指一本、飾り紐の支えを二か所。
直したのは、それだけだった。
私は三十二着をもう一度掛け棒へ戻し、端から順に見た。三十二人が自分で選んだ動きを受け止めた衣装が、静かに並んでいる。
ただ美しく掛かっている衣装ではない。歩き、座り、腕を上げ、走り、震える腕を支えた衣装だ。
「最終調整を終えます」
口にした途端、広間のあちこちで、職人たちの息が一斉にほどけた。
王太子妃はご自分の袖を動かし、肩を確かめてからおっしゃった。
「これなら、当日も私たちが衣装を選んだと言えます。衣装に動きを選ばされたのではなく」
私は深く礼をした。
名前を掲げるより、その言葉の方がうれしかった。私たちの針目が正しかったことを、着る方の身体が答えてくださったのだから。
稽古のあと、王宮の衣装係から、十八枚の意匠画についての決定が伝えられた。
これまでミレーヌ考案として飾られていた十八意匠。その評価は、すべて取り消された。
端布に残った裁断順、抜き取られた三針の糸、爪で伸ばされた仮縫い穴。そして、同じ工程を職人が再現し、着用者が実際に動いた結果が揃ったためだった。
十八枚の額は展示壁から外された。金具が外れる乾いた音が、広間の壁に一度ずつ響く。額は裏返され、紐でまとめられて運び出された。
私はそれを見送ったが、自分の名へ掛け替えてほしいとは頼まなかった。
私が欲しかったのは、動ける衣装を作る仕事だ。ミレーヌの名が剥がれた壁ではない。
その日の午後には、王都の布商三店がそれぞれ店先の帳面から、セルジュとミレーヌの名を消した。
一店目は、後払いではなく現金でも売らないと断った。
二店目は、残っていた見本布を引き上げた。
三店目は、使いの者が差し出した注文札を受け取らず、扉を閉めた。
三店で止まった注文は合わせて十二件、布は九十六反、取引額は金貨四百八十枚。旧工房で布の選定と受け取りを担っていた六人も、翌日から仕事を失った。
三店とも理由は同じだった。
「布を正しく使う者へ売る。作り手の名も工程も偽る相手には、一反も渡せない」
セルジュとミレーヌが失ったのは、値引きでも信用払いでもない。布を買う取引そのものだった。
私は口添えをしなかった。困っている六人を新工房へ誘うこともしなかった。誰がどこで働くかは、その人自身が見定めて決めることだ。旧工房を救う義理も、私にはなかった。
夕刻、私は新工房へ戻り、婚礼当日に使う針を一本ずつ磨いた。
細い布で針先を挟み、光へ向ける。曇りも曲がりもないことを確かめてから、針箱へ戻す。
公爵は仕立台の向かい側に立っていたが、私が最後の一本を針箱へ戻すまで口を挟まなかった。
「セルジュとミレーヌには、王宮から確認が行われます」
「十八意匠のことですね」
「それだけではありません。三十二着の安全性を訴えると言っている以上、何を根拠にしたのか、本人たちへ問わねばならない」
公爵はそこで言葉を切った。
「対面の場に、あなたも同席しますか」
守るから離れていろとも、証言のために来いとも言わない。私が選ぶのを待っている。
私は母から譲られた裁ち鋏へ布を掛け、針箱の蓋を閉じた。
以前なら、二人の前へ出れば、また私の椅子も仕事も取り上げられるような気がしたかもしれない。声を出しても、最初からなかったことにされると思ったかもしれない。
けれど、今は違う。
三十二着は動いた。職人たちは自分の席で縫った。十八の意匠から偽りの名が外れても、私の手に残った技術は何一つ減らない。
「同席します」
私は答えた。
「二人を責めるためではありません。私が縫ったものと、縫っていないものを、自分の目の前で分けるために」
「分かりました。では、あなたの隣に席を用意します」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
与えられる席ではない。私が行くと決めた場所に、用意される席だ。
公爵はそれ以上、何も言わなかった。ただ私が閉じた針箱を一度見てから、まっすぐ私を見た。その眼差しには、守られるだけの仕立屋へ向けるものではない熱があった。
私も目を逸らさなかった。
けれど、その対面は予定どおりには始まらなかった。
翌朝、王宮の内門から衣装係が新工房へ駆け込んできた。
扉が壁へぶつかり、職人たちがいっせいに顔を上げる。衣装係は息を切らし、握りしめた帽子を胸へ押しつけていた。
「旧工房の印が削られた衣装箱が、婚礼会場へ向かっています!」
差し押さえを免れて旧工房に残っていた欠陥品を、セルジュとミレーヌが荷車へ積んだのだという。
箱には、新工房の品だと偽る札が結ばれていた。
そして二人は、そのまま婚礼会場へ持ち込もうとしていた。
(第37話へ続く)




