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動く前で止まった線

 王宮の広間脇に設けられた仮の着付け場で、私は針箱の上から粗い紙を取り上げた。


 衝立で仕切っただけの狭い場所で、床には裁ち屑を受ける布が敷いてある。肩から胸への基準線、袖ぐりの曲線。隅には「侯爵家 ミレーヌ考案」の印。市場で一枚銀貨三枚で売られていた型紙だ。指で触れると、紙の目がざらりと粗い。線は太く、迷いのない筆で引かれている。迷いがないのは、身体を見ずに引いたからだ。


 最終調整のために最初に来てくださったのは、王太子妃の従姉にあたる若い方だった。私は仕上がった礼装を出す前に、まずこの紙を広げた。


「市場でこれが、王太子妃の婚礼衣装と同じ袖型として売られています。同じ線なら安い方でよい、とお考えになる方がいても不思議ではありません。使うかどうかは、あなたが決めてください」


「決めろと言われても、紙を見ただけでは……」


「ですから、動いていただきます」


 試し布は、朝のうちに工房で裁ってきた。この紙の線をそのまま写し、修正線を一本も足さず、粗い麻で袖と身頃だけを組んだものだ。針子たちには、私の線を一本も混ぜないでほしいと頼んだ。若い針子が「本当に、このまま縫うんですか」と聞き返したのを覚えている。本当にそのままでいい、と私は答えた。正直な布が要るのだ。


 着用者は試し布に袖を通し、大股で歩き、椅子に座り、扇を拾う真似をした。麻の擦れる乾いた音が、石の壁に小さく返る。四つ目の動作で腕を上げたとき、肩の後ろから袖山へ向かって、布が斜めにねじれた。


「引っ張られます。ここが」


 指したのは、右の肩甲骨の下だった。


 私は息を詰めた。同じだ。侯爵家の仕立場で王太子妃の袖を三針で直した朝と、まったく同じ位置に、同じ向きの歪みが出ている。三十二着へ連鎖したあの袖の歪みは、偶然ではなく、この線から生まれていた。あのとき私は、誰かの手が滑ったのだと思っていた。手ではなかった。線だった。


「動く前に決めた線は、動いたあとの身体に合いません。この紙は、動く前で止まっています」


 着用者は試し布を脱ぎ、私が仕立てた礼装に袖を通した。同じ四つの動作。腕を上げても、肩の後ろは静かなままだった。絹が腕の動きに半拍遅れてついてきて、袖山の丸みが崩れない。着用者は自分の肩を、もう一度確かめるように回した。


「紙は結構です。こちらを着ます」


 その日、王太子妃を含む三十二人の着用者が、入れ替わりで同じ試しをした。試し布は誰が着ても同じ位置で、同じ向きにねじれた。背の高い方も、小柄な方も、腕の太い方も細い方も。ねじれの大きさは違っても、向きは一度も変わらなかった。紙を使うと答えた方は、一人もいなかった。


 王太子妃は試し布を脱いだあと、私の顔をじっと見て、それから小さく頷いた。あの朝の三針を、この方も覚えている。言葉はなかった。要らなかった。


 着用者が一人帰るたび、私は着付け位置の札に糸の輪を一つ足していった。札は掌ほどの布で、縫い目のそばに輪を通す穴を空けてある。


 三か所の拠点のどこで、どの向きに立ち、袖の組、留め具の組、裾の組がどの順で手を入れるか。箱番号は開封順、布札の糸の本数もまた開封順を示す。私はそれに、着付け位置を結びつけた。


 三番目に開く箱の衣装は、広間脇の三番目の位置で着ける。順が一つでもずれていれば、固定帯を解く前に手を止める。帯の結び順は私と箱担当の職人しか知らないから、誰かが箱を入れ替えても、帯の向きで分かる。


