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三つの針箱

 賃金の日は、朝から雨だった。


 三日前に布商から聞いた日付を、私は誰にも言わなかった。旧工房の帳場を数えるのは私の仕事ではない。私の仕事は、婚礼当日に袖、留め具、裾の三組へ分かれる職人の割り当てを、もう一度指でなぞって確かめることだった。表の上で、指は三度、同じ場所で止まった。控えの手が、一組に一人ずつ足りない。


 夕刻、雨が上がる前に、裏戸が叩かれた。


 三人だった。年配の裁ち手の男、私より少し年上の針子の女、まだ糸切りの仕事が多い若い職人。三人とも、自分の針箱を抱えていた。旧工房の備品ではない。職人が自分の金で揃えた、自分の箱だ。箱の角だけが、雨に濡れていなかった。外套の内側に抱えて歩いてきたのだと分かった。


「今日、辞めてきました」


 裁ち手が言った。声は低く、雨に濡れた肩を拭おうともしなかった。


「賃金が、払われませんでした。三人分、溜まった分を合わせて金貨七十枚。帳場には一枚もないと、セルジュ様が仰いました。婚礼が終われば払う、と」


 婚礼が終わっても、旧工房には注文がない。織機もない。払える日は来ない。それを、この三人は帳場の者より先に、自分の手で分かっていた。


 私は三人を仕立台の脇へ座らせた。椅子は三つ、余っていた。三十二着目を組み上げた日から、参列者用の最終調整が終わるまで、仕立台の一つを空けてあったからだ。空けた理由を、私はまだ誰にも言っていなかった。


「一人ずつ、聞かせてください」


 裁ち手から始めた。三年前から、旧工房の裁断はこの人がほとんど一人で受け持っていた。私が引いた線を、この人が裁っていた。私の線が曲がった日は一度もなかったが、この人の鋏が線を外れた日も、一度もなかった。


「なぜ、今日まで残ったのですか」


「裁ち手が抜ければ、残った針子が布を裁つことになります。慣れない手で絹を裁てば、布を駄目にする。それが嫌でした」


「今日、辞めた理由は」


「裁つ布が、もうないからです」


 針子の女は、七名が辞めた後も、十名が辞めた後も残った理由を、こう言った。娘が二人いる。先の見えない仕事でも、日々の賃金が入るなら、と。そして三か月あまり、賃金は入らなかった。膝の上で組んだ指の、針を持つ側の爪だけが短く切られていた。


 若い職人は、辞めた理由を聞かれて、少しの間黙った。


「僕が最後の一人になるのが、怖かっただけです」


 正直な答えだった。三人とも、旧工房を憎んで出てきたのではない。旧工房が、三人に払う物を失っただけだ。


 私は三人の顔を順に見た。


「戻る義務はありません。侯爵家が賃金を払えるようになる日を待つ義務も、あの工房を立て直す義務も、あなたたちにはない」


 裁ち手が、わずかに顎を引いた。


「そして、ここへ来る義務もありません。私は、あなたたちを旧工房から引き抜きに行ったことは一度もない。今日も同じです。行き場がないから来るのなら、それは席ではなく、雨宿りです。雨宿りなら、今夜だけ貸します」


 針子の女が、泣きそうな顔で笑った。


「席が欲しいなら、明日の朝、もう一度ここへ来てください。今夜は帰って、自分の針箱を開けて、自分の針を見て、決めてください」


 三人が帰ったあと、私は空いた仕立台の前に立った。雨は上がっていた。窓から入る光が、台の上に薄く延びている。


 裏戸の外に、もう一人の気配があった。


「入ってください。もう、終わりました」


 公爵だった。内門での開封手順について、衣装係からの確認事項を持ってきたのだという。あなたは三人が来ている間、ずっと外にいたのですか、と私は聞いた。


「あなたの仕立場です。私が中にいれば、三人はあなたにではなく、公爵家に返事をしてしまう」


 濡れた外套の裾を絞りながら、公爵は言った。軒下に立っていたにしては、肩から袖まで濡れていた。軒は狭い。


「採用しろとは言いません。断れとも言いません。それは、あなたが人を見て決めることです。私が決めるのは、ここに三つの席を足す金を出すかどうかだけで、それは、もう出すと決めています」


「三人分の賃金と、道具の代金です。安くはありません」


「当日は袖、留め具、裾で三組。あなたが組んだ割り当ての表を、私も見ました。三組とも、控えの手が一人ずつ足りていない」


 その通りだった。私が誰にも言わなかった数を、公爵は表から読み取っていた。


「足りない三人を、あなたがどこから連れてくるかは、私が口を出すことではありません。ただ、あなたが決めたなら、その決定は私が支えます」


 胸の奥で、針を持つ手とは別のところが、少し熱くなった。仕事と切り離す、と私が出した条件を、この方は今日も守っている。守りながら、私が数えていた数を、同じ場所で数えていた。雨の中で、何も言わずに。


「ありがとうございます。明日の朝、三人が来たら、席を作ります」


 翌朝、三人は来た。


 裏戸が叩かれた音は、昨日より短かった。迷いのない叩き方だった。


 私は一人ずつ、手を見せてもらった。裁ち手の右手は、親指の付け根が硬く盛り上がっていた。大きな鋏を長く握った手だ。仕立台は腰より少し低く、鋏を引く方向へ窓の光が入る位置に据えた。刃の影が線に落ちないように。


 針子の女は、細い針を短く持つ。針目が細かく、速い。台は高く、椅子は背もたれなし。腰を浮かせて縫う癖に合わせた。


 若い職人は、まだ得意な針幅が定まっていない。だから、台の高さを後で変えられるよう、脚に楔を噛ませた。


「これは、まだ仮の席です。あなたの手が決まったら、本縫いにします」


 若い職人は、初めて笑った。


 昼までに、三席が整った。三人がそれぞれの台に座り、自分の針箱を開いた。三つの箱が同時に開く音を、私は聞いた。木の蓋が擦れる、乾いた小さな音。旧工房の離職者は、これで累計十三名になる。あの工房には、もう布を裁つ手も、縫う手も、織る機もない。それを数えるのは私の仕事ではない。けれど、この三つの席を作ったのは、私の仕事だった。


 夕方、裁ち手が私のところへ来て、針箱の底から油紙の包みを取り出した。


「辞める日に、持ち出しました。侯爵家の物ではありません。屑箱に捨てられた物です」


 仕立台に置かれた包みを開くと、絹の端布が束になっていた。三十二着分を一括で裁ったときに切り落とされた布端。それぞれに、裁ち手の手で小さな番号札が糸で結ばれている。札の糸は、どれも同じ結び方だった。


「布目に逆らって裁てと言われたのは、あの一回きりです。気持ちが悪くて、切り落とした端を、裁った順に取っておきました」


 針子の女も、自分の箱から小さな包みを出した。仮縫いから抜き取った、三針分の形のまま撚れた糸の束。


「ミレーヌ様に、仮縫いの跡を消せと言われました。糸を抜いて、穴を爪で伸ばして。でも、伸ばしても穴は残りました。消したと申し上げて、抜いた糸の方を、捨てられなくて」


 若い職人は、二人の布端と糸を見ながら、小さく言った。


「僕は、この二人が何を隠しているか、ずっと知っていました。それで、最後の一人になるのが怖かったんです」


 私は布端の束に手を置いた。開かなかった。番号札が指に触れた。裁った順に並んだ、三十二着分の証だった。誰の帳場にも載らず、屑箱から拾われて、ここまで運ばれてきた。


「これを開くのは、着る方の許しをいただいてからです。明日、王宮へ行きます」


(第35話へ続く)

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