 三十二人目の老婦人の位置は、祭壇近くの控室で、扉にいちばん近い場所にした。誓いの品を捧げ持つ腕が震えないよう、立って待つ時間を最も短くするためだ。採寸のとき、あの方の手首は私の親指と中指で輪を作れるほど細かった。その手首に重い品を持たせるのだから、待たせる時間は一呼吸でも短い方がいい。


 最後の糸の輪を結び終えたとき、札は三十二枚になっていた。三十二人分の着付け位置が、すべて決まった。指先に糸の細い跡が残っていた。悪くない痛みだった。


 公爵は昼過ぎから、王宮の内門で待っていた。


「動線を確かめるとうかがいました。私に何をさせますか」


「着用者の代わりに歩いていただきます。私の指示のとおりに」


「はい。今日の私は、あなたの職人の一人です」


 内門から広間脇まで、公爵は私の言うとおりに歩いた。右へ二歩。ここで止まる。扉の縁に袖が触れないよう、半歩だけ体を斜めに。


 公爵は一度も先回りをしなかった。私が「止まって」と言えば、その足で止まる。歩幅は、私の歩幅に合わせて刻まれていた。数えると、内門から広間脇まで百十二歩。奥の衣装室まで百四十歩。祭壇近くの控室までは、細い廊下を通って九十八歩。


 細い廊下で、公爵の外套の袖が壁の飾り金具に触れた。かすかな音がした。


「今のところです。裾の長い方は、ここで引っかかります」


「では、この金具の前で、私は内側へ寄ります」


「そうしてください」


 公爵は言われたとおり内側へ寄り、廊下の幅を身体で測るように、もう一度同じ場所を通った。今度は音がしなかった。廊下の窓から差す午後の光が、公爵の外套の裾を短く照らして、通り過ぎた。


 私は気づいていた。この方は、私が次の指示を考えている間、決して判断を急かさない。正しい針幅を待つ職人と同じ間の取り方だ。仕事の外で交わした約束を、仕事の中には一度も持ち込まなかった。


 それが、うれしかった。婚礼のあとの約束よりも、今この廊下で私の歩幅に合わせてくれる足音の方が、胸に近いところで鳴っている。針を持つ手で数えられるものだけを、私は信じてきた。この足音は、数えられる。


「三か所とも、確かめました」


「ありがとうございます。あなたの指示は分かりやすかった」


「職人の一人として、合格です」


 私がそう言うと、公爵は少し驚いた顔をして、それから短く笑った。笑ったところを見たのは、これが初めてだったかもしれない。私も笑った。廊下の金具が、もう一度だけ小さく光った気がした。


 工房へ戻ると、絹を納めに来た布商が待っていた。反物を仕立台の端に置き、包みを解く前に、まずそれを言った。


「侯爵家の織り場から、織機が運び出されました。六台まとめて、金貨二百四十枚。買ったのは川向こうの織物商です」


「返済は八百枚のはずです。二百四十枚では届きません」


「届きません。それでも、もう他に売る物がないのだそうです」


 織機がなければ布は織れない。布が織れなければ、注文を受けても仕立てられない。旧工房は王家御用達を失い、貴族の客を失い、融資を失い、今日、布を作る手段まで手放した。私はあの織り場の織機の音を知っている。六台が一斉に動くと、床板が低く鳴った。その音は、もう鳴らない。


 私は三十二枚の札を仕立台に並べた。旧工房の帳場を数えるのは、私の仕事ではない。私の仕事は、この三十二人を、決めた位置で、決めた順に着せることだ。


 布商は帰り際に、声を落として付け加えた。


 織機の代金二百四十枚は、その場で全額が融資元へ渡った。旧工房の帳場に、金は一枚も残っていない。三日後が、残った三名の職人へ賃金を払う日だという。


 空になった織り場で、三名分の賃金を待つ手がある。


 私は答えなかった。ただ、支払われない賃金の重さだけは、針を持つ手が知っていた。


(第34話へ続く)

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